愛すべき不思議な家族 21

「あー……いい気持ちだ」
  思わず高木春道はそう呟いていた。
  オフシーズンだったこともあり、辿り着いた旅館に宿泊客はそれほどいなく、こうして時間ぎりぎりになれば温泉はほぼ貸切状態だった。今頃は松島葉月も母親とともに温泉を満喫してるに違いない。
  部屋に案内してくれた客室係の女性が、この旅館の売りは温泉なので、お食事前にどうですかと勧めてくれたのである。
  長旅で葉月も疲れてるだろうからと、松島和葉が賛成した時点でとりあえずの行動指針が決定した。
  スポンサーとなるのは松島和葉なだけに、簡単に反対はできないし、またするつもりもなかった。基本的に春道も温泉が好きだったからである。
  足を伸ばして温泉に浸かれば、心地良い温かさが全身を包む。一日中のアクセルワークに疲れた足を労わってくれて、たちまち夢見心地になってしまう。
  銭湯と違って湯船の温度は控えめだが、そのぶんゆっくり入れるというものだ。あまり長湯が好きではない春道であっても、温泉に関しては話が別だった。
  もっともあまり長時間浸かってると簡単に逆上せてしまう。普通のお風呂と違い、温泉成分が肌に染みこむため、上がってから一気に汗が噴出してくる。これがたまらないと同時に、気をつけないと大変な事態になる。
  家の風呂に縮こまって入浴するのがあまり好きではないからこそ、春道は松島家に居候してる現在でも毎晩銭湯に通ってるのだ。
  住んでいる地域は田舎だけに温泉もそこそこの数があり、たまに足を伸ばしたりすることもある。温泉経験値を着実に積み重ねてきたからこそ、注意点もよくわかるのだ。
  松島葉月が温泉ではしゃぎすぎてないか心配になったが、すぐに頭から振り払う。冷静でしっかり者の松島和葉がついてるので、危険な事態にはなりそうもない。
  それよりも問題は他にあった。松島和葉が予約していたのは一部屋だけだったのである。戸籍上は家族になってるのだから当然なのだが、さすがにこれには春道もまいった。
  邪な願望があるわけではなかったが、同じ部屋で一晩を過ごすとなれば嫌でも意識するに決まっている。もっとも松島葉月も一緒なので、間違った展開にはなるとは思えない。
  いなくても、春道が万が一迫ったところで鉄の意志でシャットアウトされて終わりに違いない。杞憂に終わるとわかっていても、簡単に割り切れないのが男心というものである。しかも春道は未だチェリーボーイなのだ。
「……考えてても始まらないか」
  思考を重ねすぎた末に、湯あたりをしてダウンなんて洒落にもならない。春道は温泉からあがるとフェイスタオルで身体を拭いてから、脱衣所に向かうのだった。

 浴衣というのはどうも肌に合わないので、春道はスーツ姿のままだった。元々が安物だったので、ぞんざいに扱うのも抵抗はなかった。着替えを持ってこなかった春道は、最初からスラックスのまま眠るつもりだったのだ。
  旅館内にある休憩スペースに用意されていたソファに座りながら、松島母娘が温泉から上がってくるのを待つ。一人旅なら自由に行動できるが、今回は同行者がいる。勝手な真似は慎まなければならない。
  黙って待ってるのも暇なので、春道は共用のスペースをひととおり見物する。オンシーズンになると家族連れが多いのか、色々な遊ぶものがある。
  ゲームセンターにあるようなアーケード台から、卓球台まである。自動販売機もジュースだけじゃなく、アイスもある。普通の旅館なら当たり前なのだが、ここしばらくは旅などしてなかったので新鮮に感じられた。
  ましてや春道は、旅館に泊まってもひとりの場合が多かったので、多数で遊ぶ空間には興味を持ってこなかった。こうしてマジマジと見物するのも初めてだった。
「あ、パパだー」
  聞き慣れた元気いっぱいの声で現実に引き戻される。温泉の出入口を見れば、しっかりと髪まで乾かした松島葉月が飛び跳ねながらこちらへ向かってきた。
  祖父に冷たくされたショックも、少しは温泉が癒してくれただろうか。なんて柄でもない心配をする自分自身に気づいて、春道は苦笑する。本当にいつからこんなお節介焼きになってしまったのだろうか。
  と、ここで春道はふとある事実に気づく。戸高泰宏氏は、松島和葉と松島葉月の血が繋がってないと口を滑らせた。そうすると松島葉月と戸高泰宏の父親――つまりは祖父との血も繋がってないことになる。
「どうかしたのー」
  考えこんでいる春道の顔を、すぐ側までやってきた松島葉月が下から覗きこんでくる。クリクリとした大きな瞳が爛々と輝き、好奇心旺盛な一面が顔に表れている。
  直前まで考えていた内容を当事者に言えるはずもなく、とりあえず春道は曖昧に誤魔化しておく。
  少女は納得してなさそうだったが、それ以上追及してきたりはしなかった。元気が有り余ってる年頃だけに、周囲に存在している多種多様な遊戯台に興味を惹かれてるようだ。
  鋭い洞察力と大人な心遣いができる少女も、やはりこのへんは子供なのだなと安心する。
  きょろきょろと葉月が周囲を見渡してると、娘を追うようにして松島和葉も女性用の入口から出てきた。半乾きの髪と浴衣が絶妙にマッチングして、なんとも悩ましい。
  何を考えてるんだと、春道は慌てて頭を左右に振る。夫婦なのだから、妻に欲情するのは別に悪くない。ただ、普通の夫婦関係の場合に限る。
「やっぱり、パパ、なんか変だよー」
  春道の挙動不審ぶりは、周りにある数々の遊戯代よりも松島葉月の興味を惹いたようだった。間近で首を振ったりしてれば当然だが、今回の場合は誰も春道を責めたりできない。
「パパに迷惑はかけてない」
  昼間の一件を和葉も気にしてるのか、必要以上に優しげな声で娘に尋ねる。
  すると葉月はすっかりいつもどおりの笑顔を浮かべ「かけてないよー」と返す。普段の日常でも、最近はよく見かけるようになった光景だった。
  松島和葉は春道の隣に腰を下ろし、片手で愛する娘の髪の毛を撫でる。見つめる視線は母親の慈愛に満ちており、とても血が繋がってない娘に向けるものとは思えない。
  戸高泰宏氏の台詞は何かの間違いだったのではないか。そう思えてくるものの、身内の言葉だけに真実味もかなりある。
「ねえ、パパ。卓球やろー」
  何度となく同じ考えを頭の中で展開している春道に、松島葉月が生来の明るい声で袖を引っ張ってきた。
  葉月も和葉も浴衣を着ており、何より三人ともお風呂上りである。これで卓球なんてしたら、せっかくの入浴が無駄に終わること間違いなしである。
  今夜ばかりは、どんな我侭も許してやろうと決めてたに違いない松島和葉も、さすがに呆れて口をあんぐりさせている。
「無理を言って、パパを困らせたら――」
「――わかった。やろう」
  松島和葉が驚いて春道の方を振り向く。葉月を説得しようとしてる最中に台詞を強制終了させられたばかりか、子供が嫌いだと口にしていた春道がこんな得のない申し出を了承するとは夢にも思ってなかったに違いない。
  確かに春道にしても、松島和葉が同席してるので、必要以上に葉月と会話などをしようとは考えてなかった。
  けれど、今回ばかりは多少優しくしてやっても罰は当たらないし、たまにはこんなのもいいかなという気持ちになっていたのである。
  これに大喜びなのは、提案者の松島葉月本人だった。彼女もまた、恐らく断られると諦めつつも、駄目もとで誘ってきたのだろう。
  それが受け入れられたのだから、はしゃぎまくるのも無理はなかった。早速春道と葉月は、スペースにある卓球台を使って対戦を開始する。
  春道が賛成してしまったので、今さら反対とも言い出せない松島和葉が、専用のボードを使用しての得点係を務めることに決定した。
  いくら子供の葉月が相手とはいえ、温泉上がりに卓球なんてしたら汗をかくのは間違いないが、夕食のあとでもう一度入浴する楽しみが増えたと思えばそれほど腹も立たない。
  まさか自分が子供にこんなに優しくするなんてな。卓球のラケットを握り締めつつ、春道は現在の自分自身に驚いていた。
  松島母娘と接してるうちに、無意識の間に春道本人が変わったのだ。そうでなければ、説明がつかない出来事が多すぎる。
「それじゃ、いくよー。手加減しないからねー」

 宿泊を予約した旅館の和室内で、春道は窓際に座って澄んだ星空を見上げていた。
  手加減してやろうと思ってたのに、つい大人げなく卓球で葉月に勝利してしまい、最終的にむくれた葉月と和葉のダブルスと春道が勝負する形になった。
  今度は母親を味方につけた少女が雪辱を果たし、大満足で部屋に戻り晩御飯を食べた。さすが旅館だけあって、なかなかに豪勢な食事で葉月も大喜びだった。
  もっとも味覚音痴な春道には、普段の食事の方が美味しく感じられたが、和やかな雰囲気をわざわざぶち壊す必要もないので黙っていた。戸高泰宏なら、もしかしてポロッと口を滑らせていたかもしれない。
  夕食後、また卓球をやろうと葉月に誘われる。もうひとゲーム少女に付き合ってから、それぞれ再び温泉に入って卓球でかいた汗を洗い流した。
  これだけはしゃげば、幼い少女が疲れないわけもなく、二度目の温泉から母親とともに出てきた頃には瞼は半分閉じられていた。
  本当はもっと遊んでいたそうだったが、明日もあるからと松島和葉が娘を寝かしつけたのである。
  布団は和室の中に仲良く三つ並べられており、無難に真ん中が松島葉月で、入口側が松島和葉となった。残りが春道となり、こうして消灯したあとも、窓際でおとなしく行動してるぶんには二人を起こさなくても澄む。
  それにしてもまいった。つくづく春道は己の小心ぶりを痛感していた。側で妙齢の女性が寝てる事実だけで、目が冴えて眠れなくなってしまったのである。
「……ありがとうございました」
  突然に呟かれたお礼に驚き、春道は慌てて声がした方を向く。ひとりスヤスヤと眠っている松島葉月を背にして、室内に立っていたのは松島和葉だった。
  電気を消した和室を月明かりが照らし、浴衣を纏った美女は妖艶さに満ちている。音もなく畳を歩いてくる仕草は、まるでテレビドラマで人気女優が演じてるかのようだ。
「もしかして……起こしてしまったか」
  書類上だけで家族になったに等しい男が、いつまでも睡眠をとらずに室内でうろうろしてれば気になって当然である。春道にその気がなくても、和葉が危機感を覚えていた可能性も否定できない。
  眠れなくても、せめて布団に入ってジッとしてればよかったかな。そんな後悔が春道の中で芽生える。
「いいえ。最初から眠っていませんでしたから、どうかお気になさらないでください」
  そう言ったあとで、松島和葉は春道の向かいにあった席に腰を下ろした。和室内の窓際は板張りになっていて、そこに対面式の配置で座椅子が二つ置いてある。春道はそのひとつに座っていたのだ。
「ありがとうございました」
  松島和葉が再度、春道にお礼を言ってきた。まるっきり心当たりがないので「お礼を言われるようなことはしていない」と返す。
  そのあとで松島葉月と卓球をして遊んだ事実に気づく。もしかして、元気のない娘を気遣って遊んでくれてどうもありがとうという意味なのかもしれない。だとすれば、素直に受け取っておくべきだった。
  何気に後悔する春道の正面で、和葉は少しだけ顔を俯かせて「兄さんは悪い人ではないのですけれど、少しお喋りなので困ります」と発言してきた。
  これでようやく春道もピンときた。和葉は実兄が、自分と娘に血の繋がりがないことを教えたと気づいてるのだ。その上で何も触れてこない春道に謝意を表したのである。
「いいさ」
  短く応えた春道に、松島和葉もまた「はい」と短い言葉だけを発した。
  その後、松島和葉が布団に戻って睡眠をとるまで、無言のまま二人で闇夜を照らす月を見つめていたのだった。



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