愛すべき不思議な家族 5
それにしても今日は大変な一日だった。帰宅するなり、春道は使い慣れた布団に身を投げ出した。
このところ信じられないような事態が、立て続けに身の回りに起こっている。
昨晩の松島和葉のプロポーズもそのひとつだった。女性にモテた経験のない春道だけに、その言葉は強く印象に残っていた。
だが喜んでばかりはいられない。元々破綻するのが前提で成立する結婚なのだ。
結婚すれば両親は喜ぶだろうが、離婚すれば悲しむだろう。けど今時の世界では離婚なんて、さして特別な出来事にはならない。やんごとなき事情があるケースは別にしても、世の大人たちが結婚と離婚を気軽に考えるようになってきた証拠だ。
当然、春道も最近の若者の部類に入る。性格の不一致ゆえに別れたと言えば、不審がる人間もいないだろう。
決断に問題はない。自分に言い聞かせたあと、遅くなった夕食をとるためにスーパーで買った惣菜をレンジで温めるのだった。
翌日、松島和葉から春道の携帯に電話がかかってきたのは夕方の六時過ぎだった。丁度仕事終わりくらいなのかもしれない。
ある程度時間に都合がきく春道とは違い、向こうはまっとうな職についているのだ。電話をこちらからかけるのは控えていたので、望んでいた展開となった。
電話にでると昨晩の続きを話したいとのことだったので、春道は近所のカフェを指定した。
松島家は春道のボロアパートとさほど離れてなく、真っ直ぐに向かえば昨日買物に出かけたスーパーとたいして変わらない距離だ。
近所の銭湯で偶然出くわすくらいなのだから、互いの家の距離がそれほどなくても不思議はない。
松島和葉は春道の申し出を了承し、三十分後に待ち合わせることになった。電話の向こうではずいぶん賑やかだったため、彼女の職場は恐らく市内の繁華街にあるのだろう。
自然風景が売りの田舎とはいえ、店が並ぶ活気溢れる通りのひとつくらいは存在する。
きちんと小・中・高と学校もあるし、交通の便もそれほど悪いわけではない。惜しむらくは、他県から人を呼べる特産品や観光名所がないことである。
万が一、目玉となるべきものがあったのなら、我が県の主要都市に発展していてもおかしくはない。長年居住している老人たちほとんどが、過去を懐かしんではそんな台詞を口にする。
だが春道は、この地はこれで良かったのだと思っている。程好い田舎感が好みにピッタリだったからだ。
しかし若者たちはそう思ってないようで、毎年のように他の発達した都市へと移住していく。戻ってくる人間もいるにはいるが、それでもここ数年はずっと総人口がマイナスの一途を辿っている。
一応市政も色々と対策を講じたりはしてるみたいだが、今のところ目立った効果は表れていない。
――と、いけない。もうこんな時間か。春道はパソコンのキーボードによる打ち込みを一旦停止させた。考え事をしながら仕事をしてるうちに、約束の時間が迫っていたのだ。
仕事の内容を保存してから電源を落とし、画面が真っ暗になったところでコンセントを抜く。こうすれば待機電力を無駄に消費しなくてもすむ。
それに万が一、落雷等で停電しても安心である。いくら毎日バックアップをきちんととってるとはいえ、仕事上のデータが全消去なんて事態はあまり好ましくない。
部屋着から急いで着替え、昨日とほとんど同じ格好で出かける。自慢ではないが、衣服に執着心を示さない春道は所持してる洋服の数が少ない。気に入った服しかあまり着ないので、ほとんど一張羅みたいになっていた。
夜が少しずつ近づいてきてるからか、外に出ると吹いてくる風はすでにひんやりとしている。車を使う距離ではないので、徒歩で松島和葉と落ち合う予定の喫茶店に向かう。
腕時計で現在時刻を確認すると、待ち合わせ時間までは残り十分程度だった。ここから喫茶店までは約五分。充分に間に合う。
途中アクシデントもなく、予想どおりにカフェへと到着した。リラックスという名前だが建物自体は古く、店名同様にリラックスできるかどうか外見だけで判断すれば、十人中十人が間違いなく不安だと答えるだろう。
しかし春道は、昭和の時代を思い起こさせるレトロな雰囲気が気に入っていた。もう午後の七時近いのに、店内にはまだしっかりと明かりがついている。客はあまり来ないものの、リラックスの閉店時間は午後八時なのだ。
ずいぶんと中途半端な閉店時間で、最初は春道も不思議に思ったものだった。
リラックスの閉店時間には田舎町ならではの事情があった。昨晩、春道が買い物に行ったスーパー系統の建物ならともかく、食事のできるお店は近辺ではこのリラックスしかないのである。
ひとり暮らしのサラリーマンたちの要望で、リラックスは善意で午後八時までやっているのだ。
喫茶店とは言いながらも、軽食の他にもサラリーマンたちには定食のメニューも用意されていた。枠に囚われない営業ができるのも、人生経験を充分に積んだ老人たちで経営してるからだろう。
かくいう春道も、何度となくリラックスのお世話になっていた。この店のミックスサンドは全体的にバランスがとれており、なかでも目玉のトマトはとても瑞々しく舌が蕩けそうになる。しかも春道が大好きなレモンティーとまたよく合うのだ。
春道のお気に入りセットを覚えていたのか、老婆のウエイトレスは注文も聞きに来ず、いきなりミックスサンドとレモンティーを座ったばかりの春道の席に持ってきたのだ。年配者ならではの細かな心配りも、常連客には人気のひとつだった。
夕食がまだだった春道は、有難くテーブル上のミックスサンドに手を伸ばした。ひと口で半分ほど一気に食したところで、リラックスのドアが再びガチャリと開いた。
古びた内装の店には似つかわしくない、黒のパンツスーツ姿の女性が颯爽と現れた。松島和葉である。寂れた店内が、たったひとりの女性の魅力で途端に華やかになる。
和葉はすぐに春道を見つけ、向側に着席した。これまで会った時はほとんどすっぴんだったのだが、仕事帰りなのもあって今日の彼女はしっかりと化粧をしていた。
水商売に励む女性みたいに色気を演出するメイクではなく、あくまで自然に己の美しさをアピールするかのごとく、ナチュラルなメイクを施している。ただでさえ驚くほどの美貌を誇っていた和葉が、より魅力的な存在へと変身していた。
町を歩けば、恐らく男女関係なく通り過ぎる人間が振り向くに違いない。普通の女性にそんな台詞を言えばお世辞になってしまうだろうが、この松島和葉にいたってはそうならない。
明らかに田舎町には浮いた存在で、洗練された都会の色気が全身から滲みでていた。すっぴんも綺麗だとは思ったが、化粧をするとここまでのレベルになるとは想像もできなかった。
春道の心臓は、思春期の中学生が初恋をしてるみたいにドキドキと高鳴っている。いくら落ち着いてくれと頼んでも、逆に鼓動は激しくなる一方だった。
「遅くなって……高木さん? 私の顔に何かついてますか」
「い、いや、何でもないないんだ」
ドギマギしながら春道は答えた。どうやら知らず知らずのうちに、松島和葉の顔に見惚れてしまっていたらしかった。
「昨日の話の続きをしようか」
照れ臭さと恥ずかしさから、顔面が真っ赤になってるのが自分でもわかった。少しでも冷静さを取り戻そうと、春道は話題をあえて自分から振った。
元々の目的だけに、待ってましたとばかりの勢いで和葉が話に乗ってきた。
「いつ頃からこちらへ住めそうですか」
老婆のウエイトレスにコーヒーを注文してから、松島和葉はズバリ春道に聞いてきた。
「荷物もそれほど多くないし、早くと言われればすぐにでも大丈夫だよ」
「そうですか。あの子も喜びます」
あの子とは言わずと知れた和葉の娘、松島葉月である。彼女がいると春道にべったりで話にならないため、今日は家で留守番をしてるのだろう。
もしかすれば、春道と和葉がこうして密談してる事実も知らないかもしれない。知っていれば、自分もついて行く言い出し、無理やりにでも母親に同行しようとしてもおかしくない。
「それにしても、いくら子供のためだからって、そっちは簡単に結婚を決めていいの?」
「問題はないです。それに形式的には結婚となりますが、実際には共同生活をするだけにすぎませんから」
松島和葉が一旦口を止めたのを待ってたかのように、タイミング良く老婆のウエイトレスがなみなみとコーヒーが注がれたカップをテーブルに置く。
ごゆっくりとひと言だけ残して、老婆はさっさとカウンターへと戻っていった。
早速カップに唇をつけ、コーヒーをひと口飲んでから和葉が言葉を続けた。
「あくまでお互いのプライベートを尊重しながら生活をしたいんです。もっとも、高木さんは子供が苦手というお話でしたので、それほど心配する必要はないと思いますが」
「なるほどね。こっちに干渉するつもりはないから、そっちにも構うなってことか」
昨日も確認したとおり、夜の夫婦生活も含まれてるだろう。大恋愛の末に一緒になるわけじゃない。好意を抱いてもいないのに、肉体を許す女性など存在しない。そのぐらいは春道も重々承知していた。
春道が全部理解してくれてると知ると、あからさまにホッとした様子を相手が見せた。そこまで肌を重ねるのは嫌なのかと、軽くショックを受ける。
確かに極上美人の松島和葉と、町中を探せばそこら辺にごろごろいそうなレベルの春道とではお世辞にもつりあってるとは言えない。
それにしても、先ほどの態度はあんまりである。とはいえ、相手が言っていたとおり、あくまで他人同士の共同生活。言わばルームメイトと形容するのが相応しいのだ。性生活を期待するのが無謀と言える。
それに当初の約束どおり、生活費や食生活等の面倒。加えて毎月の小遣いまで貰えるのであれば、肉体関係が持てるかどうかなど些細な問題にすぎなかった。
事前の契約に偽りがないか、改めて春道が確認すると、静かに和葉が頷いた。
「もちろんです。もともと無理を言い出したのはこちらなのですから、特別待遇を保障するのも当然です」
「それだけわかれば充分だ。荷物もそれほど多くないし、明日からでも早速引越しの準備を始めるよ」
「ありがとうございます」
テーブルの上で松島和葉がぺこりと頭を下げて礼を述べてきた。
「気にしなくていいよ。基本的に世話になるのは俺なんだから」
それに春道には急がなければならない理由があった。現在請け負っている仕事の納期が迫りつつあるのだ。必要以上に時間をかけすぎると仕事に失敗してしまう。
信用が第一の職種だけに、一度でも納期をオーバーしてしまうと、途端にクライアントからの依頼数が激減する・
どうしても多少は時間をロスしてしまうが、無事に住居の移動が完了すれば、家政婦のいる生活ができるようなものだ。
炊事や洗濯等の煩わしさから解放され、今までそれらに使っていた時間や労力を仕事に向けれる。そうすれば多少の遅れは簡単に取り戻せる自信があった。
「あ、そうだ。姓はどうする。夫婦別姓でいくのか?」
「私はそのつもりでしたが、高木さんは何かご不満ですか」
「いや、文句があるとかじゃなくて、そっちの意向を聞きたかっただけだ」
これから春道と和葉は、仮面夫婦と言っても相違ない関係になるのだ。事が正式にスタートする前に、入念に打ち合わせをしておかないと、いつボロがでて周囲に怪しまれるかわかったものじゃない。慎重すぎるくらいで丁度いいのだ。
「別姓はいいとして、高木さんって他人行儀な呼び方は止めてもらえるかな。仮にも夫婦になるんだから、さんづけでもせめて名前で呼んでくれないか」
要望に対して少し考える姿勢を見せたあとで、松島和葉は春道に承諾の言葉を伝えてきた。
「では、私のことも遠慮せずに名前で呼んでください」
「そうさせてもらうよ。こちらとしても両親に嘘をつかないといけないんだ。それも残酷な嘘をね。ならせめてバレないようにして、不出来な息子が無事に結婚できたという幸せな事実をあげたい」
春道の説明に和葉の顔が曇る。申し訳ない気持ちが強くなったからかどうかは定かではない。
「高木――いえ、春道さんはご両親と仲がよろしいんですね」
唐突に松島和葉がポツリと呟いた。
「何で?」
「先ほど、ご両親を悲しませたくないようなことを言ってらしたじゃないですか」
「両親がいたからこそ、今の俺がある。仲が良いとか悪いとかよりも、感謝の思いを持ってるだけだ」
「結局仲が良いってことではないのですか」
「感謝イコール新密度にはならないさ。現に俺はここ最近、ほとんど親と顔を合わせてなければ会話もしていない。大体そんな論理が通用するなら、この世界で人から感謝される職業に就いてる人間は皆大モテだろ」
「違います。感謝なんて単語が思い浮かぶ時点で、親子関係は良好なんです」
これまで冷静沈着を売りにしてたような女性が、何故ここまでムキになってるのか理由がわからない。もしかして、松島和葉は自分の両親とうまくいってないのだろうか。
さすがに気になったが、相手に必要以上に干渉しないと決めたばかりなだけに、そこらへんを聞いたりするのはルール違反に思えた。
考えてみれば、松島家の事情がどうなっていようと春道には関係のない話だ。
「とにかく夫婦別姓にして、互いに名前で呼び合う。必要以上の干渉はお互いになし。取り決めはこの程度でいいのか」
平行線を辿るだけの、両親との仲についての議論を延々と継続してても仕方ない。若干強引ではあるものの、春道は話題を変えた。
「はい。それで大丈夫です」
「引越しの準備ができ次第、そちらに電話を入れる。まさかそっちが不在時に、俺が勝手に出入りしてあれこれするわけにもいかないだろ」
あくまで家の持主は松島和葉なのだ。もちろんすぐに「そうですね」と相手は首を上下させる。
ここで春道はある事に気づく。お互いの両親への挨拶と結婚報告だ。結婚までの流れを考えると大袈裟な式をあげる可能性は低いが、顔合わせ等はしないとさすがにマズいだろう。
報告等に関して春道が尋ねると、意外にも松島和葉は必要ないと首を左右に振った。
「あの子にはもう結婚してあると伝えてますし、両親には葉書や電話で報告します」
常識的に考えてそれはどうかとも思ったが、春道自身フリーのプログラマーとして仕事を始めてから、忙しさ等もあって友人の数は極端に減っていた。
それに両親も、春道が決してマメな性格の持主ではないと知っている。和葉の望みどおりにしても、あまり不信感は抱かれないかもしれない。
わかったと言葉を返すと、またもや松島和葉がお礼を口にした。一応、自分でも非常識な要求をしてると理解してるのだ。
結局、後日文章のみの葉書で両親や友人に報告する方向で話はまとまった。
「世間一般的に浮気と呼ばれる行為をされても、なんら問題はありません。厳密に言えば浮気にはならないのでしょうし。ただ、葉月にだけはバレないようにして下さい。あの子を悲しませたくはないですから」
「わかった」
春道は一応そう答えたが、生まれてから今日まで性交の経験はないのだ。そんな男性がポンポンと浮気なんて行為をできるはずもない。あえて己の恥を晒す必要もないので、わざわざ説明する気もない。
ふと店内にある壁時計を見ると、もうほとんど閉店の時間だった。客もすでに春道たち以外はいない。
心優しい老人スタッフたちは、それでも客を急かしたりはしない。客が居たがれば、閉店時間を過ぎても営業を続けてくれる。
何度か閉店時間ギリギリに来て食事をしていたため、身を持って知っていた。いついかなる場合においても、ここの従業員は常に客を優しく出迎え、接してくれるのだ。
だからと言って、好意に甘えるつもりはなかった。話すべき事案はほとんど終わっているし、これ以上粘る必要がないからだ。
松島和葉も同意見のようで、見ればすでに席から立とうとしている。
「では、近々ご連絡があるのをお待ちしています。今日は有難うございました」
立ってから頭を下げると、和葉は春道が止める間もなく伝票を持って、カウンターへと向かっていった。
男が女性から奢られるのはなんだか恥ずかしかったが、これからはヒモのような生活を春道は送るのだ。
年収がそれほど多くないだけに、背に腹は変えられないのが現状だとしても、嬉しい反面やはり情けなくも思う。
結局、春道は和葉が代金を支払うのを黙って見届け、店の外で別れたのだった。
面白かったら一言感想頂けると嬉しいです。
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