その後の愛すべき不思議な家族2
30
妻の和葉が早朝から戸高の実家へ向かった日。春道は「どーんっ」という声とともに起こされた。制止する者がいない状況下で、水を得た魚のように葉月が家中を動き回る。和葉が不在の時点でこうなるのは予測できていたのに、早起きできなかったのは不覚だった。腹部に伝わる鈍い痛みと重さを認識しながら、ゆっくりと目を開く。
「パパ、おはよー」
寝ている春道の上で、横になってる愛娘が朝の挨拶をしてくる。どうして起こす際に、フライングボディプレスをするのかはいまだに謎だが、聞いたところで納得できる答えが返ってこないのは明らかだった。最初こそ驚きもしたが、最近では恒例行事になりつつあるので、またかという感想しか覚えなかった。慣れというのは怖いものだと、春道は眠い目を擦りながら苦笑する。
「ああ、おはよう」
上半身を起こし、愛娘を強制移動させたあとで朝の挨拶をする。今日は休日なので、葉月の学校は休みだ。まずは顔を洗ってから、2人分の朝食を作るとしよう。
とりあえずの活動方針を頭の中でまとめた春道は、布団から立ち上がると葉月にリビングで待ってるように告げた。愛娘が退室したのを確認してから、パジャマを脱いで部屋着に着替える。最近では、上下お揃いのジャージがお気に入りだった。
顔を洗い、歯を磨けば準備完了だ。朝食を作るために、リビングへ移動する。葉月が食卓の椅子に座って、テレビを見ていた。朝に放映してる児童番組かと思ったら、報道番組だった。春道が子供の頃は、せいぜい前日のプロ野球の結果くらいしか見なかったものだ。時代が変われば、子供たちの生活も変わるのだな、などと朝からわけのわからない感傷に浸ってみたりする。
「朝からニュースとは、葉月も大人だな」
少しだけ、からかってみる。いつもみたいに唇を尖らせてむくれるかと思いきや、愛娘はにぱっと得意げに笑った。そして、主に女児に人気らしいアニメの情報が画面に映し出されるなり、ぐいと身を乗り出した。どうやら葉月の目的はこれだったようだ。地上波でも放映中だが、どうやら近いうちに映画館で放映されるらしい。春道も昔はよく、格闘もののアニメの劇場版を友人たちと見に行ったものだ。
愛娘もそうらしく「葉月、これ、皆と見に行くんだよー」と、今から大はしゃぎだ。その仕草があまりに可愛らしかったので、春道はそうかと微笑んで頷く。ひとり暮らしでは決して味わえなかった平和な朝のひとコマだ。
「それじゃ、朝飯を作るか。パンにハムエッグでいいか?」
「うんっ」
元気よく返事をしてくれた葉月も、春道がさほど料理が得意でないのを知っている。朝からヘルシーなメニューを要求されたところで、妻の和葉みたいにできないのだ。それでも冷蔵庫には、愛妻が事前に用意してくれていたサラダが入っている。それを取り出して、まずは食卓に置く。次に牛乳だ。紙パックと2人の分のコップも用意してから、キッチンに立つ。
料理が苦手な春道とはいえ、さすがにハムエッグ程度は作れる。出来栄えが見事かどうかは別にして、簡単にフライパンで調理する。湯気と一緒にいいにおいを立ち昇らせるハムエッグを、お皿に移動させる。
タイミングを合わせたかのように、調理に取りかかる際に食パンを入れていたトースターが完成を知らせる音を鳴らす。そちらからも食欲をくすぐる香りが漂ってくる。
「葉月、お皿を食卓に持っていくねー」
劇場版アニメの特集が終わったのか、椅子からぴょんと降りた葉月が、キッチンまで小走りで来てくれた。小さな手でパンやハムエッグが乗ったお皿を運んでくれる。
ありがとうとお礼を言いながら、春道は使い終わったフライパンなどを台所に置く。葉月と一緒に朝食をとってから、後片付けをするつもりだった。
「いただきます」
お皿をひとりで運んでくれた葉月の待つ食卓へ移動し、正面の席に座ってから食べる前の挨拶をする。朝はもちろんだが、こういう場面においてもきちんと挨拶をするのが高木家のしきたりみたいになっている。発案者というべきか、主にそうしたがってるのが和葉なので、うっかり忘れると大変に怖い目にあってしまう。
「パンもハムエッグも美味しいねー」
バターを塗った食パンをもふもふと頬張りながら、葉月が笑顔で感想を言ってくれる。それだけで料理をしてよかったと思える。これも、独身時代にはなかった感覚だった。
朝食後の後片付けは、葉月が手伝ってくれたおかげもあって、短時間で終了した。友人と遊ぶ約束をしてるらしい愛娘を玄関先で見送ったあと、春道は仕事部屋へ移動して、仕事を開始する。ノートパソコンを使い、似たような作業を毎日繰り返す。知人には飽きないかと言われたりもするが、そもそもどの仕事でも日々の業務は似たり寄ったりなはずだ。
確かに、たまに疲れたと思う時はあるが、それでも春道自身が好きで選んだ仕事だ。飽きたなんて言ってたら罰が当たる。そういう時は窓を開けて、外から新鮮な空気を入れて気分転換をする。あまりに時間をとりすぎるのは問題だが、多少なら大丈夫。今日も昼前には、一度空気の入れ替えをしよう。
仕事に集中すると、時間はあっという間に過ぎる。それがいつもの春道だ。けれど、今日に限っては少しだけ事情が違った。作業中であっても、すぐに手が止まってしまう。妻の和葉は今頃どうしてるのかな、なんてふと考えてしまうのだ。
友人の結婚式ということは、新郎側にも招待客がいて当然。同じ年頃の奴らばかりだし、中にはイケメンと呼ばれる部類の男もいるだろう。そして、自慢じゃないが妻の和葉は綺麗だ。その事実が、なおさら春道の不安を煽る。
この世の中には人妻だと知っていても、いや、人妻だからこそ声をかけるような男も存在する。そんな奴に限って、カッコいいからたちが悪い。和葉なら大丈夫だと信じているが、どうにも不安がまとわりついてくる。何度も追い払っているのだが、またすぐに戻ってきてしまう。
窓を開けて空気を入れ替え、気分転換をする。最初はただの同居人だったはずが、いつの間にか大事な存在になっていた。いないだけでなんだか心細くなり、他の男に口説かれてないか心配になる。自分は意外と嫉妬深い男だったのだなと、今日になって気が付かされた一面に苦笑する。
気持ちが少し落ち着いたところで、窓とカーテンを閉めて仕事を再開する。キーボードを叩き、着実にひとつずつ終わらせる。和葉の件は気になっているけれど、今日中に仕上げたいところまでは、なんとかできそうだった。
ある程度までの作業が終わったところで、両手を真っ直ぐに上へ伸ばす。唸るように声を発しながら背すじをそらせたあと、体勢を戻しつつ大きく息を吐く。横目で室内にある小さな正方形の置時計を見る。12の付近を示してる針が、正午近くなのを教えてくれる。
そろそろ葉月も、友達のところから帰宅するはずだ。先にキッチンへ行って、準備をしておこう。左手で右の肩を揉みほぐしながら、立ち上がる。普段は家事の大半を担ってもらってるだけに、和葉がいないと存在の有難みがよくわかる。
1階へ降りたついでに、玄関を見てみる。靴がないので、葉月はまだ外にいるみたいだ。今度は右手で左肩を揉みつつ、キッチンへ向かう。開けた冷蔵庫の前でしゃがみ、何を食べようか悩む。カップラーメンという手もあるが、朝がパンだっただけに、昼はお米を食べさせてあげたい。とはいえ、春道の料理レベルで調理可能なのは、せいぜい炒飯程度だ。
改めてどうしようかと思っていたら、冷蔵庫の中に肉じゃがの入った容器があった。そういえば昨日の夜に、お昼は何か用意していきますと妻が言っていた記憶がある。抜かりのない和葉に心の中でたっぷり感謝して、冷蔵庫からお昼用のメニューを取り出す。
肉じゃがの他にも、手作りのマカロニサラダなどが用意されていた。とても美味しそうだが、春道ひとりで先に食べるわけにもいかない。葉月が帰ってくるまで、食卓の椅子に座って待つことにする。
ボーっとしてると、またしても友人の結婚式へ出かけていった妻の心配をしてしまう。美人な女性であるがゆえに、たくさんの男連中から連絡先を聞かれまくってるに違いない。パっと見はクールそうだが、実際は情に厚くて優しい女性なだけに、断り切れずに教えてしまう可能性もある。そこからズルズルと関係が続けられ、最後には悲劇が訪れる。
普段から部屋に閉じこもって仕事をする機会が多いせいか、豊かになる一方の想像力がどこぞのテレビで放映してる昼のドラマみたいな展開を思い描く。ないと信じているが、この世に絶対は存在しない。奇妙な息苦しさを覚え、思考がまとまらなくなる。
「……それは、駄目だ。和葉っ」
気がつけば、座っていた椅子から立ち上がってそんなふうに叫んでいた。
そんな春道を、いつの間にか帰宅していた愛娘がギョっとした感じで見てくる。想像の世界から現実に戻った春道は、愛娘の視線で自分が何をしでかしてしまったのかに気づく。
「パパ、どうかしたのー?」案の定、心配そうに葉月が尋ねてきた。
「ハハハ、別にどうもしないさ。さあ、昼ご飯にしよう。ママが肉じゃがを作ってくれてたぞ」
何事もなかったふうを装ってみたが、余計に葉月をきょとんとさせてしまう。今度は変な行動はしていないのに、どうしたのだろと戸惑う。すると愛娘が衝撃的な事実を口にしてきた。
「……お昼なら、もう食べたよー?」
「え!? いつの間に!?」驚きすぎて、春道の声のボリュームが上がる。
慌てて食卓に視線を移すと、こちらにもいつの間にか肉じゃがなどの容器が並べられていた。しかも、すべて空になっている。
「葉月がレンジで温めたおかずを、パパも一緒に食べてたんだけど……覚えてないの?」
まったく覚えてない春道は、素直に認めて謝罪する。「すまん」
「ぶー。でも、食べてる時から、なんだかボーっとしてたもんね。もしかして……お出かけしてるママのこと?」
「いや、それはだな、なんというか……」
「さっき、ママの名前を言ってたし、間違いないよね。パパってば、寂しいんだねー」
楽しそうに笑う愛娘を見ているだけで、嫌な予感を覚える。無邪気な葉月はきっと和葉が帰ってくるなり、春道関連の情報を大量に提供するはずだ。そんな事態になったら、からかわれるのは必至。なんとしても回避しなければならない。
「……葉月、プリン食べるか?」
こんな時のために用意しておいた秘密兵器を使い、買収作戦を展開する。躊躇いなく頷いた葉月に、春道は冷蔵庫のチルドルームの奥に隠していた、ひとつ300円ほどもするプリンを手渡す。
受け取った愛娘は大喜びだ。歓声を上げながら、椅子に座ってプリンを幸せそうに食べ始める。なんとか話題を逸らせた春道は安堵しながら、笑顔の葉月を見つめるのだった。
夜になって妻の和葉が帰宅すると、葉月は誰よりも先に玄関で出迎えるためにダッシュする。まだ幼いだけに、母親が恋しかったのだろう。春道も、すぐに愛娘の背中を追いかける。
リビングから廊下へ出た瞬間、葉月の元気な声が耳に飛び込んでくる。「パパ、大変だったんだよー」
「ちょ――っ! 葉月、お前……プリン食べたろっ!」
春道の必死の制止を無視して、小悪魔に見えてきた愛娘が言葉を続ける。
「とにかく寂しがってて、お昼なんかママの名前を叫んでたんだからー」
帰宅早々の葉月の報告に、戸惑いつつも和葉が苦笑する。
「ち、違うぞっ! それはだな、結婚式でイケメンに誘われたりしないか心配で――って、これも違うっ! 違うんだ!」
途中で墓穴を掘ってしまったのに気づいても、時すでに遅し。どうして春道が心配していたのか、和葉にすっかりバレてしまった。
最初は驚いて目をパチクリさせていた和葉だったが、すぐにいつもの見慣れた笑みを浮かべる。
「心配しなくとも、大丈夫です。私は春道さんひと筋なのですから」
「え? そ、それって……」
「フフ。お酒を少し飲んでしまったせいでしょうか。なんだか暑いですね」
ほんのりと桜色に染まってる頬が、なんだか色っぽく見える。不意にドキドキする心臓が、改めて春道の気持ちを教えてくれる。
「そんなの、わかっていたさ。俺も和葉ひと筋だからな」
酒は飲んでないが、顔を赤くしている春道を見て、和葉だけでなく葉月も楽しそうに笑っていた。
続く
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