愛すべき不思議な家族 15

 それは松島和葉がとても聞き慣れた、それでいて懐かしい声だった。この声を聞くのは何年ぶりになるだろう。完全に働かない頭で、ぼんやりと考える。
  ああ、そうだ。あの件があって、私が家を飛び出してからだから――。
「おい、和葉。聞いてるのか? 返事くらいしたらどうだ!」
  強い口調で怒鳴られ、一時的に葉月の言動によって受けたショックを忘れる。
「……聞こえてるわ、兄さん」
  電話の相手は和葉の二つ上の兄、戸高泰宏だった。幼少時は随分と遊んでもらった記憶が今もしっかりと残っている。
  兄と名字が違うのは、相手がどこかの家の婿に入ったからではない。和葉自身も、以前は戸高姓を名乗っていた。
  姿は見えなくても、電話向こうにいる兄も和葉がボーっとしてるのに気づいていたのだろう。わざわざもう一度同じ台詞を繰り返した。和葉たちの父親が突然倒れたと。
「……とにかく一度こっちに帰ってこい。話はそれからだ」
「どうして?」
「どうしてって……家族だからに決まってるじゃないか」
「そう思ってるのはきっと兄さんだけよ。いいえ、もしかしたら兄さんも世間の目があるから一応連絡しただけかもしれないわね」
  図星だったのか、それとも怒りを覚えたのか。血を分けた実兄である泰宏が少しの間沈黙した。
「……あの人は、兄さんがこうして私に電話をかけていることすら知らないんでしょう? バレたら兄さんがあの人に怒られるわ」
「あの人なんて言い方はよせ。お前の――」
「私はそうとは思わない。とにかく余計なお世話だわ」
  瞼を閉じて和葉は首を左右に振った。脳裏には幼い頃からの思い出が蘇ってくる。そして数年前で突然に終わりを告げる。
「……もう、電話を切るわ」
「そうか……けど、気が向いたら――」
「あり得ないわ」
  泰宏との会話を打ち切ると、抑えきれない感情から受話器を叩きつけるように電話機へ置いた。
  その音がよほど大きく響いてしまったのか、自室から娘の葉月が再度リビングへとやってきた。クリクリっとした可愛らしい瞳を真ん丸くさせながら、どうしたのと近寄ってくる。
「……何でもないわ。宿題は終わったの?」
「ううん、まだだけど……」
「駄目じゃない。それなら早く終わらせないと。あんまり遅くまで起きてると、明日の学校に遅刻しちゃうわよ」
  できる限り優しい笑顔を作ったつもりだったが、きちんと笑顔と呼べるものになっているかどうかは自信がなかった。
  和葉の微妙な態度を敏感に察知したのか、葉月も「……うん」と頷いたものの、微妙な表情をしている。
「ママも会社でいじめられてるの? だったらパパに――」
「――やめてッ!」
  ビクッと葉月が身体を震わせるのを見て、和葉はハッとしてしまった。
「ご、ごめんなさい……葉月、マ、ママが困ってると思って……」
「あ……い、いいのよ。ママこそごめんね。でも大丈夫だから、葉月はお部屋で宿題をしなさい」
  ギスギスした雰囲気をなんとか立て直そうとしたものの、さすがに無理だった。立ち去る葉月の顔は、最後まで今にも泣き出しそうに悲しげだった。
  ひとりきりになったリビング。電話の前にしばらく立ち尽くしたあとで、和葉は自分の頬をペシッと叩いた。
  どんな事情があったにせよ、娘に八つ当たりするなんて最低だ。自責の念が募る。
  苛々した状態で高木春道の名前を出され、つい声を荒げてしまった。和葉も本当はわかっていた。葉月も高木春道も何も悪くはないのだ。すべての元凶を作ったのは自分自身なのだから……。

 大きく伸びをしてから、高木春道は仕事部屋の椅子から立ち上がった。腰痛防止のクッションを敷いてはいるものの、長時間座っていればさすがに尻が痛い。
  仕事に精をだすあまり、結局徹夜してしまった。この状態では、とても外に出て気晴らしをしようなんて気にはならない。おとなしく仮眠をとるのが無難な選択だろう。
  そう言えば今は何時なのだろう。時計の針さえ目に入らないほど集中していたので、正確な現在時刻を把握できていない。
  春道自身の感覚では、まだ早朝だったのだがすでに正午をまわっていた。PCに集中しすぎていたせいで、時間間隔はまともではなくなっていたらしい。
  そう言えば、随分前から外が明るかったような気もしていたが、どうやら気のせいではなかったみたいだ。
  昼過ぎだと気づくと、急に空腹を覚えた。さっきまでまったく減っていなかったくせに、我が腹ながら現金なものである。
  廊下に出て、いつもどおりに冷蔵庫から用意されてる食事を取り出す。
  ここで春道は「ん?」と一度手を止めてしまった。冷蔵庫にあった三つの膳を比べてみたのだが、似通ったメニューばかりだったのである。
  これまでこんなケースはなかった。どうしたのだろうとも思ったが、毎日春道の食事を用意してて疲れたのだろうとすぐに思いなおした。同じおかずが続いたとしても、食事を用意してもらえるだけで有難い。
  さして気にせずに選んだメニューを持って私室へ入り、テーブルに乗せてからさっそく朝食兼昼食となった食事をとる。
  ここでも春道の手が止まった。味は確かに美味しいのだが、それでもいつもの松島和葉の手料理に比べれば少し劣ってるような気がしてならない。単なる気のせいなのか。
  全然食べれるのでたいして問題はないが、ここ毎日和葉の料理を食べている春道だから気がつけたのかもしれない。もしかしたら、まだ松島葉月とのいさかいが続いてるのかもしれない。
  けれど、仮にそうだったとしても春道ができるフォローはすべてしたつもりだった。あとは余計な口を挟まないのが無難かつ、解決への近道となる。
  結論がせっかくでたのに、嘲笑うかのごとく、食事を終えた春道の部屋で足音が向かってくる。考え事に夢中で、誰かが帰宅した事実にさえ気づいてなかった。
  忙しない足音は松島葉月のものだろうと簡単に推測できた。母親の松島和葉が走りながら階段を上ってくるのを、見たことも聞いたこともないからだ。
  春道から声をかけるまえに、まるでいるのをわかってるみたいに私室のドアがノックされた。いつもは少し躊躇いがちにノックするのに、今日に限ってはそういった様子はない。
  とりあえず春道は来客を室内へと招き入れる。私室のドアをノックした人物は、予想どおりに学校帰りの松島葉月だった。
  教科書などを自室へ置いてすぐに、春道の部屋まで直行してようだ。息を切らしながらドアを閉めて、春道の側へちょこんと座る。
「ママが変なのっ!」
  松島葉月が春道の袖を掴み、そう叫んだあとでグイグイと引っ張る。事態はとても深刻なのだと、全身を使って示してきた。
  そこまでは葉月の仕草からわかっても、詳しい事情は何ひとつわからない。何せ、春道ひとりだけが二階で生活してるのだ。監視カメラと盗聴器でも仕掛けてない限り、一階にいる松島母娘の動向など知る由もない。
  とにかく情報がなければ話にならない。そこで春道は葉月に話を聞いてみる。
「……なるほどな」
  松島葉月はかなり興奮していて、時折支離滅裂になってしまうので理解するのは大変だったが、要約すると昨夜の電話以降様子がおかしいということだった。
  話はある程度わかったものの、肝心の電話をしてきた相手や内容については、葉月も把握していない。これではどうしようもない。
「しばらく様子を見るしかないな」
  ボソっと口にしたひと言に、松島葉月が絶句する。もしかしたら、俺ならすぐに解決してくれると幻想を抱いてたのかもしれないが、内情を知れないのだからそれは無理だ。
「葉月の時みたいに、すぐになんとかできないのー?」
  やっぱりな質問が、戸籍上は娘となっている少女から春道に放たれた。適当にあしらえば、松島葉月もきっと春道に幻滅する。母親の和葉にしても、余計な真似をされるより有難がるかもしれない。
  春道は少し考えた後に、頭の中によぎった案を却下した。後々どうなろうが、本気で母親を心配してる少女に適当な返答などできないと判断したのだ。
  それにこう見えて、松島葉月は頭の良い少女である。冷静になって考えれば、春道の意見にどれだけ信憑性があるのか、すぐに判断できるだけの能力を備えている。変に誤魔化すのはやはり得策ではない。
  繰り返しになるものの、電話をかけてきた相手や内容を知らないとどうしようもない。春道は改めて松島葉月にその旨を告げた。
「そっか……」
  憐れなくらいガックリとする姿を見ても、こればかりは仕方がない。いくら春道といえど、何でもできるわけではないのだ。松島葉月もわかってはいるのだろうが、期待をしていた分、落胆も大きかったと見える。
  トボトボと部屋から出て行こうとする背中は、いつもよりさらに小さかった。幼いながらに母親を助けたいと願う心は立派だが、やはり子供が大人を救おうとするのは難しい。
「せめて内情がわかればな……」
  春道の私室から退出した松島葉月が、階段を下りていく音を聞きながら誰にではなく呟く。そして、またも松島母娘の問題に干渉しようとしてる自分に春道は苦笑する。
「俺もなかなか救いようがないな」
  常に自由を求めていながらも、孤独に寂しさを覚える。ひとりになりたくてなってるのに、ひとりだと寂しいと泣いている。虚勢を張っているわけではなく、どちらも本心なのだ。だからこそ矛盾さの中で悶々とする。
  人間とはかくも厄介な生き物だ。哲学的な思想と戯れるのも時には必要だが、今の春道にはもっと大事なことがあった。
  それは睡眠である。食事をして腹が膨れたせいで、いよいよ本格的に睡魔が襲ってきたのだ。徹夜してる状態で抗ってもロクな結果にはならない。春道はおとなしく仮眠をとろうと、さっさと着替えて布団で体を横にするのだった。

 小さな足で階段を下りきったあとで、松島葉月は最後にもう一度だけ二階を見つめた。二階には葉月の父親が住んでいる。
  最初から同居していたわけではなく、仕事が忙しいと家にいなかった父親の高木春道を、葉月が近所の銭湯の外で偶然に発見したのが始まりだった。
  父親がいないせいで幼い頃から、なにかと同年代の子供たちにからかわれてきた。それに母親の松島和葉も、近所のオバさんたちから色々とよくない噂を流されてるようだった。
  そんな状態で長い年月を過ごしてきただけに、父親と同居できると決まった時は本当に嬉しかった。これで母親も葉月も幸せになれると本気で思った。
  最初はどこか怖くて。近寄りがたかった春道とも近頃はだいぶ親密に話せるようになってきた。
  ……と葉月自身は思っている。けれど、母親の松島和葉と父親の高木春道が仲良く笑い合ってるシーンは未だに見ていない。それも心配の種のひとつではあった。
  けれど高木春道は葉月の想像どおりに優しく、和葉も含めて3人仲良くなれるのも時間の問題だと思っていた。そこに今回の事件である。
  正確には事件と呼べるものなのかどうかはまだわからない。しかし先日見た和葉の様子は、娘の葉月でもこれまで目撃したことがないくらいに苛々していた。
  お母さん、大丈夫かな。なんか変な病気にでもなったのかな。
  自室に戻ってから椅子に座り、机の上に今日の宿題を広げてみたものの、とてもじゃないがやる気にはなれない。
  これまでは小学校で、同級生からいじめられる問題で頭を悩ませる時間が大半だった。どう解決したらいいのかまったくわからなかった葉月に、ひょいと横から救いの手を差し伸べてくれたのが高木春道だった。
  そのことを話した時も母親の松島和葉は機嫌が悪くなったけれど、昨日の夜ほどではなかった。せっかく悩ましい問題が解決したと思ったのに、直後に新しい問題が発生して、葉月はまた頭を抱えるハメになる。
  いじめを解決してくれた父親に助けを求めたが、期待していた答えは最後まで返ってこなかった。
  春道は事情を詳しく知りたいと話していたが、昨日の様子では葉月が何を聞いても和葉は答えてくれないに決まっている。
  どうしたらいいんだろう。結局はこの言葉に行き着く。悩んでも悩んでも答えはでない。
  リビングでお水でも飲んでこよう。葉月が席を立つのを見計らってたかのように、突然電話が鳴りだした。
  家には葉月の他に春道もいるが、仕事の邪魔になっては駄目だからと、二階と一階の電話番号は別々になっている。和葉が仕事で不在にしてる以上、一階で鳴ってる電話機は葉月がなんとかしないといけない。
  電話機はリビングにあるので、トコトコと葉月は早足で現場へ向かって受話器を取る。
「はい、もしもし」
「あれ? もしかして、君は……」
「どちら様ですか?」
  呆然としてる電話向こうの相手に名乗るよう促すと「初めまして。僕は君の伯父さんだよ」と挨拶されたのだった。



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