リセット

   1

 もう、疲れた。
 人生六十余年生きてきて、辿り着いた感想がそれだった。
 幼い頃から何をやってもうまくいかず、この歳まで一度も幸せなんてのを実感したことはない。寄り添ってくれたのは孤独だけである。
 自分の人生は何だったのか。心の中で愚痴たところで、己でさえも飽き飽きして聞きたがらなかった。
 名前は梶谷哲郎。中堅の信用金庫へ定年まで勤めたあと、今は前の職場から紹介してもらったところで経理のアルバイトをしている。
 いわゆる天下りとは違うため、ほとんど働かずに高給を得る夢みたいな生活はできない。普通のアルバイトと変わらずに、時給いくらで働いていた。
 もっとも何か夢中になってる趣味があるわけでないため、生活費を稼げれば充分だった。
 結婚もしておらず、仲の良い友人もいない。親友だと思っていた人間は、銀行を辞めると同時に離れていった。
 別に、驚きも嘆きもしなかった。銀行員をしてきただけに、そうした人間を多少なりとも見ていた。
 自分も同じ立場になったのだと、ある意味普通に受け入れた。
 酒も飲まなければ、煙草も吸わない。博打もしなければ、女遊びもしない。ないない尽くしで、ふと気づけば何をしていいかもわからなくなっていた。
 仕事があれば会社と家を往復するだけ。休みの日の食料も仕事帰りに購入しておき、休日は家でただテレビを見ている。
 バラエティなどにも興味はないため、もっぱら教育番組ばかりをつけている。
 とりたてて好きなわけでなく、一日中ボーっと眺めてても邪魔にならないから。それだけの理由だった。
 自害するつもりはないけれど、何のために生きてるのかと問われても、明確な答えを示せない。命があるから、生きている。そんな感じである。
 無意味さはやがて無気力に変わり、活力を根こそぎ奪う。あとには残ったのは、灰になった若かりし頃の情熱ぐらいだ。哲郎は自嘲気味に笑った。
「……ん?」
 悩みすぎても仕方ないので、とりあえず家に帰ろうと決めた時だった。
 前方に誰かが倒れている。だけれど、この都会では誰もが、そうした人を見て見ぬふりをする。
 田舎に生まれてた哲郎が、上京したての若かりし頃は、その無関心さが信じられなかった。
 しかし人間とは慣れる生き物であり、哲郎も例外ではなく、次第に困ってる人の隣を足早で通り過ぎても、何とも思わなくなった。
 いつもの哲郎であれば、気にも留めなかっただろう。けれど、何故だか今日はそうした行動をとれないでいた。
 近づいてみると、無数の車が通り過ぎるすぐ横の歩道で、ひとり倒れこんでいるのは、みすぼらしい恰好をした老婆だった。
「お婆さん、どうかしましたか」
 相手をお婆さんと呼んだ自分に、内心で苦笑した。
 そういう哲郎だって、世間一般の物差しで言えば老人の部類に入る。
 哲郎の心の内がわかるはずもない老婆は、どうして声をかけたのかとばかりに不思議そうな顔をしていた。
 ほんの少しの沈黙を経て、ようやく哲郎が親切心で話しかけたのだと理解したみたいだった。
「じ、実は……」
 恐る恐る理由を告げようとした老婆だったが、話を聞くまでもなく哲郎は相手の事情を理解した。
 話をしようとした矢先に、グーっとお腹の音が周囲へ大きく鳴り響いていた。
 要するに目の前へいる老婆は、極度の空腹で倒れてしまったのだ。理由がわかれば、おのずと解決策も見えてくる。
 丁度仕事帰りの哲郎の両手には、つい先ほどコンビニで購入したばかりの食料が詰まったレジ袋があった。
 明日と明後日が休みだったため、今日の夕食分も合わせて調達したので、その量たるやかなりのものだった。
 事情を聞いた以上は放ってもおけないため、哲郎は「食べますか」と食料の入ったレジ袋を老婆へ差し出した。

 こちらの動作に対して、最初は挙動不審気味だった老婆も、袋の中身が食料品だとわかると、奪い取るようにレジ袋を引っ張った。
 街行く人々の目を一切気にせず、道路のど真ん中で袋の中身をぶちまけると、おにぎりや菓子パンなどを貪るように平らげる。
 よほどお腹が減っていたのか。実に豪快な食べっぷりに、哲郎は立ったまま呆然とする。
 老婆へ食料を与えたシーンを見ても、都会の通行人たちは特に興味を示さない。時折、物好きな奴だなといった視線を、哲郎へ向けてくるだけだった。
 実際にそのとおりなのだから、こちらを見ていく人に文句を言うつもりなどなかった。自分でも充分に、物好きなことをしてるとわかっていた。
 哲郎が購入した小さなペットボトルのお茶をゴクゴクと飲み干し、ようやく老婆はひと心地ついたみたいだった。
 レジ袋の中にはまだ食料が残っており、それを気にしてるような様子だったので、哲郎はため息まじりに「全部差し上げますよ」と告げる。
 中堅の銀行とはいえ、定年まで勤めたことでそれなりの退職金も手にしている。食うに困らない程度の貯蓄もあるし、こうしてバイトもできている。
 数日分の食料を老婆へ与えたところで、大きな影響はなかった。
「……すまないね」
 しわがれた声で、老婆がお礼を言ってきた。
 何かの気まぐれで食料を与えたが、哲郎としてもこれ以上の深入りをするつもりはない。まとわりつかれでもしたら、いい迷惑である。
「気にしないでください。それでは、私はこれで失礼します」
 銀行員だった頃の癖で、初対面時には相手が誰であろうと自然に丁寧な口調になる。
 定年直後に一度だけ直そうかとも考えたが、別に困るわけでもないので放置しておくことに決定して現在に至る。
 暗に貴女との関係はこれまでですよと告げた上で、哲郎は足早にこの場から立ち去ろうとする。
 けれどその前に老婆が「少し待ちなさい」と、哲郎を引き止めた。
「……自害なんて、考えない方が身のためだよ。世間では簡単にその手のニュースを垂れ流しているけれど、真似しようなんて思ったらいけない」
 何でしょうと用件を尋ねようとした哲郎が口を開くより先に、老婆は忠告じみた台詞を言ってきた。
 何故、そんなことを自分に言うのだろう。疑問に思っている哲郎へ、心の声が届いたかのごとく老婆は「アンタが疲れきった顔をしてたからさ」と理由を告げた。
 ご忠告感謝しますとでも言って、相手にしなければよかったのだが、どうしてか哲郎は老婆の言葉に応じてしまった。
「……まるで、自害を経験でもなさったかのような言い方ですね」
 言ったあとで、これでは相手に失礼すぎると反省したが、老婆は意に介してない様子で「フフフ」と不敵に笑った。
「さて、どうかね。まあ、アタシのことはどうでもいいよ」
 これからが本番だとでも言いたげな態度を見せたあと、ボロボロの衣服内へ老婆が手を入れた。上着に内ポケットでもあるのか、ゴソゴソと何かを探している。
 相変わらず周囲の視線を意に介さず、多数の人々が往来する道路上で、名前も知らない老婆が何かを取り出した。
「アンタ……人生をやり直したいと思ったことはないか」
 突拍子もない質問に、思わず哲郎は「は?」と間抜けな返事をしてしまった。
 妙な恥ずかしさに襲われたが、それよりも問題は老婆の発言の真意である。
 何かを企んでるのかもしれない。用心するに越したことはないが、ここで嘘をつく必要もないと考えた。
「そ、それは……ありますよ。私も普通の人間ですからね」
 あの時に戻って、もう一度同じシーンに遭遇できたら。眠る前に、布団の中で戯れにそんなことを考えた夜もある。
 けれど所詮はたわ言にすぎないと、想像を途中で止めて頭の中のゴミ箱へ放り投げた。
 その時の情景がふと蘇り、夕暮れが迫りつつある街中で哲郎は苦笑した。
「それなら話は早い。実際にやり直せる方法があるといったら……どうするかね?」

 あまりに現実離れした老婆の言葉に、哲郎の時間が数瞬だけ停止した。
 相手が何を言ってるのか、すぐには理解できなかったのだ。やがて正気が戻ってくると、たまらず吹き出してしまった。
 失礼な行為とわかっていたが、我慢できなかった。そして、老婆も怒ったりしない。まるで、笑われるのを最初から知っていたみたいだった。
「笑いたくなるのも、理解できる。しかし……アタシは嘘は言ってないよ」
 老婆の目は真剣そのものだ。年配の女性とは思えない迫力に、思わず後退りしそうになる。
「ですが、過去に戻れるという話を、簡単に信じれるはずがないでしょう」
 ファンタジーの世界に逃避行してる人間でなければ、哲郎の反応は人として当たり前だった。
 過去に戻れる方法の存在を簡単に信じてたら、人生で何度騙されればいいのかわからない。それぐらい、荒唐無稽な話なのである。
 けれど老婆は不敵に笑うばかりで、上着から取り出した何かを哲郎に渡そうとしてくる。
 何かの正体もわからないまま簡単に受け取って、法外な料金を請求されたらたまらない。まずは老婆が持っているものを確認する。
「これは……何かのスイッチですか……?」
 手のひらサイズの白く小さな四角い板みたいな感じで、真ん中には黄色い押しボタンがひとつだけ存在している。
 デパートなどで似たような商品は見たことがなく、視覚からの情報だけで物体の名称を答えるのは不可能だった。
「そうさ。過去に戻れるスイッチだよ」
 そう言って、老婆がニタリと口元を歪める。
 怪しさ全開の妙な迫力が、哲郎に「そんなもの、あるわけないでしょう」と笑い飛ばすことを許さなかった。
「安心しなよ。別に売りつけようってわけじゃないんだ。食料を恵んでくれたお礼に、アンタへタダであげるよ」
 相手の発言が真実であれば、別段役に立たなくても何ら影響はない。単に家のゴミが増える程度だ。しかし、この世にはタダより高いものはないという言葉がある。
 それに、疑問はまだ残っている。
「貴女が持っているスイッチで、本当に過去へ戻れるのであれば、実行するべきではありませんか?」
 老婆の現状を見るに、とても裕福な暮らしをしてるとは思えない。それどころか、人間として最低限の衣食住が保障されてるかも怪しいぐらいだ。哲郎よりも、相手の方がよほど過去へ戻る必要があるように思えた。
「……アタシはこれでいいのさ……終われるなら、それだけで満足なんだよ……」
 視線を下に落すと、老婆は沈痛な面持ちで呟いた。
 この世の責め苦をすべて一身で受けてきたかのような雰囲気に、哲郎はこれ以上何も言えなくなる。
「けれど、アンタは違うんだろ? このスイッチを使えば、過去へ戻ってやり直せる。もちろん、使うも使わないもそっちの自由さ」
 再び哲郎の目を見てきた老婆は、グッと手を伸ばしてスイッチを受け取るように催促してくる。
 相手の迫力に飲まれたのか。できるなら、本当に過去へ戻りたいと思っていたせいか。気づけば、哲郎は老婆からスイッチを受け取っていた。
「戻りたい場面を想像して、スイッチを押すだけでいい。過去で本当にそのようなシーンがあれば、間違いなくそこへ戻れる。あとは……アンタ次第さ」
 言いながら老婆は、哲郎から貰った食料で、食べきれなかった分をレジ袋へ詰め込んでいる。
 道路に散らばっていた食料品が戻り、ふくらんだレジ袋を抱えてその場に立ち上がった。
「それじゃ、私はもう行くよ。本当に……ありがとうね……」
 深々と頭を下げた老婆は、哲郎が驚くぐらいに両目から大量の涙を流していた。


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