愛すべき不思議な家族 36
大きな欠伸をしたあとで、高木春道は青く澄みきった空を見上げた。あの日とは大違いだな。そんな感想を持つ。
それは春道が松島家を出た日のことだった。松島和葉の実家である戸家へ到着した時も小雨がパラついていたが、戻ってきても空はどんよりと曇ったままだった。
「ちょっと、アンタ。準備は終わったの」
柄にもなく感傷に耽っている春道に、頭上から声がかけられる。女性は女性でも恋人などではなく、実の母親だった。
元の部屋は他の人間が借りており、新たな居住を決めなければならなかった。そこで春道は一時的にマンスリーマンションを契約した。場所は以前に住んでた場所よりだいぶ離れてしまったが、そうでなくては手軽に借りれる部屋がなかったので仕方ない。
あの町からも離れようと考えていたので、丁度よかった。別に戸家での一件があったからではない。ただ単純に長く住んでたので、違う町へ行ってみたくなっただけだ。
基本的に必要最低限の物しか揃えない性格だけに、引越しの際もそれほど苦労しなかった。だからこそ、松島家へ移り住む時も簡単に済んだのである。パソコンとネット環境さえあれば、仕事をするのに場所を選ばない。
したがって、いきなり引越しをしても無問題なのである。それに以前住んでいた土地よりも、現在滞在している場所の方がずっと都会だった。世間的に有名な都市ほどではないにしろ、そこそこ大きくもある。
愛車で移動をしたのだが、当初は車線の多さに戸惑ったほどだ。ずいぶん長くあの町で暮らしていたのだなと、改めて実感した瞬間でもあった。こうしてひとりきりでの引越しを終えた春道だったが、その時を待っていたといわんばかりに電話が鳴った。
実家からの電話で、母親の妹――春道にとっては叔母さんになる人の娘が結婚したことを聞かされたのである。そして今日が結婚式の当日だった。
春道にしても従姉妹の結婚式となるため、参加しないわけにはいかない。そうした理由で、数日前から実家へ戻ってきていた。
母親に促されたので、仕方なく横になっていた居間の窓際から、自分の部屋へと移動する。春道の部屋は、実家を出た時と変わらないまま存在していた。
ため息をつきながら、春道はスーツへと着替える。普段着として使用しているジャージで、結婚式に参加するわけにはいかない。真っ白のネクタイをつけ、さらにもう一度ため息をつく。こうした展開になれば、式場でどんな会話になるかは想像に難くない。
春道はまだ、松島和葉と離婚したことを家族に話していない。従姉妹の結婚式でそれどころじゃなかったのも確かだが、事の他母親が春道の結婚を喜んでおり、とても「もう別れたよ」なんて言える雰囲気ではなかった。
そうこうしてるうちにズルズルと日にちだけが経過し、現在に至っている。早く話さなければと思っているのだが、なかなかその機会がやってこない。
着替え終わった春道は、自分の部屋から出て居間へ戻る。車で両親を送っていかなければならない。春道は飲酒するつもりがないので、行き帰りの運転手を務めると決まっていた。とはいえ、使うのは愛車ではなく実家にあるワゴン車だ。
結婚式会場へ、強烈なマフラー音を放つ春道の愛車で行くのはあまりに抵抗がある。両親が揃って口にした台詞だった。他ならぬ春道自身にも異論はなかった。下手に目立つよりも、その方がずっといい。
ふと、車に乗せてやると言っただけで、大喜びする少女の顔が思い出された。勝手に家を出てきてしまったので、もしかしたら泣いているかもしれない。――いや、それはないか。すぐに思い直す。
松島和葉が春道との結婚を決意したのは、あくまでも愛娘のためだった。それ以外に他意はなく、だからこそ共同生活を送るにいたって破格の条件提示をしてくれた。
しかし松島葉月が父親を執拗なまでの欲したのは、自分の母親のためだったのである。お互いがお互いを強く想っているのだから、これ以上春道が二人の間に入り込む必要はない。そう判断して、離婚届だけを残して共同生活を終了させた。
元々ドライな性格をしている女性だけに、松島和葉はすんなりと事実を受け入れるはずだ。問題は葉月だが、これも母親がきちんと説得するだろう。何せ、娘に干渉されるのをあれだけ嫌がってた人物だ。もしかしたら現状を喜んでるかもしれない。
今さら何を考えてるんだか。意外と女々しかった己の内面に苦笑する。自分勝手に出てきた人間が悩むことではない。もう春道と、松島母娘とは何の関係もないのだ。
リビングに着くと、すでに準備を終えた両親が待っていた。二人とも従姉妹の結婚を心から喜び、満面の笑みを浮かべている。春道から結婚の報告を受けた時も、こんな感じだったのかもしれない。
聞いた話によれば、親戚全員がこの家へ集まり、朝まで大騒ぎの宴会をしたらしかった。今でも嫁の顔が見たいと、何かにつけて催促されるほどだ。これまでは「そのうちな」と答えて逃げてきたが、もはやそうもいかない。
「元気がないな。どうかしたのか」
「やっぱりこの子、お嫁さんと喧嘩してるのよ。夫婦で招待したはずなのに、ひとりで帰ってきたからおかしいと思ってたの。何をしたのか、白状なさい。どうせ原因はアンタにあるんでしょ」
この場で「そうだ」と言ってもよかったが、そうすれば従姉妹のせっかくの結婚式にケチがつく。春道の現状を説明するのは後でいい。そう判断して「だから、何でもねえよ」といつもと変わらぬ口調で言葉を返しておく。
親戚には歳の近い奴らもいる。きっと同じようなことを言われまくるのだろう。だがそれくらいは、春道も覚悟して帰ってきた。どうせ結婚式が終われば、翌日か翌々日にはマンションへ戻るのだ。黙ってればいい。
けれど、両親には帰る前に説明しなければならない。悲しませる結果になるのは想像に難くなかったが、これもまた和葉との結婚を決意した時にわかっていたことだった。
「早く行くぞ。遅刻なんてしたら、洒落にならないだろ」
これ以上変な方向へ話が行く前に、春道はそう言ってひとり先に玄関へ向かう。直後にリビングのドアが閉じられた。どうやら両親もしっかりついてきてるみたいだ。
玄関から外へ出て、実家で所有している車の鍵を開けて運転席へ乗りこむ。続いて助手席に父親が、後部座席に母親が座った。きちんとシートベルトをつけたのを確認したあとで、春道はエンジンをかけるのだった。
会場は意外と広く、駐車場にも余裕を持ってとめられた。到着する時間としては最適だったらしく、大半の親戚連中がすでに集まっている。中には春道も見知った顔がいくつかある。
車から出ると、早速母親はその連中のところへ向かっていく。普段は父親方の親戚と会う機会が多いため、顔がいつもよりずっといきいきしていた。逆に父親が少し居心地悪そうだ。とはいえ無視もできず、母親のあとをそそくさと追いかけていく。
決して弱々しいタイプではないが、松島和葉の父親と比べればパワフルさでは劣る。だからといって、自分の父親にそれを求めているわけではない。もしそんなことになれば、高木家は毎日夫婦喧嘩が絶えなくなってしまうだろう。
「アンタも挨拶しなさい」
母親に言われるまでもなく、春道もそのつもりだった。お久しぶりですと差し障りない挨拶をするものの、相手が誰かまでは判別がつかない。子供だった頃に出会った記憶はわずかに残っているが、名前までは覚えていなかった。
「そういえば、春道君も結婚したのよね。今日はお嫁さんと一緒じゃないの?」
いずれくるとは思っていたが、会場へつくなりこの手の質問を浴びせられるとはさすがに予想外だった。やはりこの場でも「離婚したんですよー」なんて言えないため、一応愛想笑いを浮かべつつ「仕事が忙しいみたいで、ひとりです」などと答えておく。
「そう、残念ね。それも楽しみにしてたんだけどねー」
「それは私もよ。てっきり夫婦で帰ってくると思ってたのに、春道ひとりできたものだから離婚でもしたのかと思ったわ」
母親の言葉が、鋭い棘を持って春道の心に突き刺さる。図星なだけに、なんともツッコみようがない。いっそ肯定してしまおうかとも考えてしまう。けれど途中で思い直し、春道は母親へ「先に会場へ行ってる」と告げて、ひとりで歩き出す。
歳の近い親戚は大体が春道の結婚を知ってるらしく、顔を合わせれば奥さんを紹介しろと言ってくる。そのたびに同じ答えを返しているので、次第に疲労が溜まってきた。
それでもなんとかやり過ごし、なんとか結婚式のスタートまでこぎつけた。ここまでくれば全員式に夢中で、春道の話どころではないだろう。
……と思っていたのだが、甘かった。式が進んで酒が入ると、これまで以上に春道の結婚話を聞きたがる人間が多くなった。イベントの最中は従姉妹の結婚式を注目するが、お色直しに入ると途端に春道の周囲へ人だかりができる。
迷惑極まりないが、両親もいる手前、親戚連中に暴言を吐いたりできない。差しさわりのない応対をしつつ、花嫁の再入場を待つ。幼い頃に何度か会って遊んでるので、成長した現在でも当時の面影が見える。
もう少し感動を覚えてもよさそうだが、生憎とそれどころではなかった。これからお色直しのたび、先ほどみたいな事態になるかと思えばせっかくの料理も味がわからなくなる。
結婚か……。春道はふと考える。新郎新婦は常に満面の笑みを浮かべ、周囲もそれに負けないぐらいの笑顔で主役の二人を祝福している。まさに華やかという形容が相応しいイベントだった。
両親にとっても我が子の晴れ舞台となる。それだけに気合も入っていれば、緊張もしている。それでも親戚や友人から「おめでとう」と声をかけられれば、自分のことのように喜んでお礼の言葉を口にする。
こんなにも大事なものなのに、自分の都合から偽りに近い婚姻をあっさりと了承してしまった。だが春道は微塵も後悔してなかった。この流れであれば、本来なら愚かな過ちだったと悔いてもおかしくないのにだ。
「……もしかして、楽しかったのかな」
つい、そんな呟きが漏れてしまった。初めのうちは相手への同情と、己の損得勘定で始まった共同生活だった。それが色々な出来事を通過していくうちに、いつの間にか違う理由が発生していたのである。
今さら気づいたところでもう遅い。それに、互いの絆が強いと認識した松島母娘に春道の存在は不要。もしかしたら、新たな問題の火種となるかもしれない。これでよかったのだ。
会場内であてがわれた席は、春道一家しか座っていない。隣に空き席はあるが、出席人の名前は伏せられたままだ。他の人間が飲み食いをし、盛り上がりを見せる式の中で、春道は意を決して口を開いた。
「なあ、お袋……」
「どうしたの。せっかくの結婚式で、ひとり辛気臭い顔をして」
「ああ……そうだな……なんて言ったらいいか……」
「あら? どちら様かしら」
「そうなんだ。実はどちら様なんだよ。……ん? どちら様?」
「――初めまして、お義母様。私、春道さんの妻の松島和葉と申します」
背後から突然降り注いできた声は、とてもよく聞きなれた女性のものだった。
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