その後の愛すべき不思議な家族
26
「パパ、止めてっ!」
葉月の行動は、春道だけでなく、この場にいる全員を驚かせた。
両親の顔も覚えていないので、相手に対する怒りもそれほどではないのか。それとも違う思惑があるのか。とにもかくにも、春道は愛娘の要望どおりに、柳田信一郎から手を離した。
直後に柳田信一郎は再び深々と頭を下げて、葉月へ謝罪の言葉を告げた。
「私に出来ることなら、何でもさせてもらいます。お金なら、家屋敷を売ってでも、望みの額を用意します」
まだ懲りてないのかと憤る春道の側で、小さな少女が凛とした瞳で地面へ平伏す大の男を見つめた。
「ねえ、おじさん。葉月の……お父さんとお母さんは、どういう人たちだったの?」
「……とても優しく……思いやりのある……方々でした。亡くなるなら……むしろ、私の方だったのです……!」
人目をはばからずに号泣する男性と、瞳に涙を浮かべながらも、必死で我慢して毅然とした態度を崩さない少女。どちらが立派かは、春道の目にも明らかだった。
「初対面の私の言葉を……疑いもせずに信じてくれて……騙されたとわかってるはずなのに……文句も言わず……励ましの言葉さえ、かけてくれました」
後悔先に立たず。この言葉を柳田信一郎は、心の底から実感してる最中かもしれない。だとしても、春道に同情するつもりはなかった。
あくまでも自業自得であり、すべて自分自身の不誠実さが招いた結末である。
こういう結果へ至るには、それなりの原因が必要となる。まさに因果関係を、そのまま映したかのようなシーンだった。
「そっかー。うん、葉月のお父さんとお母さんは、いい人だったんだね」
あっけらかんとした言い方に、またもや現場の空気が一変する。
重苦しさは多少残ったままなものの、誰もがどうリアクションするべきかと思案している。
そんな奇妙な沈黙を破ったのは、やはり葉月だった。
「それで、おじさんは、葉月のお父さんとお母さんに感謝してるんだよね?」
「も、もちろんです……心から感謝すると同時に、申し訳ないと――」
「それならきっと、お父さんとお母さんも喜んでるよ」
新米父親の春道はともかく、長年母親として育ててきた和葉でさえも、葉月の言動には驚きを隠せていなかった。
怒るでも泣き喚くでもなく、柳田信一郎にそう告げたあとで、いつも以上の笑顔を見せたのである。
「あ……え……な……」
「だからパパも、おじさんを怒ったらめっ、なのー。わかったー?」
普段と何ら変わりのない葉月がそこにいた。
毒気を抜かれた形になり、春道は「あ、ああ……」となんとも恰好悪い返事をしてしまった。
これにて一件落着とでも言いそうな雰囲気の中、葉月の足元にすがりついたのは柳田信一郎だった。
「それでは、こちらの気が済みませんっ! 貴方の両親にあんな真似をしでかしておいて、私が幸せになるなど……絶対にあってはならない……!」
どうしても罪を償いたい柳田信一郎に、葉月は愛くるしい微笑を浮かべて質問する。
「おじさんは、家族とかいないのー?」
「え? いや……それは……」
そのリアクションだけで、答えは充分だった。柳田信一郎にもまた、守るべき家族がいるのである。
普通なら、人の親をそんな目にあわせておいて、程度の罵詈雑言のひとつやふたつは当たり前だった。
けれど葉月は、あくまで柳田信一郎を責めようとしなかった。
「それなら、大切にしないと駄目だよー。きっと、おじさんのこと、大好きなはずだから」
「……っ! う、うう……あああ……! すみ……ません……あり……がとう……ござい……ます……!」
絶叫したあとに、泣きながら謝罪しつつお礼を言う。そんな不可思議な現象に見舞われている男性を、葉月はひたすら優しげな目で見守っていた。
「本当に……何もいらないのですか」
泣き止み、立ち上がった柳田信一郎が、今度は葉月にでなく和葉へ話しかける。
「この子がいらないと言ったのであれば、私に受け取る理由はありません」
相手の目を見て、きっぱりと告げる姿はいつもの和葉そのものだ。当初は誰より動揺していたが、いざ柳田信一郎の話が始まると、実際には春道よりも冷静だった。
怒ったり、戸惑ったり、己の行動が恥ずかしくなるほど春道が取り乱したため、逆に平静を保っていられたとも考えられる。
もっとも当人へ聞いてみたところで「そんなことはありません」と返ってくるのがオチだった。
「しかし、私には借金があります。それだけでも、返済させてはいただけませんか」
何よりも葉月の意思が尊重されると知った男性は、身を屈めて訴えるように頼み込む。けれど、春道の愛娘の回答は変わらなかった。
「だって、葉月はおじさんにお金貸してないもん」
平然とそう言い放たれ、困り果てた柳田信一郎は、次に葉月の父親である春道を見てきた。
「本人がいらないって言ってるんだ。その金は、アンタの会社のために使えばいいさ」
意地の悪い言い方なのは重々承知していたが、このぐらいはしても罰が当たらないはずである。
何度騙されても、人を信じ続けた夫婦には「余計な真似をしないでください」と叱責されるかもしれないのが、唯一の悩みの種だった。
もっと虐めてやりたいのを抑えつつ「冗談だよ」と言って軽く笑う。当事者に等しい葉月が恨んでないのであれば、春道が仕返しをするのは筋が違った。
「……わかりました。では、最後にお願いがあります」
そう言うと柳田信一郎は、これまでにも増して真剣な顔で葉月へ向き直る。
「また……このお墓参りに来るのを……許して……いただけますか……」
心苦しそうに尋ねる男性へ、葉月は満面の笑みとともに「うんっ」と明るく元気に頷いた。
「お父さんとお母さんも、きっと喜ぶよ」
「あり……がとう……ございます……! このご恩は、一生……忘れません……」
葉月へ深々と頭を下げたあとで、柳田信一郎は恩人たちの眠るお墓にも丁寧な礼をした。
「それでは……これで、失礼いたします……」
柳田信一郎は立ち去る前の挨拶をすると、そのまま春道たちに背中を向ける。
大の男なのに、遠ざかっていく背中は極度に丸まり、とても小さく感じられた。
それも仕方ないか。春道がそう思っていると、唐突に葉月が「おじちゃんっ!」と叫んだ。これには柳田信一郎だけでなく、現場にいる全員が驚いた。
「おじちゃんは社長なんだよね。だったら、もっと堂々としてなきゃ駄目だよー。大きな背中がかわいそうだもん」
「……っ!! は、はい!」
振り返った際に告げられた言葉が、柳田信一郎の背をしゃんと伸ばさせた。
再び向けられた男性の背は見事に大きくなっており、見送る葉月もどこか嬉しげだった。
「……これで……よかったのか……」
なんとなしに、春道はすぐ側にいる葉月へ尋ねた。
「うんっ! だってね……あのおじちゃんは、本当に謝ってたもん。それに嬉しいこともあったから」
「嬉しいこと?」
「うんっ! 葉月にね、パパとママの他に、お父さんとお母さんが増えたんだよー」
意味が通じてるようで、通じてない。こういうところは相変わらずだなと思いつつ、春道は「そうか」と頷いた。
「パパとママはいるから、お父さんとお母さんなのー。えへへ」
朗らかに笑う少女を見て、ようやく春道は相手が何を言いたいのかを理解した。
両親に本当も嘘もない。葉月はそう言いたいのである。
それを悟った和葉は涙を流し、最愛の娘へ「ありがとう」と告げたのだった。
柳田信一郎が去ったあとも、意外なくらい葉月は普通だった。
もっと取り乱したりするのかと思っていたが、春道の目には普段と変わりないように映っていた。
墓地から戻ってくる前に口にしたみたいに「嬉しいこと」として、捉えられているのだろうか。だとしたら、春道が考えてるよりも愛娘はずっと強い人間だった。
「ん? ……雨か」
宿泊予定の客間でゆっくりさせてもらっている春道の耳に、ポツポツと少し大きめの音が届いてきた。
日中から相当分厚い雲に覆われていた空が、いよいよ本格的に雨を降らせようとしてるのだろう。程なくして、雨音が激しさを増してくる。
家族全員で川の字になって眠る予定ではあるが、現在この部屋にいるのは春道ひとりだけだった。
和葉と葉月は戸高家へ来た当初の約束どおり、戸高泰宏へ振舞う手料理を作っているはずだ。調理が苦手な春道が台所へいても、足を引っ張る結果にしかならない。なので、おとなしく部屋で待機してるのである。
とはいえ、黙って待ってるだけというのも退屈だった。
春道が知ってる中でもトップクラスの広さを誇る戸高家だけに、探検してみようかななどという子供みたいな冒険心が芽生えてくる。
柳田信一郎の件で多少なりとも気分が滅入ってるのは確かで、単純に動いていたいだけかもしれない。何にせよ、春道は客間から移動することに決めた。
お世話になったと挨拶に来る人間の応対は、ほぼすべて大晦日前に済ませている。これは戸高泰宏の弁だ。名家の当代というのも、意外な大変なものだなと感想を抱いた。
なんとなしとはいえ、頭の中で考えたからか、該当の人物が前方から歩いてくるのが見えた。
「春道君じゃないか。もしかして、退屈になったのかな」
図星をつかれ、照れ臭くなった春道は頭をポリポリ掻きながら「すみません」と口にする。
「謝る必要はないよ。君は義弟になるんだから、この家の中なら遠慮しないで自由にしててくれ」
「ありがとうございます。和葉と葉月は今も料理中ですか」
「葉月ちゃんは違うんじゃないかな。途中から気を遣って、和葉が遊びに行かせたみたいだからね」
尋ねた春道に対して、義理の兄にあたる戸高泰宏が丁寧に答えてくれた。
きっと葉月のことだから、いつものごとく「わー」とか言いながら、戸高家の中を走り回ってるに違いなかった。
どうせ暇なら、葉月と遊んでるのも悪くない。そう考えた春道は、戸高泰宏と別れて愛娘を探すためにあちこち歩き回る。
けれど騒がしい声はどこからも聞こえず、なかなか見つけられない。仕方なしに、今度は愛妻がいるであろう台所へ顔を出してみる。
「あれ……和葉もいないのか……」
火は消されてあるが、料理が途中になっているので、先ほどまで和葉がいたのは間違いなかった。
一体どこへ行ったのか。首を傾げながら、春道はふと窓から外を見る。
いつの間にやらどしゃ降りになっており、けたたましい音が台所まで聞こえてくる。
まさかなと思いつつも一応、春道は自宅から一本だけ用意してきた傘を広げて外へ出る。
「こんな雨の中……外で遊んでるわけがないよな……」
きっとどこかの部屋で、遊んでるのだろう。たまたますれ違ってただけと判断したが、すぐに戸高家へ戻る気にはなれなかった。
柳田信一郎の話にあった夫妻――いわば葉月の産みの親が気になっていた。
あまりにも悲惨と言える最期。果たして夫婦は、本当に幸せだったのだろうか。答えがわかるはずもないが、気付けば春道の足は例の墓地に向いていた。
「……? 誰かいるのか」
例の墓地へ近づくたび、雨音に混じって誰かの泣く声が聞こえてくる。
見知らぬ誰かが墓参りをしてるのであれば、邪魔をするのも悪い。春道は足音を立てないようにして、ゆっくりと目的地へ近づいた。
すると、例の墓の前にいたのは、和葉と葉月の母娘だった。
座り込んで号泣している愛娘を、母親の和葉が後ろから抱きしめている。
和葉の両目からも、大量の涙が溢れていた。
「……普通に見えていたけれど、やっぱり心には傷を負っていたんだね」
背後から聞こえた声にびっくりして振り向くと、いつの間にやら戸高泰宏が立っていた。
「春道君と一緒さ。台所に行ってみたけど、誰もいなかったんでね。そうしたら、君が出かけるのが見えたからさ」
後を追ってきたのだろう。大きい雨音のせいで、今の今まで戸高泰宏の接近には気付かなかった。
「同じ女性だからか、それとも母親だからなのか。何にせよ、一番最初に気付いたのは和葉だった……」
「……ですね。俺も一応は父親なんですが、情けない話です。葉月の悲しみに……ちっとも気付いてませんでした」
「そう自分を卑下するものじゃないよ。春道君だって、何度も葉月の心を救ってあげてるはずさ」
「だといいんですけどね……」
落ち込む春道の背中を、何を言ってるんだとばかりに戸高泰宏が叩いてきた。
「葉月も言ってただろう。パパは春道君ひとりなんだよ。さあ、家族が風邪を引かないようにしてあげないとね」
それだけ言うと、戸高泰宏は自分が使っていた傘を春道に手渡し、自分は雨に濡れながら家への道を小走りに駆けて行った。
走り去っていく背中へ、小さく礼をして謝意を示したあと、春道は未だ一緒になって泣いている母娘の側へ歩み寄る。
二人に傘を差してやると、ようやく春道の存在に気がついたみたいだった。
「春道さん……」
「パパ……」
和葉と葉月が、同時に春道の名前を呼んだ。そんな二人に微笑みながら「ほら、帰るぞ」と告げる。
「葉月はパパとママ、どっちの傘に入りたい?」
春道の言葉を受けて、ようやくずぶ濡れの母娘がわずかでも笑顔を見せてくれた。
「……もちろん……ママよね……」
「……ううん……」
和葉の言葉を否定したあと、葉月は笑顔で「皆で一緒に入るの」と言ったのだった。
面白かったら一言感想頂けると嬉しいです。
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