リセット
52
哲朗と同じ食卓についた父親の梶谷哲也は、何を言うでもなく、もくもくとお茶漬けを口に運んでいた。
もとより食事中に会話をするケースはさほど多くない。けれど、今回ばかりはいつもと事情が違った。
このタイミングで居間へやってきて、小百合へ夜食を頼むこと事態が珍しい。数度の人生を経験してきた哲朗の記憶の中にも、ほとんど残っていなかった。
相手側に何か意図があって、このような行動をしてるのは明白だった。なのに当の父親は、相変わらずお茶漬けを食べているだけだ。
普段ならどうとも思わないのに、今日に限ってはどんどんと空気が重くなるのを感じる。明らかに気まずくなっており、とても哲朗から話しかけられるような雰囲気ではなかった。
居心地の悪さは多大に覚えているが、だからといって途中退席するのは相手に失礼だ。ましてや一緒に食事しているのは、一家の大黒柱なのである。
いくら人生をやり直してきた経験を持っていても、哲朗はまだ養われている身にすぎず、大恩ある親をむげに扱ったりしたら無礼極まりない。
親孝行をしようと決意しながら、そんな真似をするのは愚の骨頂。説教をされるのは、それだけこちらの身を案じているからに他ならない。ありがたくお小言を頂戴しよう。哲朗は意を決して、茶碗をちゃぶ台へ置いた。
カタンと鳴った音に気づき、父親の梶谷哲也が横目でこちらの様子を窺ってくる。下手な言い逃れをしようとするより、相手の怒りの原因を特定して、素直に謝罪の意思を示すべきだと判断した。
「あ、あの……最近、夜、遅いのは……その……」
きちんと向き合おうと決意したまではいいものの、頭の中に描かれている言葉がすらすらと口から出てきてくれなかった。
結局、何が言いたいのかわからないまま、哲郎の口は一旦閉じられる形になった。己の度胸のなさを心の中で嘆いていると、今度は父親の梶谷哲也が茶碗を置いた。
すでにお茶漬けは食べ終えており、お代わりを求める気配も感じられない。家族の食事を黙って見守っていた母親の小百合も、場を包む独特の雰囲気に緊張している。
「……親に遠慮をせず、好きにやればいい。お前の人生は、お前だけのものだ」
それだけ言うと、夜食を終えた梶谷哲也はその場に立ち上がった。
「自分の目で見て、耳で聞いて、人生を歩け。その上で、どうしようもなくなったら頼るといい。それくらいの甲斐性はもっている」
立ち去り際に新たな言葉を残して、父親の梶谷哲也は居間から退出した。
説教でもなく、小言でもない。哲朗は単純に励まされてるような気がした。
「……ごちそうさまでした」
哲朗もお茶漬けを食べ終えると、用意してくれた母親にお礼を言って自分の部屋へ戻る。
食べすぎでパンパンになったお腹を手でさすりながら、机に向かう。引き出しを開けて取り出したのは、最初の人生で老婆から貰った例のスイッチだった。
このアイテムのおかげで、数奇な運命を辿っている。良かったのか、悪かったのか、未だに哲朗の中で結論は出ていない。
それでも己が望む最高のハッピーエンドを目指して、哲朗はこのスイッチを使い続けるつもりだった。
「自分の人生は、自分だけのものか……」
父親の梶谷哲也に言われた台詞を思い返し、小さな声で呟いている。
夜になりシンとしてる部屋に声が響き、わずかに反復して、再び哲朗の耳へ届いてきた。
悩むより前に進め――。父親にそんなエールを貰った気がした。スイッチのことなど何ひとつ知らないはずなのに、現在の哲朗がもっとも欲しかった解答のように思えた。
「最後まで……俺らしく、やってみるか」
自分らしくといったところで、ここまでの人生経験を経て、哲朗の性格は徐々に従来とは変わり始めていた。
異性との会話には相変わらず緊張を覚えるものの、当初みたいに声すらかけられないレベルではなくなっていた。
翌日以降も、哲朗の恋に仕事に忙しい高校生活は続いた。培ってきた学力がものをいい、アルバイトをしていても成績は決して下がらなかった。
学校内で恋人と手を繋いだりもして、生意気だという哲朗の評価はみるみるうちに変わっていった。
不純異性交遊だと水町玲子との交際を問題視する声も教員から上がったが、そこは以前に交わした約束どおり、教育指導の男性教師が哲朗の味方になってくれた。
まずは学業も含めて見守ろうという結論になり、一ヶ月、二ヶ月と経過していくうちに哲朗の頭脳明晰さに教員たちは驚愕した。
すでにひとりだけ大学での単位を習得しているのだから、周囲の人間が哲朗を十年に一人の天才だと騒ぎ立てるのも無理はなかった。
本来の哲朗は極めて普通の人間なのだ。加えて例のスイッチで何度も人生をやり直せば、誰でもこのぐらいのレベルにまで達せられる。
にもかかわらずスイッチを与えてくれた老婆は、実にみすぼらしい格好をしていた。接した際の雰囲気では、持ってるのも嫌そうな感じさえ覚えた。哲朗へスイッチを手渡す時の老婆は、安堵してるようにさえ見えた。
一般的に考えれば、世の中にこれほど便利な道具は存在しない。いわばタイムマシーンも同然なのだ。どれだけの科学者が開発を夢見て、断念してきただろう。
哲朗自身もそんなものがこの世に存在するなんて、最初は微塵も信じていなかった。実際に使用して過去へ戻り、その時に初めてスイッチの能力を実感した。
何度も繰り返し使用してるうちに戸惑いは薄れてきて、徐々にスイッチを使う躊躇いみたいなのはなくなりつつある。
「こら、梶谷。ボーっとしてるんじゃない。罰として、この問題を解いてみろ」
授業中の教室で、窓の外を当てもなく眺めながら考え事をしていれば、指導中の教師に怒られるのも当然だった。
クラスメートたちにクスクス笑われながらも、黒板の前へ進み出た哲朗は、ここで初めて解くように指示された問題を見る。
繰り返してきた人生において、何度も解答してきた問題のひとつだ。公式を当てはめなくとも、答えはわかっていた。
「せ、正解は正解だが……梶谷。できれば、公式も書いてもらいたい」
「はい、わかりました」
答えだけ書いて終わろうと思ったのだが、そうもいかなかった。
かくして答えを書いたあとに、公式の説明をするというなんともややこしい展開になってしまった。
こんなことなら、最初から公式も含めて解答するべきだった。早く考え事に戻りたい心が、サボり癖を呼んだのかもしれない。
「まったく……梶谷には恐れ入るな。公式も完璧だ。これだと、お前が授業中にボーっとしていても、怒られなくなるな」
「いえ、すみません。次からは気をつけます」
「なるべくなら、そうしてくれ」
説明も聞いていなかった問題を完璧に解かれては、教師としてもこれ以上のお説教はできないのだろう。ほとんど無罪放免みたいな形で、哲朗は自分の席へ戻された。
その後も授業は継続されたが、これまでとは違う異変をひとつだけ感じ取っていた。誰かがこちらを見ているのだ。
教師か恋人の水町玲子だろうと思っていたが、両者とも哲朗に視線を向けてはいなかった。誰だろうと気にはなったものの、またボーっとしてると注意されないためにも、あえて正体を知ろうとはしなかった。
「梶谷君さん」
休み時間になり、女性に声をかけられたので、哲朗はてっきり水町玲子だと思っていた。
ところが声をかけられた背後側を向くと、立っていたのは恋人ではない女生徒だった。
「ええと……君は?」
「同じ学級の斗賀野真子と申します。こうして、言葉を交わすのは初めてですので、知らなくとも無理はありません」
黒髪のロングに似合う長身でスレンダーな体型の美女が、何故か哲朗に話しかけてきている。
斗賀野という相手の苗字を聞いて、哲朗の記憶の中でひとりの女性の名前が浮かんできた。
斗賀野真子――。以前の人生で同じ学校へ在籍した際、常に哲朗と成績のトップを争っていた女性である。
高校卒業後も同じ一流大学へ進んだはずだが、きちんとした面識は一切なかった。
ゆえに哲朗は、相手女性が発した言葉に大きな疑問を覚えた。間違いなく斗賀野真子は「同じ学級」と口にした。
哲朗の記憶が確かならば、この女生徒と同クラスになったことは一度としてないはずである。
「斗賀野さんって、あの成績優秀な斗賀野さんで合ってるのかな」
珍しい苗字なので同姓がいる可能性は低いとわかっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。
ここまでの哲朗の態度は失礼そのもので、いつ相手女性が怒り出してもおかしくない展開だった。にもかかわらず、斗賀野真子は嬉しそうな顔をしている。
「ええ、そうです。名前だけは知っていてくださったみたいですね」
「それは、もう……けれど、失礼ながら、同級生だというのは知りませんでした。申し訳ない」
相手女性に不快な思いをさせた可能性が高かったため、哲朗はこの場で素直に謝罪した。しかし斗賀野真子はまったく気にしてない様子で「構いません」と笑顔で応じた。
「梶谷さんと違って、私はあまり目立つタイプではありませんので……教室でも、隅でひっそりと勉強しているだけですし」
未来ならそうでもないが、この時代の女性にしては斗賀野真子は長身だ。否応なしでも目立つはずなのだが、実際に哲朗は今の今まで相手の存在を知らなかった。
どうやら斗賀野真子が、同じクラスなのは間違いない。だが過去の哲朗の記憶には、そんな事実は存在してないのである。
これは一体何がどうなっているんだ。考えて辿り着く結論はただひとつ。哲朗の知っている未来とは、変わってきているというものだった。
過去ではこの高校に在籍していなかった水町玲子の存在が、不確定要素となって前回の人生と若干違う点を作っているのかもしれない。
確かに過去をやり直しているのだから、まったく同じ未来へ到達する確率は極めて低い。同じ高校へ入学したとしても、前回同様の環境になるとは限らないのである。
「どうかしましたか? また心ここにあらずといった感じになっていますけれど」
誰より丁寧な言葉遣いの斗賀野真子が、自分の机に座ったままの哲朗の顔を覗き込んでくる。
この部分だけ見ればまるで恋人同士だが、現在の哲朗と相手女性の関係はまだ他人も同然だった。
そういえば水町玲子の姿が教室内に見えない。急に気づいて周囲を見渡していると、すぐに意図を察したらしい斗賀野真子が哲朗の疑問を解消してくれた。
「水町さんでしたら、本日は日直ですので、次の時間で使用する教材を持ち運びするために、先生へ呼ばれて職員室へ行ったはずですよ」
「そうか……もう、休み時間になっていたんだね」
あまりにも考え事に没頭しすぎていたせいか、授業が終了したのにも気づけていなかった。
何事も考えすぎはよくないとわかっているのに、どうしても疑問が生じると全力で解答を得ようとする。改善しなければと常々思っているのだが、生まれもっての性格でもあるので、なかなかに難しかった。
「学校の授業では退屈すぎて、頭の中で別の問題でも解いてらしたんですか」
「いえ……そういうわけでもないんですけどね。あ、ところで、俺に何か用があったのではないですか」
急に声をかけられたのを思い出して、哲朗は目の前にいる斗賀野真子へ用件について尋ねた。
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