愛すべき不思議な家族 13
松島葉月の授業参観に行ったその日の夜。夕食を平らげ、私室で資料整理をしていると足音が近づいてきた。
やっぱりかとため息をつきつつ、春道は足音の主がやってくるのを待った。
足音が部屋の前で止まると、ドアをノックされるより先に春道は「開いてるよ」と廊下にいる人物に声をかけた。
少しの沈黙の後、部屋のドアがゆっくりと開けられた。廊下に立っているのは、春道が想像したとおりの姿だった。
「失礼します」
丁寧に告げたあと、入室した松島和葉が丁寧にドアを閉める。元々が自分の家の部屋だけあって、実に慣れた手つきだった。
松島和葉は床に座っていた春道と、正面から向かい合える位置で腰を下ろした。瞳には強い意志力が満ち溢れており、言いたいことを言うための準備は万端そうである。
「……用件はおわかりですよね」
とりあえずは落ち着いた静かな声だ。もっとも、松島和葉が声を荒げて喚きたてるシーンなんてなかなか想像できない。
「授業参観の件か」
「そうです。一体どういうつもりですか」
春道を責めるような口調で、和葉が尋ねてくる。
「捨てられていた父兄参観のプリントを発見しちまってな。気づいたら教室にいたわ」
「ふざけないでください」
松島和葉の声に怒気がこもる。ふざけてるつもりは全然ないのだが、相手はそう思ってはくれなかった。
「そういったのを見つけたのなら、まずは私に教えてくれるべきではありませんか。それを黙っていたどころか、勝手に参加してくるなんて理解に苦しみます。それに私の記憶が確かなら、貴方は子供嫌いなはずですが」
「そのとおり。鬱陶しいから子供は嫌いだ。記憶は間違ってないな」
「そうですか? 今回の貴方の行動は、とても子供嫌いの男性とは思えませんが」
「それについてはまったくの同意見だ。だから俺も自分自身が不思議で仕方がない」
別に相手をからかったりしてるつもりはない。その台詞は嘘偽りのない正直な春道の心情だった。
松島葉月に構うほどに、こうして面倒な事態になるのは目に見えていた。なのに、今日の父兄参観に行ってしまったのだ。
「貴方は一体何がしたいのですか」
苛々した口調で松島和葉が春道に言葉をぶつけてくる。普段は冷静なのに、娘のこととなると途端に落ち着きを失う。一人娘を溺愛してるのだろうが、やや過保護に思える。
「別にしたいことはないけどな」
「だったら何故――」
これでは堂々巡りだ。頭の痛い展開に、春道は軽くため息をつく。
「愛娘が大事なのはわかるけど、もう少し子離れしたらどうだ」
思わず口にしてしまったひと言。これが余計に相手の怒りを呼ぶ。
「な、な、何で貴方にそんなことを言われないといけないんですか!」
まさに家中に怒鳴り声が響き渡る。あまりの激しさに、家が揺れたような気さえした。
「葉月は私の娘です。貴方の子供ではありません!」
「だったら父親がいるなんて嘘をつかないで、正直に親は自分ひとりだと言っておけばよかったんだ」
「できるものならそうしてます。こちらにも色々と事情があるんです!」
丁寧な言葉遣いは変わらないが、口調はどんどん強くなってくる。真正面から睨みあう形になり、ピリピリとした緊張感が室内を包みこむ。
大きく息を吐き、春道は肩をすくめる。喧嘩をしても春道に得などないので、先に引いたのだ。
「悪かったよ。怒らせるつもりはなかった。以後は勝手な真似をしないと約束する」
「……わかっていただけたのなら、それでいいんです。父親としての役割を期待してるわけではないのですから」
相変わらず松島和葉はズバッと言葉を突き刺してくる。話を終えれば長居は無用とばかりに、さっさと和葉が退室する。
「台風は去ったみたいだな」
遠ざかっていく足音を聞きながらボソッと呟く。余計な問題を起こし、それをこじらせた挙句に今の生活が壊れる。これはかなり勿体ない。世間一般的に見ても、春道の現状はかなり恵まれているからだ。
元々深く関わる気はなかった。当初の予定どおりになっただけで、何も問題はない。娘がまたいじめられれば、母親の和葉がなんとかすればいいんだ。こっちにはもう関係ない。
「……仕事の準備でもするか」
わずかな休みを終えれば、すぐに次の仕事が待っている。もやもやした気分を晴らそうと、春道は仕事部屋へと向かうのだった。
春道が仕事にとりかかりだした頃、一階のリビングでは松島家の母娘が顔を合わせていた。
普段から仲が良く、起きていれば和葉が帰宅するなり玄関まで走ってくる。そんな愛娘に抱擁するのが、仕事で疲れた和葉の数少ない癒しのひとつだった。
だからこそ、同居人の高木春道による子離れをしろ発言に腹がたった。たまらず声を荒げてしまったほどである。
娘に寂しい思いをさせたくないばかりに、難儀な状況になってしまった。よもや適当な写真から選んだ男性が、近所に住んでるなんて想像ができるわけもない。
さらに偶然が偶然を呼んで、たまたま出かけた銭湯で出会ってしまう。葉月が最初に高木春道を見つけたのだが、あの時はビックリしすぎて心臓が止まるかと思った。
教えた父親は嘘でしたなんて、長年信じさせてきた和葉には言えなかった。混乱する頭をフル回転させ、とっさに春道を父親に仕立て上げる計画を思いつく。
できるかぎり相手に有利な条件を提示し、首尾よく承諾を引き出した。色々とリスクも高いが、当時はそれがベストではなくてもよりベターだと判断したのだ。
結果として、娘の葉月は父親だと信じてる男性と暮らせて満足そうである。高木春道も見た目どおりのタイプで、同居をスタートさせても和葉の肉体を求めてきたりなんてことはなかった。
いくら性交はなしの項目を条件に含んでいても、遊び人でナンパ好きな軽い男ならこうはいかない。その点では運が良かったとも言える。けれど最近になって誤算が生じてきた。
初対面時の葉月に対する態度から考えても、子供好きな雰囲気はなかった。それなのに、段々と高木春道が娘に構い始めてるのだ。葉月があの男に近づくたび、いつボロがでて偽の親子関係がバレるか和葉はひやひやものである。
和葉には娘の葉月の存在こそがすべてだった。現在の関係が予期せぬ形で解消されたとしても、春道は損をしたな程度にしか思わないだろう。誰が一番傷つくかと言えば、他ならぬ可愛い葉月なのである。
それを避けたいがために、ほとんど面識のない男性と結婚までしたのだ。数々の犠牲を払ってきた以上、バッドエンドだけは絶対に許されない。
「パパとお話してきたのー?」
にぱっと笑顔を見せて葉月が聞いてくる。和葉も笑みを浮かべて「そうよ」と言葉を返す。
「ね、葉月」
「なあに」
「あんまりパパに迷惑をかけては駄目よ」
食後のデザートでもあるプリンを食べていた葉月の手がピタリと止まった。顔もにこやかさが消えて、真面目な表情になっている。
「葉月、パパにめーわくかけてないもん」
唇を尖らせて反論してくる。これはかなり珍しかった。普段から聞き分けがよくて素直な子なのだ。
「学校の行事があるならママに話してほしいの。できるかぎり何とかするから」
娘が高木春道と仲良くなるほどに、別れの時が辛くなる。確実に訪れる将来へ向けて、今のうちから準備をする必要があった。そうすればいざそういった展開になっても、葉月が負う心のダメージは少なくてすむ。
「葉月が授業参観のプリントをママに見せてくれてたなら、パパに迷惑をかけずに済んだのよ」
なるべく優しい口調を心がけたがあまり効果はなく、段々と葉月は泣きそうになっていく。
「……だって、ママじゃなくて、パパがくるやつだったんだもん。葉月ひとりだけ、ママがくるのは変だもん」
だからこそ葉月は、和葉に知らせたりせずにプリントを捨てたのだ。それを偶然にも高木春道が発見した。
ここで終わってれば何の問題もなかったのに、よりにもよって春道は葉月の通う小学校へ行ってしまった。あまり娘に構ってほしくない和葉からすれば、まさに小さな親切余計なお世話だった。
高木春道の軽率な行動によって、葉月は父親への慕情の念を募らせる。まったくもって好ましくない事態だった。
「そんなことないわ。父兄参観だから、ママが行ったら駄目なんてことはないのよ」
諭すように説明しても、相手はまだ幼い小学生。大人の理屈にはい、そうですかと簡単に納得してはくれない。
「でも、今日はパパが来てくれたもん。全然めーわくしてなかったもん」
「それは……きっと、葉月に心配をかけさせたくなかったのよ。パパはお昼に仕事ができなくなってしまったわ。けれど葉月がママに話してくれてれば、そんな結果にはならなかったのよ。わかるわね? だから次は――」
「どうしてそんなこと言うのッ!」
リビングテーブルを両手でバンと叩いて、葉月が立ち上がった。勢いがつきすぎたせいで、ガタンとイスが倒れる。
これほどまでに激しい反応を示すのは珍しかった。相手は自分の娘なのに、和葉は一瞬ビクンとしてしまう。
「せっかくパパと仲良くなれたのに、葉月は嬉しかったのに、なんでママは怒るの」
「怒ってるわけではないわ。ただ、あまりパパを困らせてほしくないの。仲良くなるのはとてもいいことよ。だけどパパのお仕事が遅れれば、困る人がたくさんいるの」
なんとか説得しようとすればするほど、葉月の機嫌はどんどん悪くなる。ずっと父親を恋しがっていた彼女にとって、やっと会えた男性。しかも当初はロクに相手をしてもらえなかったのに、ここ最近になって親密度を増すのに成功した。
葉月にしてみれば、理想の展開に違いない。それなのに母親の和葉が、高木春道と仲良くしないよう注意したのだから、気に入らないのも当然の話だった。
わかっていても妥協したりはできない。娘が父親だと信じてる男性は、いずれ去っていくのである。
「どうしたの。葉月はそんな聞き分けのない子ではないでしょう。少しおかしいわよ」
「葉月、おかしくないもん。おかしいのはママだもんっ!」
完全に駄々っ子モードに入っている。滅多にない状態だけに、かなり手こずりそうだ。
「パパはすっごく優しいもん。いじめだって、助けてくれたのはママじゃなくてパパだもんっ!」
「――!? ど、どういうこと……?」
娘の発言にビックリして説明を求める。
葉月の話によれば、和葉が担任にいじめをなんとかするよう頼んだことで逆に酷くなったらしい。それを高木春道は見越していて、うまくいじめっ子たちを諭してくれたのだという。
初めて耳にしただけに、さすがの和葉も驚きを隠せなかった。道理で、急激にあの男を娘が信頼するようになったわけである。
保護者としての対応力は向こうが上だったのだ。認めたくはなかったが、認めざるを得なかった。そんな悔しさも相まって、思わず和葉は声を荒げてしまう。
「とにかくママの言うとおりにしなさい。わかったわね!」
「いやだっ! ママなんてだいっ嫌い!」
涙をボロボロとこぼしながら、葉月がリビングから走り去っていく。
ただでさえ小さな背中がさらに小さくなる。遠ざかる娘の姿に後悔の念が強まる。嫉妬心から芽生えた怒りで冷静さを欠いてしまった。
「待って、葉月」
急いで娘のあとを追うも、一歩遅かった。和葉の目の前で無情にもドアが閉まる。鍵をかける音が聞こえ、ドアノブを回しても空しくガチャガチャと鳴るだけだ。
万が一の事態に備えてと、各部屋に鍵をつけていたのが災いした。ドア越しにいくら娘の名前を呼んでも返事すらない。完全に和葉のミスだった。自室に篭城されると、もはや今日に限っては手の施しようがない。
今夜中の説得を諦めた和葉は、ひとりトボトボとリビングへ戻る。イスへ座り、ダイニングテーブルに両肘をついて、顔を両手で覆う。
目を閉じれば、どうしてという思いだけが浮かんでくる。何年もかけて築いた娘との信頼関係が、たったひとりの男の存在で瞬く間に崩れていく。
けれど高木春道だけを責めたりはできなかった。彼は和葉によってこの生活に巻き込まれたのも同然なのだ。
いっそ契約を破棄して出て行ってもらおうかとも考えたが、そんな真似をすればいよいよ葉月は和葉を許さないだろう。もしかしたら、父親だと信じてる春道と一緒に家を出て行ってしまうかもしれない。
ならば彼は本当の父親ではないと告白してしまおうか。いや、駄目だ。和葉はかすかに顔を左右に振って、頭の中にある考えを追い払った。
そもそも無謀な生活を始めたのは、娘に父親がいないと言いたくないからだ。素直に答えてしまえば、当然理由も説明しなければならない。
それだけはどうしても嫌だった。和葉のため、そして葉月のためにも、架空であれ父親を存在させておく必要があったのだ。
少し考えれば、こういった状況になる可能性も充分に想定できた。しかし父親だと娘に教えてきた男性が偶然にも見つかってしまった以上、棘が多くてもこの道を選ぶしかなかったのである。
どうすればいいのか。いくら悩んでも答えが見つからない。とにかく今夜は休もう。明日になれば、お互い冷静になってしっかりと話し合えるはずだから……。
面白かったら一言感想頂けると嬉しいです。
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