愛すべき不思議な家族 11
気づけばいつの間にか夜になっていた。空腹に負けて考えるのを止めるまで、春道は数時間もひとりで悩んでいたことになる。しかも自分以外の人間の問題についてだ。
考えるのも疲れたので、夕食をとろうと廊下に春道が出た時、丁度松島和葉が帰宅したようだった。まだ午後八時前であり、彼女の帰宅時間からすれば比較的早い部類に入る。
冷蔵庫から夕食を取りながら、春道は耳を澄ましてみた。もしかしたら、母娘でひと悶着あるかもしれないと思ったからだ。
教師に密告したという理由で、葉月は更なるいじめを受けた。しかし当の彼女はそんな行動をした覚えはない。
となれば、いきつく結論はただひとつ。自分ではない誰かが、担任にいじめの実態を報告したのだ。いかに鈍感な人間でも、ここまで条件が揃ってれば誰の仕業か気づく。
今日の様子を見てる限り、松島葉月の味方になってくれてるクラスメートは存在してない可能性が高い。
松島葉月にしてみれば、母親のせいでいじめの悪性度が高くなったとも言える。普通の家庭であれば、子供が親に「余計な真似をするな」と、くってかかってもおかしくない状況だ。
この家に来てから、春道は少女が怒ってる姿を見たことがない。顔をあわせる機会が極端に少なかったせいもあるが、それでも松島葉月が怒鳴ってるシーンは想像しづらかった。
春道の心配をよそに、一階から修羅場になってるような物音は聞こえてこない。いつもどおりの静かさが、平和だと証明していた。
若干拍子抜けしつつも、ホッとした春道は私室に戻って夕食を平らげた。基本的に他人事だったとしても、争いは好きではないのだ。
そのあとは食休みも兼ねて、溜まっていたDVDの観賞を始める。気になったテレビ番組をDVDに撮り溜めておき、仕事がひと段落してる期間に一気に消化する。それが春道の生活パターンの一部だ。
仕事に精をだすようになれば、当然娯楽に使える時間は大幅に減る。好きな番組があったとしても、悠長に見てはいられない。
医療を特集した二時間番組を見終わり、次はお笑いにでもしようかと、夜食のスナック菓子を片手にDVDの保管場所を漁る。しかし目的のDVDを見つける前に、私室のドアが何者かにノックされた。
午後九時にもなると、少女は自室にこもってるのがほとんどだ。ましてや日中、春道に冷たく追い返されてるのだから、松島葉月が来訪する可能性は限りなく低い。
「開いてるよ」
春道が入室を促すと、現われたのはやはり母親の方だった。
「今度は何?」
「最終報告です。先ほど葉月から、いじめが止まったと聞きました。いじめられだしたのはつい最近からだったようで、大事にならないうちに対応できたのが幸いでした。これも高木さんのおかげです。どうもありがとうございました」
「……どういたしまして」
ペコリと頭を下げた和葉に、春道はそう言うしかなかった。家まで追い回される目にあってもなお、娘は母親に心配をかけまいと嘘をついたのだ。そこまでの決意があるのなら、彼女の嘘を覆す必要はない。
「どうかしましたか。なにやら難しい顔をしておられますが」
「いや、何でもない」
「そうですか。では、私はこれで失礼させていただきます」
退室する前にもう一度礼をして、松島和葉は廊下へと戻っていった。
こちらの微妙な表情の変化を見破れるのなら、娘の嘘も簡単に見抜けそうなものだが、彼女に葉月の言葉を疑ってる様子はなかった。
娘に全幅の信頼を置いている。言葉にすれば格好いいかもしれないが、それは大人のエゴに他ならない。ひょっとしたら、子供は心の底では親が真実に気づいてくれるのを待ってるかもしれないのだ。
すっかりお笑いのDVDなど見る気が失せ、座りこんだまま腕を組む。
松島母娘は相手を思いやった方法を互いに選んだわけだが、結局は何の解決にもなってない。下手をすれば、事態が悪化する可能性もゼロではない。
人間関係とはなんと面倒なものか。それでも人は、決してひとりでは生きていけない。
などと柄にもなく哲学的なことを考えていたせいか、銭湯に行く時間が過ぎている事実に気づくのが遅れてしまった。
――ヤバい。急いで春道は準備を整え、駆け足で近所の銭湯へと向かうのだった。
翌朝、春道が起床した時には、すでに家には誰もいなかった。和葉はともかく、葉月は毎日いじめられるとわかってるのに登校してるのだ。学校など行っても楽しくないだろうに、たいした根性である。
もしくは「絶対に休むな」などと脅されていて、行かざるを得ないのか。担任教師が注意をしただけに、表立っていじめられる回数は減るだろうが、今度はより陰険かつ悪質な手法を使ってくるようになる。
いや、クラス全員がいじめに加担しているか、見て見ぬふりをしてるのなら、以前よりも堂々とやってくるかもしれない。
とにかく、松島葉月のいじめ問題は何ひとつ解決していない。なのに、母親の松島和葉は終了した事案だと思っている。
厄介な事態にならなければいいのだが。そう思いながら春道は洗顔を済ませ、専用の冷蔵庫から朝食を取り出す。この作業も半月ほど繰り返してると、もはや慣れたものである。
朝食に選んだセットを私室に持ち込んで、いざ手をつけようとした春道だったが、寸前で動きをピタリと止めてしまう。調味料を切らしてたのを思い出したのだ。
味覚に関しては人それぞれの好みがあるので、春道が使う調味料は自分で用意することになっていた。別に松島家のを使ったら駄目だとかではなく、単純に自分専用の調味料を用意することにしたのだ。
例えば目玉焼きにしても、塩で食べる人間もいれば、醤油やソースなど様々な味付け方法がある。たかが調味料とバカにできない。
素材の味をそのまま楽しむのも食の一興と言えなくもないが、やはりないよりはあった方がいい。背に腹は変えられず、春道は松島家の調味料を借りに行くことにした。
幸いにして松島母娘は外出している。一階のキッチンをうろついたところで、顔を合わせる可能性はない。
松島和葉と結婚の話をして以来のリビングとキッチンに到着する。しっかり者の彼女らしく、仕事と家事の両立を見事にこなしている。きっちりと片付けされており、すぐに散らかってしまう春道の仕事部屋や私室とはえらい違いだった。
目当ての醤油を見つけ、誰もいない空間に一応「借ります」と声をかけてから、醤油入れを手に取った。
さて、二階へ戻ろう。リビングをあとにしようとする春道だったが、視界の隅にある物を捉えて足を止める。
それはゴミ箱だった。一番上にプリントのような紙が丸められて、無造作に放りこまれていた。
本来他人のゴミ漁りをする趣味はないが、何故かクシャクシャになってる一枚のその紙が気になって仕方なかった。
とりあえず中身の入った醤油入れをテーブルに置き、可愛らしいサイズとデザインのゴミ箱からプリントを拾う。
どうやら少女が通っている小学校からのお知らせみたいだった。何だろうと思って紙を元に戻していくと、すぐに父兄参観の太い文字が飛び込んでくる。
なるほどなと春道は思った。昨日の松島葉月の行動はこれのせいだったのだ。初めて二階に上がってきて春道の私室のドアをノックしたのは、いじめをなんとかしてほしかったのではなく、父兄参観があると伝えたかったのだ。
プリントをよく見てみれば、授業参観は今日の午後二時からとなっている。
リビングにある時計で現在時刻を確認する。午後一時を少し過ぎた頃だった。
プリントはもっと前に貰っていたはずだろうに、遠慮からなかなか春道に話せなかったに違いない。だがプリンの一件から、少し打ち解けた雰囲気になったため、彼女からすれば一か八かでお願いしようとした。
あくまで春道の想像でしかないが、当たってる自信は十二分にあった。決死の勇気で春道の部屋に来たところ、冷たく追い返されてしまう。相当に落胆していた様子が、クシャクシャになってるプリントから見てとれる。
どういうわけか春道は悩んでいた。
母親の松島和葉からは、あまり娘と深く関わらないでくれと言われている。それなのに、今から準備をしても授業開始に間に合うかどうか計算してるのだ。
フリーのプログラマーなんて仕事をしてるだけに、人付き合いは得意じゃない。春道の性格を知ってる友人が、今の心境を聞いたらきっと驚く。お前はいつから、そんなお人好しになったんだと。
もしくはロリコンの気でもあったのかと、白い目を向けられてしまうかだ。
さらに悩みは深くなるが、考え込んでる間にも時計は正確なリズムとともに秒針を動かす。もはやゆっくりと思考を重ねてる余裕などなかった。
――やらなくて後悔より、やって後悔。どちらも後悔する可能性があるのだとしたら、いっそ何も考えずに前へ進めるだけ進めばいい。覚悟を決めた春道は醤油入れを元の場所へ戻し、急いで二階の私室へと駆け込む。
授業参観なのだから、身だしなみくらいはきちんとして行かなければならない。久方ぶりに髪の毛をセットし、数少ないスーツに袖をとおす。手鏡を探しだし、どんな感じかチェックしてみる。
急ごしらえにしては、なかなかである。ハンサムとは言えないまでも、決して容姿に不自由してるわけではない。きちんとした格好をすれば、しっかりとした大人になる。
普段はラフな服装に、セットとは無縁の髪型をしてるのでモテそうなタイプには見えない。だが事実は少しだけ違う。
異性にモテたいと願い、おしゃれに精をだしてた学生のひと頃はそこそこ女生徒からの人気もあったのだ。
けれどある時急に、着飾って自分を偽るのがアホらしく思えた。それ以来、女性に執着しなくなった。格好をつけて相手に気を遣って、運良く恋人をゲットできたとしても、その努力を持続させなければ女性はすぐに離れていく。
元々内気ではなくても奥手な性格だっただけに、女性を繋ぎとめておく行為や苦労が面倒臭くなったのだ。
容姿ではなく、マメな男こそが女性にモテる。昔、誰かから聞かされた言葉だったが、歳を重ねるごとに意見の正しさを実感した。もうすぐ三十歳になるというのに、未だ春道が童貞なのがいい証拠である。
それでもたいした問題に思ってなかった。一生を女性経験なしで終わるのも一興だと思っていたし、縁というのは自分から探しに行かなくても、時がくれば向こうからやってくるものだという持論を信じていた。
現に少し特殊なパターンではあるが、松島家との縁は春道が望む望まないに関わらず、突然目の前に現われた。だからこそ、こうして既婚者になれたのである。さらに縁あって、自分の血を分けてないにしろ娘もできた。
幼少時代の春道と、松島葉月の現状が似てるのも、ひょっとしたら何かの縁かもしれない。今ではそう思っていた。
都会のホストばりにキめて、春道は家を出る。愛車に乗って、目指すは当然松島葉月の通う学校である。
スポーツカーらしく豪快なマフラー音を轟かせ、勢いよく発進させる。腕時計をチラリと見ると、すでに授業開始時刻に迫りつつあった。ギリギリ間に合うと思っていたのだが、予想以上に準備に手間取っていたようだ。
普段から格好つけ慣れてるのなら、そうでもなかったに違いない。しかし久しく身なりをビシッと整える生活とは無縁だっただけに、考えていたより手つきがおぼつかなかったのである。
歩けば結構な距離でも、車という文明の産物を使えば目的地までさほど時間はかからない。田舎には似つかわしくない爆音を響かせて、車が小学校の敷地内に定められた駐車場に到着する。
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