リセット

   29

 朝ご飯を食べたあとで、哲郎と水町玲子は電車に乗って他の街へ移動した。
 両親が隠れている土地に滞在していれば、いずれ発見される可能性が高いからだ。乗り気でなかった玲子を説得し、なんとか哲郎は新たな土地に最初の足跡を残した。
 都会よりも、田舎町の方が好都合だと判断した。労働力は不足気味なので、身元確認もないも同然なのではないかと考えたのも理由のひとつだ。
 歩き回った末に見つけたのは、人の良さそうな中年男性が経営している新聞販売所だった。そこで住み込みで配達の仕事をさせてもらえることになった。
 販売所は二階建てになっており、一階はそれこそ販売所を含めて事務所としても利用されている。二階には数部屋あり、従業員が利用していた。丁度空いている部屋があったので、哲郎と玲子はそこを生活拠点とするのを決めた。
 男の哲郎はもちろん配達員として雇われたが、若い女性の水町玲子に同様の仕事は厳しいと判断された。そのため、販売所で事務の手伝いをすることになった。
 贅沢を言える立場ではないので、哲郎も玲子も所長の案を受け入れる。まだ中学生の二人が生きていくには、誰かの助けが必要だった。
 とはいえ二人とも、すでに中学を卒業していると年齢を偽っている。それでも採用されたのは、公的機関の書類の提出を求められなかったからだ。
 全員そうだとは言い切れないが、こういう店は意外と訳ありな人間が集まりやすい。それだけに厳しい採用基準はないのである。
 以前の人生で信用金庫の職員として勤務していた頃に、先輩から教えられたのを覚えていた。ゆえに、哲郎は真っ先にこういう類の販売所を探した。
 今のところという言葉が前につくものの、とりあえずは計算どおりの展開になっている。
 真正面からの正攻法でなんとかできない以上、こうした手段に頼るのは仕方のない一面もあった。
 明日から働くことになり、まずは割り当てられた部屋にわずかばかりの荷物を置く。四畳一間の部屋は布団を二つ敷けば、もう一杯一杯だった。
 この小さな部屋を二人で使用するケースも多いらしく、最初から二つの布団が畳の上に置かれていた。
 押入れすらもないので、貴重品の管理にはいつもよりも気を遣う必要があった。ただでさえ、哲郎は両親から盗んだともいえるお金を所持している。
 巾着袋にまとめて入れてあるが、それをズボンのポケットなどに小分けする。そうすれば万が一、誰かに盗まれたとしても被害は最小限で済む。一緒に住む少女にも説明し、いくらかの金額を持たせる。
 相手の少女に責任を感じさせる必要はないので、哲郎が小さな頃から貯金してきたものだと教える。
「そうなんだ……私にもあったんだけど……それは、お父さんたちが使ってしまったから……。ごめんなさい。私、何の役にも立ててないね……」
 住み慣れた町から夜逃げし、そのままほぼ軟禁状態にあったのだから、何の備えもなくて当然だった。
 さらにいえば、哲郎と水町玲子の逃走劇自体、前もって計画されていたものではない。心構えができてなかったであろうに、ついてきてくれた相手少女に感謝すらしている。
 そんな哲郎が、玲子を役に立たないと論ずるわけがなかった。心配させないように「一緒にいてくれるだけで十分だよ」と告げる。
 キザな台詞を言った経験が少ないので気恥ずかしかったが、哲郎の思いは無事に水町玲子へ伝わったみたいだった。
「うん。私も……哲郎君がいるだけで……幸せよ」
 感動してくれたのか、若干涙ぐみながら、途切れ途切れにそんな言葉を返してくれる。今の哲郎には、それだけで十分だった。
 水町玲子と一緒なら、貧乏でも苦労が多くても頑張っていける。そう確信した。

 翌日から、哲郎と水町玲子の新たな生活がスタートした。
 社会に出て働いた経験はあるものの、新聞配達という職業は初めてだった。
 それでも一応の心構えはできていたので、比較的スムーズに仕事へ就くことができた。
 地図を手渡され、自転車に乗って契約している各家庭へ新聞を届ける。
 遅れたりすることがあればクレームは必至。それが原因で解雇される可能性も出てくる。
 懸命に自転車のペダルをこいで、地図に印がつけられている地域への新聞配達をする。
 まだ朝も早いので、冷たい風が肌へ突き刺さる。最低限の荷物だけを持って実家を出たので、寒さをしのぐための衣服までは準備してなかった。
 その点に関しては、建物内である事務所で仕事をしているはずの水町玲子は大丈夫だろう。とはいえ、心配の種は尽きない。
 水町玲子は本来ならまだ義務教育中の中学生で、年齢を偽って就職している。
 本人も納得してるとはいえ、法律違反の状態で働くのは後ろめたさを伴う。加えて、未だに両親を心配してるのは明らかだった。
 働くのも初めての状況下で、注意力散漫になったりすれば時としてとんでもないミスを犯す。しっかりした性格だからと安心できないのである。
 だが、いつまでも一緒に逃げ出した少女の心配だけをしていられなかった。
 哲郎の仕事も十分すぎるほど過酷だったからだ。傍から見てる分には楽そうでも、実際に経験すると、とてつもない勘違いだったのがわかる。
 新聞上に関する様々なクレームまで、配達員である哲郎がぶつけられるのだ。どうせなら、本社でかけてもらいたいものだが、客がその辺の事情を考慮してくれるはずもなかった。
 特に哲郎のように年齢が若い配達員となれば、情けも容赦もない。日々の仕事のストレスまでぶつけられるのだから、たまったものではなかった。
 それでも真剣にクレームを聞き、深々と頭を下げて謝らなければならない。事前説明がなかったからといって、販売所の責任者へ文句を言うのもタブーである。
 これも仕事のひとつであり、無事にこなして初めて給料を受け取れる。
 日給として受け取れる契約になっているので、とにかくすべて配達し終えて販売所へ戻らなければ、一円の稼ぎにもならないのである。
「これで……全部か……」
 夜のうちに出発したはずが、気づけば空は明るくなっていた。
 家の前で体操をしている人に挨拶をされれば、疲れていても笑顔で挨拶を返す。どこどこの配達員は愛想が悪かったなんて噂が広まれば、それこそ大変だった。
 社会人に必要なのは斬新なアイデアを生み出す想像力でなければ、類稀な話術でもない。ひたすら我慢できる忍耐力だ。
 これが長年の社会人生活において、哲郎が見つけた解答だった。とはいえ、あくまで個人的見解なので、この世に生きる誰しもに当てはまるわけではなかった。
 当初は肌寒く感じていたが、帰る時には汗ばむぐらいになっている。
 スクーターや車があれば楽なのだが、この時代にそんな高価な乗り物を業務用として使わせてくれるはずがない。
 甘い期待を抱くより、状況に慣れるべきだと判断する。どう足掻いても、頼るところのない哲郎は自力で生きていくしかないのだ。
 だがこれも水町玲子と一緒に暮らしていくために必要な作業だと思えば、喜んで歯を食いしばれた。
 水町玲子がどんな仕事をしているかは不明だが、帰ったあとで朝食でもとりながらゆっくり話せばいい。
 朝刊を配達し終われば、夕刊近くまでは一時的に自由時間となる。水町玲子が仕事中だったとしても、昼休みぐらいはあるはずだ。その時にお互いの仕事内容を報告し合おうと考える。
 愛する女性の顔を見て、声を聞いて、夕刊配達時に頑張れる労力を養おう。そう思えば、帰りの道中が少しだけ楽しくなった。

「あ、お帰りなさい」
 販売所へ戻った哲郎を出迎えてくれたのは、愛しい少女の笑顔だった。
 年齢は若いかもしれないが、お互いに真剣に愛し合っているという確信が哲郎にはある。
 いつかみたいに、誰かに決して取られてたまるか。そんな強い思いが、周囲へ対する視線を厳しくさせる。
 けれど販売所の所長は基本的に良い人であり、水町玲子にセクハラじみた行為などは一切してないみたいだった。
 それどころか哲郎が帰って来るなり「少し休憩すればいいよ。一緒に朝ご飯を食べておいで」と言ってくれた。
 好意に甘えることにした哲郎は、水町玲子とともに外へ出て、近くの食堂へ入った。
 まだ洋食店などの数はそれほど多くなく、こじんまりとした和食中心のところがほとんどだった。
 そこで哲郎は焼き魚定食を注文し、向かいの席に座った少女も同じものを頼んだ。
 好きなものを注文していいと言ったのだが、もしかしたら気を遣ったのかもしれない。最初は仕方ないが、後々には変な遠慮もしないようになってほしいと願っている。
 けれどほとんど駆け落ち同然で、知らない土地へやってきているのだ。ある程度の人生経験を積んでいる哲郎ならともかく、玲子がすぐに現在の状況に順応できるとは考えてなかった。
 焦りすぎて相手の心証を悪くしたら意味がないので、時間が解決してくれるのを期待して、ゆっくりと待つことに決めていた。
 中年の店主が「お待ちどうさま」と、二つの焼き魚定食をテーブルの上に置いてくれる。
 湯気が立ち昇る白いご飯に、程よく焼かれた魚の匂いが実によく合っている。疲れている身体に染み込めば食欲が誘われ、早速箸をつけて口いっぱいに頬張る。
「もう、哲郎君てば……だらしないよ」
 注意しながらも、向かいの席に座っている水町玲子がクスクス笑う。まだ安定してないとはいえ、気分もそこそこ落ち着いてきてる証拠だった。
 とはいえ、旅館に宿泊した日の夜の水町玲子も、なかなかの食べっぷりであったと記憶している。
 からかってみようかとも考えたが、ジョークを言って場を和ませるようなタイプではないので、哲郎が口にしても単なるユーモアで終わってくれるか自信が持てなかった。
 なので下手な発言はせずに、相手の言葉に対してだけ素直に反応する。
「だって、これ美味しいよ。玲子も食べてみればわかるって」
 哲郎の言葉で、水町玲子が表情をパッと輝かせる。
「そんなに、美味しいんだ。楽しみ」
 笑顔を浮かべたままで、箸を器用に使って焼き魚の身を摘む。それを口に運んで食べる姿は優雅そのもので、確かにがっつくだけの哲郎がだらしなく思えた。
 夜逃げして以降、やはりほとんど飲まず食わずだったのだろう。成長期の人間が、そのような目にあっていたら、食に対する渇望が最高潮へ達してもおかしくはない。
 顎を上下させて、丁寧に食事をする玲子が瞳をキラキラさせている。予想以上に、口にした焼き魚が美味しかったのだ。
「本当に美味しいね。私も驚いちゃった」
 心から嬉しそうに感想を教えてくれたが、次の瞬間には表情を曇らせていた。
 哲郎は超能力者などではないが、それでも相手が何を考えているかは大体わかる。
 水町玲子は、見捨てて置いてくる形になった両親を想っているのだ。今でも苦しんでるであろう父や母を差し置いて、自分だけが温かで美味しい食事をしていいのかと悩んでるに違いなかった。
 こればかりは、哲郎も告げるべき言葉を持たなかった。何を言っても、慰めにならないのはわかっている。やはり、時間の流れに頼るしかないのである。
「さ、早く食べて、お仕事に戻ろう」
 自身が悲しい顔をしてるのに気づいたのか、玲子は明るい声で哲郎へそう告げてきたのだった。


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