リセット

  94

 信じられない出来事が起こった。混乱する哲郎は、実家の自分の部屋の壁を呆然と見つめていた。
 確かについ先ほどまで、妻になってくれた玲子と一緒に笑っていた。にもかかわらず、気がつけば哲郎は小学生時代まで戻っていた。
 訳がわからない。先ほどから何度となく、哲郎は心の中でその言葉を繰り返していた。
 自分自身では例のスイッチを使用した記憶がないのに、いきなり周囲を包んだ暗闇から開放された途端に、過去へ戻ってしまっていたのだ。
「何が……起こったんだ……」
 呆然と呟いた哲郎は、机の引き出しを開けて、中身を確認してみる。そこには例のスイッチが、しっかりと存在していた。
 まさか誤作動でも起こしたのだろうか。悩んでいると、哲郎を呼ぶ女性の声が聞こえた。若かりし頃の梶谷小百合である。
 若い時代の母親が見れて感動した最初の頃とは違い、涙は流さない。代わりに覚えたのは戸惑いだった。
 嫁姑問題で窮地に陥り、あれこれと細工をして、ようやく望みどおりの人生を手に入れた。それなのに、またもや小学生時代からやり直さなければならない。
 それも自分の意思ではなく、勝手に戻されたのだ。こんなことがあるのかとスイッチの注意書きを読んでみるが、そのような記述はどこにもなかった。
「早くしなければ学校に遅れるわよ」
「わ、わかってる。すぐに行くよ」
 例のスイッチでは過去へ戻れても、未来へは行けない。どんなに理不尽でも、哲郎は己の人生をやり直す必要があった。
 その日の放課後。哲郎は本来の人生で、何度も後悔をしていた場面に遭遇する。
 小学生の頃の水町玲子と二人きりになり、告白できるチャンスがあったにもかかわらず、自らの勇気のなさによって無駄にした。
 例のスイッチで人生をやり直せるようになった哲郎は、この場面から新しい日々を始めたのだ。
 そして完璧な人生設計のもとに、望んでいた未来を手に入れたはずだった。にもかかわらず、現在は再び小学生時代に戻ってしまっている。
 ならばもう一度同じ道を歩めばいい。そう考えた哲郎は、水町玲子への告白に挑戦する。
「嬉しい……」
 哲郎に告白された少女は、即財に応じてくれる。受け入れられるのがわかっているとはいえ、さすがに緊張した。
 けれど、とにかく最初の関門は突破できた。あとは――。
 そこまで考えたところで哲郎の意識が歪む。訳もわからないうちに暗闇へ包まれる。
 そうして気がつけば、今度は小学生時代よりも昔に戻っていた。まだ水町玲子とも出会っていない。
 どうしてこのような事態になるのか。考えてもわからない。ありえるとすれば、例のスイッチの誤作動くらいだ。
「何故……なんだ……」
 呟く声は誰にも届かない。日々は流れ、入学式を迎え、哲郎はまた水町玲子と出会う。
 告白して受け入れられ、今度こそ大丈夫だと思ったのも束の間。しばらく順調な人生を送っていると、突如として幼少時代へ巻き戻される。
 まるで見えない何者かが、哲郎に幸せな人生は許さないと邪魔しているみたいだった。
 だが普通の人間に、そんな真似ができるはずもない。改めて考えても、哲郎の身に何が起こっているのかは不明だった。
 もしかしたら、例のスイッチを使いすぎてしまったがゆえの副作用か何かなのだろうか。だとしたら、これ以上は使わない方がいいかもしれない。
 絶対に諦めないと自分に言い聞かせ、哲郎は何度でも人生を繰り返してやると決意する。
 十回。二十回。三十回。どのような道筋を辿ろうとも、必ずゴールまで辿り着いてみせる。
 決意したとおりに人生を歩く哲郎だったが、スタートラインへ戻されれば戻されるほど、ただでさえ遠いゴール地点が見えなくなっていくのも事実だった。

 ノイローゼになりそうだった。どんな選択肢を選んでも、幸せになりそうになれば、ほぼ確実に哲郎の人生はリセットされる。
 これまでは例のスイッチを、選ばれし者の特権みたいに思い重宝してきたが、現在ではかなりの重荷になっていた。
 巻き戻されるだけの人生に疲れ、自ら終止符を打とうともした。けれど結果は無残なものに終わった。
 例のスイッチの効力はまだまだ健在らしく、己の意思で人生を終えても、すぐに直近のターニングポイントで目覚めさせられる。
 勝手な辞退は許されないのに加え、望みどおりの人生を送ろうとすれば無慈悲にリセット機能が働く。
 まるで人生という巨大な牢獄に囚われた気分だ。どうして自分がこんな目にあわなければならないのか。苦悩してるうちに、また周囲が漆黒に包まれる。
 失意のどん底で哲郎が決断したのは、最初の人生をなぞることだった。友達を作らず、水町玲子への告白のチャンスも無視をする。
 温かみのある人生を経験してきたがゆえに、なんとも味気なく思えたが、今度は途中で巻き戻されたりせずに人生を歩めている。
 事故死するのがわかっていながら母親を救えず、どのような末路を辿るか知っているのに水町家へ起こる災難に目を瞑る。
 悔しくて涙が溢れる。こんなことになるのなら、最初から人生などやり直さなければよかった。
 後悔先に立たずとはよくいったもので、現在の哲郎は例のスイッチをひたすら呪っていた。
 けれど誰かに譲渡しない限り、哲郎は例のスイッチを手元から離せない。問題にならないと思っていた制約が、この上なく重くのしかかっている。
 何故、助けた老婆が便利なスイッチを所持しながら、あんなボロボロの姿で倒れていたのか、今になって理由がわかった気がした。
 どのような仕掛けが作動しているのかわからないが、幸せな人生を手に入れられない状況が続き、失意の果てに倒れたのだ。
 現在の哲郎が似た立場にいるだけに、老婆の当時の心境が痛いくらいに理解できた。
 だからといって、誰かにスイッチを譲渡するのは躊躇われた。哲郎はそれで解放されるかもしれないが、代わりに他の人間を牢獄に等しき人生へ放り込む結果になりかねない。
 スイッチに頼ってしまったツケだと、哲郎はひとり寂しい人生を歩む。やり直す前は別に不便さを感じていなかったのに、愛する人や仲間と笑いあった日々を経験してきたおかげで、こんなにも心が苦しくて切なくなる。
「どうして……こうなってしまったんだ……」
 信用金庫での仕事も定年を迎え、哲郎は繁華街を歩く。知り合いを見かけても、決して声はかけない。幸福を感じた瞬間に、人生が巻き戻るかもしれないからだ。
 無責任な真似はできないと、哲郎は最後まで例のスイッチを所有するつもりだった。
「え……?」
 そんな哲郎が、驚きで自分の足を止めた。いつか見たような光景が、目の前に広がっていたからだ。
 無情に通り過ぎゆく人々の真ん中に、行き倒れている人間がいる。まさかと思ったが、どうやら哲郎が一度だけ出会った老婆とは違うみたいだった。
 では誰なのかと問われれば、哲郎にもわからない。要するに、見ず知らずの他人なのである。
 その見ず知らずの他人を捨て置けず、哲郎は手に持っていた食料品が詰められた袋をそっと差し出す。これも、いつかと同じ行動だ。
 当時と違うのは相手が老婆ではなく、中年の男性だということぐらいだった。
 買物袋を差し出された男性はしばらく戸惑っていたが、中身が食料品だとわかった途端、奪うように受け取った。
 袋の中を必死の形相で漁り、とにかくお腹が膨れそうなものを選んで食べ始める。
 男に食料をすべてあげようと思っていた哲郎は、何も言わずにその場から立ち去ろうとする。
「……悔しいなぁ……」
 一歩だけ足を踏み出した哲郎の耳に届いてきたのは、食事をとりながら泣いている男の声だった。

 すぐに立ち去ろうと思っていた哲郎の足が止まる。悔恨の嗚咽に、少なからず動揺を覚えたからだ。
 何がそんなに悔しいのか。社会か、それとも自らの生い立ちか。まったく知らない男性であるにもかかわらず、気がつけば興味を覚えていた。
「何が……悔しいんですか」
 最初に人生をやり直した時と、ほぼ同じ年齢になっている哲郎が、貪るように食事をしている中年男性へ問いかける。
 ぎょろりとした目つきでこちらを見た男性に、哲郎への感謝の感情を探すのは不可能だった。
「アンタみたいな、裕福そうな人間にはわからねえよ」
 吐き捨てられた言葉が、哲郎の足元へ転がってくる。相手にも事情があるだろうからと、丁寧に拾い上げたりせず、視線でそっと確認するだけに留めておく。
「食料を恵んで、善人気取りか。たいした人徳者様だよ」
 助けた人間にここまで言われれば、普通なら逆上して与えたばかりの食料を取り上げてもおかしくない。けれど、哲郎はそんな真似をしなかった。
 別に感謝されたくて食料を渡したわけでないし、一度差し出した以上、すでに袋に入っていた品々は哲郎のものではなくなっている。
 哲郎が何も言い返すつもりがないとわかると、中年男性はひとしきり毒づいたあとに口を一旦閉じた。
「……俺だってな……本当は、弱ってる人間に救いの手を差し伸べてやれる人間だったはずなんだよ」
 地面に視線を落とした中年男性が、悔しげに肩を震わせる。
 これまでの人生をどのように歩んできたかはわからないし、詳細を知りたいとも思わなかった。
 人には人の生き方があり、むやみやたらに土足で踏み込むべきではない。実際に哲郎も、他人から干渉されるのを嫌っている。
「ああ、ちくしょう。過去に戻れたらなぁ……!」
 中年男性が不意に発した言葉が、哲郎の心臓を跳ね上がらせる。何らかの意図があったわけでなく、単純にそう思っての発言みたいだった。
 他意はないと理解しても、哲郎は中年男性へ忠告せずにはいられなかった。
「過去に戻ってやり直しても、それが望みどおりの結果に繋がるとは限りませんよ」
 また食ってかかられると覚悟していたが、予想に反して中年男性は声を荒げたりしなかった。
「わかってるよ、そんなことは。それに現実的じゃねえってのもな。けどよ……あまりに人生が惨めすぎると、多少は妄想に逃避したくもなるんだよ」
「ええ……それは、わかります……」
「へっ。アンタ、不思議な人だな。俺みたいなのに親切にするだけじゃなく、こんなアホみたいな会話にも付き合うなんてよ」
 中年男性が初めて笑顔を見せた。少しは心が救われたのかもしれない。この場で哲郎と会ったのにも、少しは意味がでてきたなとかすかに嬉しくなる。
「でもよ……それでも、願わずにはいられねえのさ。人生をやり直せたら、どんなにいいだろうってな」
 心から人生をリセットしたがっている男性を前にして、哲郎は腕を組んで考えこむ。しかし、浮かんできたばかりの考えをすぐに振り払った。
 確かに哲郎は例のスイッチを譲渡したがっており、一方で目の前にいる中年男性は過去へ戻りたがっている。単純に考えれば、両者の利害は一致していた。
 だからといって、スイッチの話をするのには抵抗があった。下手をすれば、相手の男性に今以上の不幸を与えかねないからだ。
 それでも新たな質問をせずにいられないのは、哲郎が繰り返すだけで幸せのない己の人生に疲れ果てている証拠だった。
「仮に過去へ戻れたとして、貴方は一体何をするつもりですか」

 続く


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