リセット

  35

 何度も人生をやり直すくらいに溺愛している女性の部屋で、二人きりになっている。
 これ以上は望むべくもないシチュエーションのはずなのに、胸が高鳴ったりなどはしていなかった。
 前回の人生で、同じ部屋で暮らしてきたが、こうして水町の実家で玲子の部屋にて二人で過ごすのは初めてかもしれない。
 にもかかわらず、哲朗の意識は目の前にいる最愛の少女へ向けられていなかったのである。
 これが水町玲子と過ごすのを目的としていたなら、きっと今頃は尋常じゃないぐらい緊張していただろう。
 けれど哲朗の狙いは他にある。玲子だけではなく、水町家の人間を全員まとめて救おうというのだ。
 上手くいけば、結果として大好きな少女の悲惨な未来をひっくり返すことも可能になる。
 今度こそ――哲朗の思いは強かった。今回の人生では、絶対に水町玲子と一緒に幸せになってみせる。
 何の変化もない一本道を歩いて終わるはずだった人生の最後で、手にしたスイッチはそのために存在しているのだと今では確信していた。
「なんか……恥ずかしいね」
 年頃の乙女らしく、ぬいぐるみなどが置かれている部屋を見られた水町玲子が、頬をピンクに染めている。
 普通ならここで甘酸っぱい青春の一ページが刻まれるのだろうが、繰り返すとおり哲朗には他の目的がある。
 まずは水町玲子の両親と面識を深めて、少しでも哲朗を信用してもらう必要があった。けれど、そのための方法が思いつかない。
 照れまくっている水町玲子と向かい合って座りながら、哲朗はひたすら悩み続けている。
 実に妙な展開の中、唐突に玲子の部屋のドアがノックされた。
 何事だろうと不思議そうな顔をした玲子が「はい」と返事をしつつ、駆け足でドアへ近寄る。
「勉強は順調かしら。おやつを持ってきたわよ」
 ドアを開けた先に立っていたのは、お盆を両手で持っている水町玲子の母親だった。
 年齢は哲朗の母親とあまり変わらないぐらいだが、玲子を産んだだけあってよく似ている。
 いわゆる美人であり、独身の頃はさぞかしモテただろうというのが容易に想像できた。
 実際に哲朗が玲子と駆け落ち同然で逃げたあとは、借金返済のためにこの母親が飲食店で働かされていた。
 失敗に終わったひとつ前の人生では、母親に仕事させるのも限界になったので、田所六郎が本命として前々から目をつけていた玲子を探し始めたのだ。
 というより、すでに居場所を知っておきながら、成長するまで待っていたとも考えられる。そうだとしたら、やはり田所六郎は最低の人間だ。
 だが、今回ばかりはあの男の好きにはさせない。何故なら、人生をやり直せるスイッチを手に入れたおかげで、すでに事件の真相を知っている哲朗がいるのである。
「お母さん……もしかして……」
「勘ぐりはよくないわよ。それじゃ、二人とも。しっかり、勉強をするのよ」
 お盆に乗せていた煎餅とお茶を部屋のテーブルに置いた玲子の母親は、しっかりと勉強のふたつを強調して退室していった。
 立ち去る寸前に横目で哲朗を見るあたり、愛娘へ手を出されないか強く心配してるのがわかる。
「あんなこと言っていたけど、お母さんったら、きっと様子を見に来たのよ」
 ため息をついたあとで、何かに気づいたように玲子はドアを開けて、きょろきょろと廊下を見渡した。
 もしかしたら、ドア付近で聞き耳を立てられているのではと警戒したのだ。不審者の姿は見つからなかったらしく、ホっとした様子で玲子が哲朗の前まで戻ってきた。
「ごめんね。これだと、勉強に集中できないよね。やっぱり、図書館の方がよかったんじゃない?」
「いや、来てよかったよ。玲子の部屋も見られたしね」
「も、もう……哲朗君ったら……」
 極限まで緊張しているのは水町玲子で、向こうの方がとても勉強するという状況ではなくなっていた。

 勉強前の軽い雑談を済ませたあとで、いよいよ本格的に取り組もうとした矢先だった。
 再びドアがノックされて、水町玲子の母親が新たな差し入れを持ってきてくれたのである。
 今度はお団子みたいだが、こんなにポンポンとおやつを出されていては、それこそ集中して勉強どころではない。
 とはいえ相手の親切心をむげにもできないので、哲朗は笑顔で水町玲子の母親へお礼を言う。
 どういたしましてと応じる母親の服の袖を引っ張り、水町玲子が一時的に部屋から離脱する。
 ひとり取り残された哲朗は何をしたらいいかわからず、なんとなしに室内の様子を確認してみたりする。
 目立って面白い物などはなかったが、その代わりに廊下での母娘の会話がはっきり聞こえてくる。
 壁自体が薄いのに加えて、室内にBGMなどが一切かかっていないため、聞くつもりがなくても声が耳元まで届いてくるのだ。
「お母さん、いい加減にしてよ。あれじゃ、勉強なんてできないわよ」
 一緒に暮らした経験もあるので知っているが、水町玲子もお嬢様とはいえ強い口調でものを喋ったりする。
 基本的には優しく穏やかな性格をしているけれど、その点は他の人間となんら変わりはなかった。
「そうは言うけれど……本当に大丈夫なの?」
「大丈夫って何が? 哲朗君は、私に勉強を教えに来てくれただけなの。最近の成績が上がってきたのも、彼のおかげなのよ」
「わ、わかっているわよ。お母さんだって、何も反対するつもりとかはないの。だけどね、親として心配だったりするのよ」
 純粋に中学生として生きている人間なら、こうした物言いを鬱陶しいと思うかもしれない。
 けれど一度でも大人になれば、どうして神経を逆撫でするとわかっていながらも、そのような発言しかできなかったのか理由がわかる。
 誰に説明されるわけではなく、ふとしたきっかけにより、自分自身で気づくのだ。しかしその時には、もう親がいなかったりする場合もある。
 そして自分が成長して親という立場になった時、我が子と同じ問題を繰り返すのである。
 ここを親という権力で抑え込んだりせずに、真正面からぶつかり合えれば、意外と問題は簡単に解決するのかもしれない。
 だけど、自分と同じ間違いを犯してほしくないと願うあまり、親は自らの考えを子供へ押し付けようとする。
 その結果、子供は親の操り人形じゃないと反発する。時代とともに、子育てのあり方も変わっていく。ただひとつ不変なのが難しさである。
 ゆえに親も子も悩み、時には間違った道へ進む。誰もが哲朗みたいにやり直せるチャンスを得られればいいが、どんなに願ったところでそんな軌跡が現実に起こる可能性は極めて低い。
「哲朗君なら、心配しなくても大丈夫。本当に優しくて素敵なんだから。お母さんだって、昔から知っているでしょう」
 こちらに聞こえてるかも、とはまったく考えてないのだろう。面と向かって発してくれそうもない台詞が、水町玲子の口から乱発される。
 場に同席していなくとも、恥ずかしくなるものだなと第三者みたいな感想を抱きつつも、哲朗は顔の表面温度が上昇するのを感じていた。
「もちろん知っているわ。でもね……いいえ、玲子を信用するべきね。お母さんが悪かったわ。もう邪魔はしないから、何か必要なものがあったら、遠慮なく言ってちょうだいね」
「うん。ありがとう、お母さん」
 女同士の廊下での論争は、どうやら娘が勝利を獲得したみたいだった。
 母親の去っていく足音が遠ざかると同時に、水町玲子が自室へ戻ってきた。
「素敵と言ってくれて、どうもありがとう」
 黙ってるべきなのはわかっていたが、好きな子ほどなんとやらの男性特有の精神で、思わず哲朗はそんな台詞を口にしてしまっていた。

「て、哲朗君……もしかして、き、聞いてたの……?」
「黙って座ってるだけで、こっちにまで声が届いてきてたよ」
 興奮するあまり、自分たちの声量に気づいてなかったのだ。指摘されて初めて玲子は、しまったというような表情を浮かべた。
「ち、違うの、あれは……ううん、違わないのだけど……と、とにかく。べ、勉強しましょう。時間がなくなってしまうわ」
 からかわれる展開に慣れてない水町玲子は、本気で焦って話題を変えたがっている。
 このまま新聞販売所で一緒に住んでいた時みたいに、軽口を叩き続ければ相手女性の機嫌を損ねる可能性も出てくる。
 水町玲子本人を前にして安堵を覚えてるがゆえに、哲朗自身も意外とハイテンションになっていたのかもしれない。この時代の少女はまだ何も知らないのだから、調子に乗りすぎるのは明らかによくなかった。
 反省をしつつ、相手の言葉に従って、哲朗もとりあえずは勉強へ集中することに決める。
 トイレへ行くと水町玲子の両親へ会いに行っても、何を話したらいいかわからない。とにかく今は、玲子の実家で一緒に勉強するのが当たり前になるように仕向けよう。そうすれば、きっとチャンスがやってくるはずだ。
 その前に事件が起きればどうしようもないが、その場合は例のスイッチを有効活用させてもらうだけだった。
 とにかく一生懸命に勉強して、相手方の両親に真面目な好青年という印象を与えよう。基本方針を決定した哲朗は、図書館での時と同じように少女へ教えながら自身も勉学に励む。
 日も落ちてきて、その日は普通に自宅へ戻った。けれど、翌日以降も哲朗は水町玲子宅へお邪魔し続けた。
 最初はあまり快く思ってなかった玲子の父母も、段々と哲朗を見る目を変えていた。部屋で二人きりとはいえ、本当に真剣に勉強してるだけだったからだ。
 しかも何度も大人の世界を経験してる哲朗の礼儀正しさは、同年代の学生の中では群を抜いている。水町玲子の父親と会話をさせてもらった際には、しっかりした態度に心から感心された。
 どちらにしろ図書館でも二人で勉強するのだからと、次第に水町玲子の家で過ごすのが公認されるようになっていた。
 哲朗の母親はあまり迷惑をかけないようにと口酸っぱく言ってきたが、父親が先方にも煙たがられてないのであれば構わないと助け舟を出してくれた。
 普段から口数が少なく、本当に自分の息子を気にかけてるのかわからない点もあるが、よくよく考えてみれば大事な場面ではいつも哲朗の意に沿うようにさせてくれている。
 何も言わなくとも、見守ってはくれているんだなと感謝を覚える。これひとつとっても、何度も人生をやり直してようやくわかったことだった。
 一度限りの人生では、親の真意にさえなかなか気づけない。血の繋がりがある人間でもこの有様なのだから、他者が相手になれば数多くの誤解が生じるのも当たり前だった。
 難易度は最高レベルかもしれないが、誰の人生においてもこのような問題は常につきまとう。生きている限り、決して逃れられないのだ。
 人生を繰り返すたびに、まるで自分が哲学者にでもなっていくみたいだった。だが哲朗にそのつもりはない。単純にひとりの人間として、可能な限り幸せな道を歩きたいだけなのである。
 いつ佐野昭雄らによる事件が起きるかビクビクしながら、哲朗は水町玲子の家へ通い続けた。そしてある日、これまでの努力が一応の結果を導き出してくれた。
「ねえ、哲朗君。お父さんとお母さんが、日も落ちたから、一緒にご飯を食べていったらどうって言ってるんだけど……どうする?」


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