リセット

   26

「うわあっ!」
 飛び起きると、哲郎は見慣れない部屋にいた。
 ――いや、正確にはよく見慣れている。ただ、最近はここで過ごしていないので忘れていた。
「……俺の……部屋……?」
 ひとり暮らしをしている場所ではなく、実家に存在している哲郎の部屋だった。
 布団の中に入っており、先ほどまで眠っていたのだと理解する。
 里帰りなどした覚えがないのに、どういうわけか実家にいる。
 頭がこんがらがって、爆発でも起こしそうだった。
「確か、俺は……」
 呟きながら、自分の身に起きていた出来事について考える。
 哲郎の脳が破損してなければ、水町玲子の店へ赴き、そこで衝撃的な情報を聞かされた。
 大手製薬会社の社長の愛人になったというのだ。それが信じられなくて、悔しくて、気づけば店のボーイに殴りかかっていた。
 だが返り討ちにあった挙句、店から出てきた用心棒らしき男たちに裏路地まで連れていかれ、そこでボコボコにのされた。
 耐え難い苦痛にまみれて呻いているのが、哲郎が所持している最後の記憶になっている。
 あれほどの暴行を受けたにもかかわらず、哲郎は自身の肉体に痛みを感じない。何がどうなってるのかと、手で殴られたはずの部位を触ってみる。
 すると、とある異変に気づいた。何かが違う。直感的に察知した哲郎は、鏡を探そうとした。
「哲郎。何してるの? 学校へ遅れるわよ」
「えっ!?」
 ドアの外から話しかけられた声を聞いた瞬間、鏡のことなど、どうでもよくなっていた。
 もう二度と聞けないと思っていたはずの声が、哲郎の名前を呼んだのである。
「か、母さん……?」
 恐る恐るドアの向こうへ声をかけると、何を言ってるとばかりの様子で「どうしたの」と返ってきた。
 嬉しさで涙が溢れそうになったものの、ますますわけがわからなくなる。
 哲郎が歩んでいた人生では、すでに母親は他界していた。人が生き返るなど、小説じゃあるまいし、現実ではあり得ない。
「朝ご飯できてるから、早く起きてきなさい」
 それだけ言い残して、母親は居間へ戻っていった。
 まさか、男たちに殴られたのは、ただの夢だったのだろうか。起床時には、寝巻きをびしょびしょに濡らしていた寝汗も、すでにひいている。
 状況を把握しきれないまま立ち上がった哲郎は、ここでさらなる違和感を覚える。
 昨日までと、見ていた景色が違う。場所が移動していたとかではなく、高さが異なっている。
 頭を叩かれすぎて、背が縮んだとでもいうのだろうか。いや、そんな話があるはずもない。何かの間違いだ。
 そこまで考えたところで、ようやく哲郎はひとつの結論へ辿りついた。
「まさか……」
 呆然と呟いたあとで、机の上を見ると、引き出しにしまっているはずの例のスイッチがちょこんと佇んでいた。
 しかもなにやら、スイッチ全体がチカチカと点滅している。輝きがあまりにも不気味に感じ、思わず哲郎はビクっとした。
 ひとり暮らしをする際にも持っていっているので、実家にあるわけがない。ただし、哲郎が昨日まで存在していた人生ならばの話だ。
 慌てて机の側まで駆け寄り、机の上にあるスイッチを手にとって、いつか見た注意書きを確認する。
 ――事故等で生命を失った場合、自動的にスイッチが作動して、権利者を直近の分岐点となる過去へ運ぶ。その際のペナルティ等は、一切発生しない。
 見つけた一文に、哲郎の背筋が寒くなる。生命を失った場合……考えるだけで、全身に震えが走った。
 けれど、そう考えると己の身に起きた事象すべてに納得がいく。男たちによる暴行は、哲郎にとって不慮の事故となったのだ。
 もしこのスイッチを所持していなかったら……。生まれて初めて味わう極限の恐怖に、奥歯がガチガチとぶつかり合う。
 数度の深呼吸を繰り返し、なんとか気持ちを落ち着けられたのは、それから十数分後のことだった。

 部屋から出てようやく居間へ行くと、食卓の上に朝ご飯を用意した母親の小百合が待ちわびていた。
 父親の梶谷哲也はすでに出勤していた。遅刻寸前の時間であるため、哲郎は慌てて朝食をとる。
「昨日、晩御飯も食べないで、ずっと部屋にこもっていたけれど、何かあったの?」
 母親の梶谷小百合が、心配そうに哲郎へ声をかけてきた。
 現在の哲郎は、例のスイッチの効力で、歩んでいたはずの人生をリセットされている。
 途中で存在している分岐点まで強制的に戻され、こうしてやり直しの人生をスタートしている。
 幼くなった自分の容姿や、母親の言葉を合わせて考えると、どうやら中学生の頃まで戻されたみたいだった。
 しかも、恐らくは水町玲子からの手紙を貰った次の日の可能性が高い。つい先日まで、どれだけの労力をつぎ込んでも、結局は自分の思うとおりにはならなかった。
 その点を考慮すれば、人生を巻き戻って、結果的に良かったのかもしれない。何より、乱暴した男たちのような手合いとは、もう関わりあいになりたくなかった。
 朝ご飯を食べ終えた哲郎はさて、と考える。まずは最初の二択から、自らの歩むべき道を選ぶ必要がある。
 このまま水町玲子を諦め、新たな方向性を探る。もうひとつは、やはり水町玲子をあくまで想い続けるというものだった。
 悩む必要もなく、答えはすぐに出た。水町玲子を諦めるのなら、もっと前に戻ってやり直し、哲郎に告白してくれた貝塚美智子の想いを受け止めるべきだ。
 行う意思がないのは、未だ水町玲子へ未練たらたらな証拠だった。もはや何度失敗したかわからないが、幸いにして哲郎にはやり直す特権がある。
 問題はその次の二択だった。すぐに恋人の少女のもとへいくか、それともせめて中学校卒業まで待つべきか。以前の哲郎なら、すぐに後者を選んでいた。
 だが相手女性の思いをすでに知っており、なおかつ、ほんの少し前に心からの屈辱を味わったばかりだった。
 愛しい女性が他の男のものになるシーンなど、二度と見たくなかった。哲郎は決意をして、家を出た。
 学校へ行くふりだけで、近所に隠れながら、母親の小百合が外出するのを待った。
 小百合が夕食の買物のために、日中に出かけるのを見届けてから、哲郎は自宅へ戻る。
 その際に贔屓の商店へ向かおう母親の背中に、心からの謝罪を送った。
 これから哲郎がしようとしているのは、親不孝以外の何でもなかった。
 へそくりの隠し場所は、幾度も人生をやり直したおかげで、充分すぎるほどに知り尽くしている。
 家中からかきあつめたお金があれば、当面の生活は何とかなる。
 未来であれば保証人もなく家を探すのは困難だが、この時代であれば中学卒業したと嘘をつけば、住み込みで雇ってくれるところもある。
 ボロくてもいいからアパートを借りて、そこで水町玲子と二人で生活をすればいい。想いを成就させたい哲郎は、半ば執念のみで行動していた。
 簡単な荷物をまとめたあとで、探さないでくださいと食卓に書置きを残す。人として最低なのは理解できていたが、哲郎は燃え上がる自分の感情を抑え切れなかった。
「今すぐ行くからな。待っててくれよ、玲子」
 へそくりがなくなれば、両親が困るのは知っている。数年後に、母親が事故で他界するのもわかっている。
 それらすべてをいわば見捨てて、哲郎は自分の望みだけを叶えようとしている。
 許してほしいとはとても言えず、恨んでくれて構わないと思いながら住み慣れた実家をあとにする。
 母親が帰宅する前に旅立つ必要があった哲郎は、全速力で駅へ向かうと、切符を買って東京行きの列車へ飛び乗った。

 中学生時代に東京へ来た経験がないだけに、哲郎の知っている風景とは微妙に違っていた。
 近代的な建物も並び始めているが、まだまだ発展途上という感じを受ける。これから本格的に高度成長期を迎え、加速度的に進化していくのだ。
 首都の歩みをじっくり眺めるのも幸せかもしれない。そんなことを考えつつも、哲郎は足早に目的地へ向かっていた。
 一度行ったことがあるので、手紙に記されていた住所を見れば、ほとんど迷わずに東京の水町家へ辿り着ける。
 一家揃って夜逃げしたあと、一体どんな生活をしていたのか。勝手な想像をしては、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
 辿りついた廃れた一軒家。風が吹けば崩れそうなくらいボロく、人が快適に住めるような環境には見えなかった。
 明らかに人目を避けてるのがわかり、近所で噂になるのもある意味当然だった。
 いきなり訪ねて、水町玲子の両親に不信感を持たれてもマズいと考え、恋人の少女が通ってるであろう学校から帰宅するのを待つ。
 けれど夕方近くになっても、水町家の人の出入りはなく、まるで空き家みたいにひっそりしていた。
 夜逃げをした手前、表立って行動できないのだろうか。そんなことを思っていると、家の中から誰かが出てきた。
 哲郎の知らない大人に連れられた水町玲子だった。少し沈んだ顔で、すぐ前を歩く男性の背中についていっている。
 悪趣味なのはわかっていたが、気になった哲郎は水町玲子たちを追いかける。
 すると見慣れた歓楽街へやってきた。スイッチにより、人生の分岐点まで強制的に巻き戻される前、何度も通った場所だった。
 ここの一角に、大人になった水町玲子が働いていた飲食店がある。大人の男性は、そこへ少女を連れて行った。
 入口の前で何かを告げてから、ひとりで店の中へ入っていく。恐らくは、店内にいる責任者に水町玲子を紹介するつもりなのだろう。
 世間の汚い部分もある程度知っているだけに、これからどんな展開が少女を待ってるのかは容易に想像できた。
 年齢を誤魔化して、飲食店で働かせるつもりなのだ。借金で首が回らなくなり、夜逃げをしたのだから、得た収入を返済に充てるとは考えにくかった。
 あくまで予想でしかないが、素性を誰にも知られたくない両親に代わって、氏名や出身地を偽らせて娘に働かせるつもりなのだ。
 家の中で商談がまとまり、あとは店長に新人を紹介するだけ。言い換えれば、水町玲子は両親に飲食店へ売られたのである。
 借金も夜逃げも、探せば同情すべき点があるかもしれない。けれどこの件だけは、どう頑張っても水町玲子の両親を擁護できなかった。
 恋人の少女がひとりになった隙を狙って、哲郎は足早に水町玲子へ近づいた。
「玲子っ」
「えっ!? て、哲郎君!?」
 いきなり現れた哲郎の姿に、水町玲子もさすがに驚いている。
 目を丸くしたあとで、何かを話そうと口を開くが、言葉は出てこずに唇だけが忙しなく動いている。
「ここがどんなお店か、わかってるのか」
 先ほどまで水町玲子と一緒にいた男性が、いつ戻ってくるかわからないので、急いで用件だけを告げようとする。
「ど、どんなって……お父さんとお母さんは、男の人とお話をして、お酒を注げばいいんだって……」
「本当にその言葉を信じているのか?」
 少女の曇った表情を見てれば、疑念を覚えているのがわかる。
 けれど現在の玲子には両親の他に頼る人間もおらず、不安であろうが従うより道はなかった。
 だが哲郎の登場で、相手少女の状況は一変した。
「俺と一緒に行こう」
 出発前に意を決していた哲郎に迷いはなく、大好きな少女に手を差し伸べた。


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