リセット

  96

 同じ店で新しく食料を買い直したため、レジを打つ中年の女性店員に若干、怪しげな目で見られてしまった。
 もっとも、やましい真似をしてるわけではないので、あまり気にせずに買物を終了した。
 ほぼ同じ食品を買い揃える結果になったが、お金を無駄遣いしたとは思わない。おかげで例の中年男性との出会いがあった。
 過去に戻りたいと心から願っていた男性に例のスイッチを譲渡できたものの、気分爽快とはなっていなかった。
 哲郎自身も当初こそ例のスイッチを最高の道具だと評価したが、終盤からは呪いのアイテムではないのかと本気で思うようになっていた。
 そんなスイッチを、相手が望んでたとはいえ、他人に押し付けたも同然なのだ。晴れやかな気分になれる方がどうかしている。
 願わくば、名前も聞かなかった中年男性が哲郎みたいな状態に陥らず、自らが望んだ未来へ進めるように。祈りながら会計を済ませ、よく利用しているスーパーから出る。
 買物袋を手に持ち、ひとりでとぼとぼと陽気そうな街中を歩く。賑わいから完全に取り残されてるのがわかっても、今さら焦ったりはしない。
 数々の経験を経て、望みどおりではなくとも、何のアクシデントもなく普通に人生を終えられるだけでも十分に幸せなのだと気がつけた。
 なればこそ、残りの人生を穏やかに過ごしてみようと考える。例のスイッチは手元からなくなり、哲郎は過去へ戻れなくなっているのだから。
 ふと考えてみれば、最初の人生をなぞった人生で、哲郎はスイッチを手放した。結局はリセット前と、何ら変わらない状況になっている。
 学生時代に母親を事故でなくし、父親もすでに他界している。最初の人生と決定的に違うのは、周囲が何を考えているのかわかっている点だった。
 それだけでも、人生を何度もやり直せた価値はあったのかもしれない。苦笑しながら、哲郎は足を動かして、自宅への道を歩く。
「あれ、ここは……」
 見慣れた風景で哲郎は足を止める。そこは最初の人生で、例のスイッチをくれた老婆が行き倒れていた場所だった。
 さすがに今回は誰も倒れておらず、哲郎は普通にその場を歩き抜けようとする。
 その瞬間、道の端に立っている女性を見つけた。高級品を身につけているわけではないが、どことなく気品めいたものがある。
 何より気になったのは、その顔立ちだった。結構な歳を重ねているようにも見えるが、とても綺麗でまだ若々しい。そして哲郎が想い焦がれていた女性に似ていた。
「……玲子……?」
 立ち止まり、思わず口にしたひと言に女性が気づく。すぐに笑みを浮かべ、目の端に涙を溜める。
「お久しぶりね、哲郎君」
 近づいてくる哲郎を見て、そう声をかけてくる。間違いなく、女性は水町玲子本人だった。
 幾度も繰り返した人生で、何度も隣にいようと試みた。けれど願いは叶わず、告白もできないまま、離れ離れになった。
 その後の噂は聞かなかったものの、哲郎には水町家がどのような道筋を辿ったのかはよく理解できていた。
 哲郎が助けに入らないのだから、本来あるべき人生が水町玲子を待っていたはずだ。
 信頼している社員に裏切られ、水町家の工場は落ちぶれ、両親を助けるために水商売をする。そんな姿が脳裏に浮かんでくる。
「本当に……玲子なのか……」
 そこまで言ってから、哲郎は夫婦時代だった過去の人生と同じ口調になっていたのだと気づく。慌てて「水町さん……だよね」と取り繕ってみたものの、時すでに遅しといった感は拭えない。
 しかし相手はあまり気にした様子はなく、哲郎との再会に感動を覚えてくれているみたいだった。
 もちろん哲郎も嬉しい。けれど問題は、誰よりも会いたかった水町玲子が、どうしてこのような場所にいるかだ。

「水町さん……でいいのかな」
 もしかしたら結婚している可能性もあり、その場合は哲郎の知らない名字になっているはずだ。
 そのための確認だったのだが、相手女性は笑顔で「水町で結構よ」と教えてくれた。
 相手の姓は確認できたものの、口にするべき言葉が見つからない。本当はたくさんあるのだが、あまりに膨大すぎて頭の中で整理できていなかった。
 すると哲郎が何か言うより先に、水町玲子が口を開いてきた。
「ごめんなさい」
 いきなりの謝罪の意味がまったくわからず、口をポカンと開けるだけで、何の言葉も返せない。
 すると水町玲子はすぐに「残酷な仕打ちをしてしまったわ」と続けてきた。
 何が残酷な仕打ちなのか。やはり意味がわからない哲郎は、その点を水町玲子へ尋ねてみる。
「哲郎君は……運命って、信じる?」
 まるでどこぞのドラマみたいな台詞を呟く水町玲子を前に、哲郎はますます言葉を発せられなくなっていた。
 質問の意図がわからず、ただただうろたえるばかりである。
「私は……両親が借金を抱えたあと、夜逃げした先で水商売をしていたの」
 何も言わないままで、哲郎は相手女性の言葉に頷く。この状況で「知ってるよ」なんて口を滑らそうものなら、想像を絶する展開になる確率が高い。
「そこで私は、懇意にしてくれるお客さんから、信じられない道具を貰ったの」
 信じられない道具という言葉に、哲郎の心臓が尋常じゃない熱を持つ。すぐに全身へ波及し、体内で流れている血が沸騰しそうな錯覚に陥る。
 街中を流れ行く人々の雑踏が聞こえなくなるほど、哲郎の鼓膜は水町玲子の声だけに集中する。
「それはね……過去へ戻れるスイッチなの」
「……そう……だったのか……」
 呟いた哲郎の喉はカラカラに渇き、光過敏症にでもなったかのように視界に映る景色が眩しくなる。
 あまりにショックすぎる話だった。哲郎という人間が、別の存在に書き換えられしまうような衝撃。放っておけば、延々と「信じられない」と呟き続けそうだった。
「俺に……例のスイッチをくれたのは……まさか……」
「ええ。私よ」
 酷く申し訳なさそうに、水町玲子は頷いた。哲郎の視界に映っている女性と、当時に出会った老婆とは似ても似つかない。予期せぬ告白の連続に、危うく倒れかける。
 哲郎が初見でわからなかったくらい、当時の水町玲子は疲れ果てていた。本来なら綺麗な容姿をしているのに、どう見ても老婆としか思えないような外見になっていた。
「とても……信じられないけど、嘘をつく理由も……見当たらない……か……」
 例のスイッチの存在と効果を知っていなければ、とてもじゃないが詳細を話すのは不可能だ。しかも本来なら、最初の人生で哲郎しか知りえなかったはずの情報まで知っている。
「ごめんなさい……」
 再び水町玲子は謝罪した。自らの名前も告げずに、哲郎へスイッチを渡してしまった行為へのものなのかは、まだわからない。
「どうして、俺に例のスイッチを?」
「……あれは……完全に偶然だったの」
 水町玲子は、ポツリポツリと、自らが歩んできた人生について教えてくれた。
 過去へ戻れる事実に歓喜し、勇気を振り絞って哲郎へ告白し、様々な問題を解決しながら順調に人生を歩んでいた。
 しかし、いつもゴールが間近に見えてくると、決まって過去へ強制的に戻される。その点は、哲郎とまったく一緒だった。
「まるで、出口のない迷路へ入り込んでしまった気分だったわ。どうせ幸せになれないのならと、私は自分が不幸だと思った人生をなぞろうと考えたの」
 そこも哲郎と同じだった。幸せになれそうな選択肢を除外し、できる限り不幸そうな道を選ぶ。そうすれば、過去へは戻されなくなる。
「最初の人生では不幸だと思っていた出来事が、不思議なことにそう思わなくなっていたの。疲れ果てた私にとって、強制的に過去へ戻されないことが何よりの安らぎになったわ」
 人生を普通に終えられるのであれば、例え不幸と呼ばれる内容であったとしても構わない。そう思っていた水町玲子は、年老いて働けなくなったあと、ホームレスも同然の生活を送るようになった。
「両親もすでに他界しているし、親戚とは何十年も連絡をとっていない。頼れる人間が誰もいない私は、気がつけば街中で行き倒れていたわ」
 そして、そこをたまたま通りかかったのが哲郎君だったのよ。水町玲子は、そこまで言ってから口をそっと閉じた。

 何度繰り返しても駄目ならば、いっそ託してみようと考え、水町玲子は哲郎へ例のスイッチについての話をした。
 哲郎がどうしてもと拒絶すれば諦めるつもりだったが、受け取ってくれたので水町玲子はそのままスイッチを譲渡した。
 こうして哲郎のリセット人生が始まったわけだが、これまでの水町玲子の説明でわからない点がある。
「水町さんは、私がスイッチを使用することにより、自分の人生が変わると思っていたのかな?」
 もしそうなのだとしたら、色々と納得ができる。無慈悲に繰り返されたリセットも、哲郎の意思ではなく、他の誰かの仕業とも考えられる。
 水町玲子は哲郎の問いかけに対して、ゆっくりと首を左右に振って、否定の意思を示した。
「単純に、哲郎君に幸せになってもらいたかっただけなの。私では駄目だったけれど、もしかしたらという気持ちもあって、あのスイッチを託しました」
 そう言う、水町玲子の顔は酷く悲しそうだ。まだ説明していなくとも、哲郎がどのような人生を歩んできたのか、想像がついているのだろう。
「私の浅はかな考えのせいで、哲郎君には多大なご迷惑をかけてしまったわ。行き倒れている私を救ってくれた恩人でもあるのに……」
 水町玲子は、哲郎に例のスイッチを譲渡したのを後悔している。相手の反応を見れば、それくらいはすぐにわかった。
 確かに色々と理不尽な目にもあってきたが、だからといって、目の前にいる女性を責めるつもりは毛頭なかった。
 過去に戻るのは哲郎自身が選んだことであり、相手女性に非はない。むしろ、良い思いもさせてもらった。
「恩なら十分に返してもらったよ。私の記憶の中には、あのスイッチを使用しなければ得られなかった、たくさんの楽しい思い出があるからね」
 静かに笑うと、かすかに水町玲子も安堵したみたいだった。
「そう言ってもらえると、少しは救われるわ。ねえ、ひとつだけ、楽しかった思い出の中身を教えてもらっていいかしら」
「もちろん。すべて水町さん……いや、玲子と一緒に過ごした日々だからね」
 哲郎の言葉に水町玲子が目を丸くする。そして次の瞬間、彼女は人目もはばからずに泣き出した。
 どうすればいいかわからず、おろおろしている哲郎に、水町玲子は涙声で「私もなのよ」と告げてきた。
「小学校の頃に、哲郎君に好意を伝えられなかったのが心残りで……だから、あのスイッチも使ってしまったの」
「そうだったのか。それにしても、スイッチを使用すると決めた理由まで一緒だなんて、少し驚いたよ」
「え……そうなの? じゃあ、哲郎君も、最初は小学校時代からやり直したのね」
「ああ……色々あったけど、結局は最後まで辿り着けなかったな……」
 哲郎と水町玲子。例のスイッチの所有者だった二人が、揃って強制的に過去へ戻されるという事態に遭遇した。
 おかげでスイッチの効力を最大限に使用するのを諦め、一番始めと同じ人生の内容をそっくりなぞるはめになった。
 それでも後悔が少ないのは、一向に終われない人生を経験してきたからだろう。どんな形であれ、ゴールできるというのは、ありがたいことなのかもしれない。
「けれど、どうしてあんな現象が起きたのだろう……」
 哲郎が首を捻ると、水町玲子が自身の仮説を教えてくれた。
「ひょっとしたら、スイッチはひとつだけではなかったのかもしれないわ」
「だとしたら、もっと多くの人が終われない人生に苦しんでいてもおかしくないはずだ」
「そのとおりだわ。でも、互いに影響を及ぼす間柄でなければ、スイッチの効果を受けないのだとしたら……」
 なるほどと、哲郎は頷いた。遠く離れた土地の人間がリセットしようと、哲郎の人生に影響がなければ何の問題もない。それなら、無事に人生を終了させられるはずだ。
 けれど哲郎も玲子も、そうはならなかった。近しい誰かが、例のスイッチを所持していた可能性もある。
 そして互いのスイッチが干渉するのだとしたら、恩恵を受けて人生を終えるのはかなりの難度に思えた。
 しばらく水町玲子も難しい顔で考え込んでいたが、途中で哲郎が「もう、いいさ」と沈黙を破った。
「スイッチの謎が解明したからといって、再び所有者になるつもりはないからね」
「あら、奇遇だわ。実は私もなの」
 哲郎と水町玲子が顔を見合わせて笑う。あのようなスイッチに頼らなくとも、運命は再びの出会いをもたらすようにセッティングしてくれていたのだ。
「もっとたくさん、話したいことがあるんだ。これから、自宅へ招待してもいいかな」
 哲郎がそう言うと、水町玲子が笑顔で頷いてくれた。老齢になっているが、若かりし頃と変わらない素敵な笑顔だった。
 どのような過去を辿ってきたとしても、それはさして問題でないのかもしれない。昨日には戻れないけれど、明日へは勝手に進むのだから、未来を見据えて人は生きるべきなのだろう。
 理屈ではわかっていても、実践するのはとても難しい。ゆえに哲郎も、過去へ戻れるスイッチを使用したのだ。
 伸ばした哲郎の手に、水町玲子が自分の手をそっと乗せる。何かを始めるのに、早いも遅いもない。要は覚悟があるかどうかだ。
 周囲からどのような目で見られようとも、哲郎はようやく繋げた水町玲子の手を離すつもりはなかった。
「ふふ……なにか、恥ずかしいわね」
「いいさ。恥をかくのも、人生の大事なひとコマだ。数多くの後悔をしてきたおかげで、私は玲子に手を差し伸べられたのだから」
「そうね……私もよ。辛い思いをたくさんしてきたからこそ、哲郎君の好意に、素直に甘えられるのかもしれない。もう、お婆ちゃんだけどね」
 手を繋いだままで、哲郎と水町玲子は雑踏の中に消えていく。けれどその足音は、どこまで歩いても、ひときわ幸せそうに周囲へ響き続けていた。

 終


面白かったら一言感想頂けると嬉しいです。      



小説トップページ ・ 目次へ ・ 前へ