愛すべき不思議な家族 22

 温泉から戻って以来、松島和葉は以前ほど春道に冷たく当たらないようになっていた。表面上はこれまでとまったく一緒だが、松島葉月が春道に積極的に話しかけたりしても、うるさく注意しなくなったのだ。
  大事な娘にとって、春道は害のない人物と判断したのだろうか。そこら辺の理由は特に不明で、聞くつもりもなかった。変なふうに首を突っ込めば、せっかく好転した状況も悪化しかねない。
  春道の仕事も順調で、ほとんどサラリーマンと同様の時間で一日のノルマが終了するようになっていた。このぶんだと締め切りまでは余裕で間に合いそうだ。
  夕方近くになったところで、春道は仕事部屋から私室に戻る。
  途中で玄関のドアがガチャリと開く音がした。普段より少し遅めの時間に、松島葉月が帰宅してきたのだ。
  春道も出席した授業参観以来、小学校での少女に対するいじめは圧倒的に減少したみたいだった。
  主にいじめの首謀者だった男児が春道の作戦により、どちらかと言えば松島葉月の味方にまわった。元々該当の男児はクラスの中心的人物だっただけに効果は絶大で、面と向かっていじめる生徒はいなくなったらしい。
  これは松島葉月本人から春道が聞いた話だった。元々好きな子ほどなんとやらの心境だったのだろう。首謀者の人間が嫌がらせをやめれば、取り巻きの連中も追随する必要はなくなる。
  大半のクラスメートが、次のターゲットになるのを恐れて葉月をいじめていた可能性が高い。自らの安全が保障されれば、好きこのんで他人を嬲りたがる人間などそうはいない。こうして松島葉月へのいじめ問題は終息したのである。
  以降は同性の友人もできたみたいで、今日みたいに少し遊んでから帰宅する機会も徐々にだが増えていた。それでも午後五時前に帰宅して宿題をしようとするあたり、少女の真面目さがうかがえる。
  ドタドタと階段を駆け上る音が聞こえてきた。もちろん足音の主は、今や春道の娘でもある松島葉月で間違いない。何度も聞いてると、姿を確認するまでもなくわかる。
  周囲を気遣って大人な一面を見せたかと思えば、こうして無邪気で元気な子供らしさを爆発させたりもする。松島葉月という少女は、本当にわからない。
  もしかしたら子供自体がこういうものなのかもしれないが、以前に父親の経験がない春道には知る由もない。
  真っ直ぐに私室のドアがドンドンドンとノックされる。前から思っていたことだが、どうして少女は春道の仕事部屋からノックしないのだろう。ひょっとして、いつも遊んでると思われてるのではなんて心配をしてしまう。
  春道が「開いてるよ」と答えると、今度は遠慮気味にドアが開かれた。先ほどまでの展開なら、おもいきりオープンする方が流れ的にも合ってると思うのだが……。やはり子供はわからない。
「一番が運動会でパパなんだよー」
  どうかしたのか尋ねた春道に対して、少女から返ってきた言葉がこれだった。
  松島葉月は過剰に興奮すると、どうも支離滅裂な発言をする癖がある。確か以前にも似たようなケースがあったはずだ。
「……じゃあ、二番は文化祭でママか」
「もー、パパってば何言ってるのー。お熱でもあるのー?」
  そう言って葉月は、手のひらを春道の額にピタリと当てた。昔ながらの熱の測り方だが、恐らくは過去に風邪を引いた時、母親の松島和葉にしてもらったのを覚えてたのだろう。
  松島葉月の小さな手が離れるのを待ってから、熱があるとしたらお前の方だろとツッコみたいのを抑えて「熱はない」とだけ春道は答えた。
「で、運動会がどうしたのかもう一度説明してくれるか。わかり易く最初からな」
  先ほどの台詞を繰り返されたところでわかるわけもないので、わかり易くの部分を強調して再度の説明を求める。
「うんっ!」
  葉月は元気よく返事をしてくれたが、春道は一抹の不安を覚えつつ相手の話に耳を傾ける。
「えっとね。葉月の学校で運動会があるのー。パパも参加できるのがあるから、それで一番をとってもらうのー」
  完璧に理解したとは言い難いが、ある程度の事情はわかった。要するに、松島葉月の小学校で開催される運動会へ、春道にも参加してほしいと言いたいのだ。
  本音は詳細まできちんと説明してほしいのだが、小学生の女の子にそこまで求めるのは無理がある。
  いや、松島和葉と長年過ごしてきたであろう少女ならば或いは……。
  そこまで考えて春道は左右に首を振る。今は松島葉月の資質について思考してる場合ではなかった。
  葉月は目をキラキラと輝かせながら「もちろん、参加してくれるよね」と、学校から渡されたであろうプリントを春道に手渡そうとする。
  しかし春道は考えた末にそれを受けとらなかった。多少は葉月と会話しても、文句を言われなくなったとはいえ、やはり母親の松島和葉の許可なしに春道が承諾するのはマズい。
  プリントを受け取ってくれない春道を見つめる瞳が、少しずつ潤んでくる。人前で号泣したりしないタイプでも、悲しければ必然的に涙は溜まる。
  この歳になって運動するのはなと、及び腰になっていた春道もそんな仕草を見せられれば決断せざるを得ない。
「わかった。ただし、ママがいいと言ったらだ。駄目だと言われたら、素直に諦めろ」
「パパ、ありがとー」
「いや、まだ礼を言うには……」
「ママが参加するなら、パパも参加するってことだよね。葉月ね、家族みんなで運動会に参加するのって夢だったんだー」
  少女の中ではすでに春道の参加は確定してるらしく、泣きそうな表情はどこへやら。ケタケタと楽しそうに笑っている。
「お昼休みに、パパやママと一緒にお弁当を食べるのー。今から楽しみだよね」
  だよねと同意を求められても、迂闊に「そうだな」と応じたりはできない。あくまでも、松島和葉の許可があることが前提なのだ。
  一応はその点について念を押しておく必要がある。そう判断して春道は、一応は娘である少女に話しかけようとする。
「それじゃ、葉月は宿題をするねー。パパもお仕事頑張ってねー」
  まるで言わなくても結構ですとばかりに、葉月はツッコみを許さない笑顔で手を振る。
「え? お、おい……」
  春道の呼びかけにも動きを止めたりせず、ドアを開けて廊下に出ると、丁寧に葉月はドアを閉めた。
  ひとり唖然とする春道の耳には、部屋の前からパタパタと走り去っていく少女の足音だけが響いていた。

「お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
  いつにも増して丁寧に頭を下げる松島和葉がそこにいた。夜になって帰宅したと思ったら、娘とは対照的な足取りで春道の私室までやってきたのである。
恐らくは夕食の席で、娘の松島葉月から運動会の件を聞いたのだろう。それ以外に、春道がお願いされる案件など思いつかない。
「いいのか?」
  春道は尋ねた。和葉は以前から葉月とあまり親しくしないでくれと申し出ていた張本人だ。娘の運動会に春道が参加するのを、心から喜んでるとはとても思えない。
「……あの子が何よりそれを望んでいますから。それに貴方は不必要な混乱を起こすのを好まないタイプのようですし、葉月の機嫌を損ねてまで反対する理由がありません」
  淡々と喋っているが、もしかすると松島和葉は、春道をほんの少しだけでも認めてくれたのかもしれない。
  母親のお墨付きを貰った形になったわけだが、今回ばかりは微妙な気持ちだった。何故なら、二十代も後半――しかも職業柄仕方ないとはいえ、ほとんど引き篭もりの男が外で運動をしなければならないのだ。
いっそ、貴方の参加は認めませんと言ってくれた方が、春道にとっては幸せだったかもしれない。
もっともその場合は、元気な少女が泣き喚きながら文句を言いに来るであろうことは想像に固くない。何より春道自身が、和葉の許可さえ得られれば運動会に参加しても構わないと、松島葉月本人と約束してしまったのである。
乗りかかった船。ここ最近で、何度となく春道は自分自身に同じ言葉を与えてきた。一体どこへ向かおうとしてるのか、それは春道本人にもわからない。
「まだ何かあるのか」
  いつもなら話が終わればすぐ退室するのに、今日はまだ春道の私室に座したままだ。実家で身につけたものなのか、綺麗に背筋を伸ばしても何ひとつ苦にしてる様子はない。
「ありがとうございました」
「……何の話だ」
  いきなりお礼を言われてもわけが分からない。この間、実家まで乗せていったことだろうか。頭の中で色々と考えていると、松島和葉本人が理由を告げてくれた。
「……兄は少し、迂闊なところがあるので困ります」
  相手の台詞で、ようやく合点がいった。
「知っていたのか」
「……やはりそうだったのですね」
  今度はやられたと思った。松島和葉は、正確に春道と戸高泰宏の間で交わされた会話の内容を知ってたわけではなかった。要するにカマをかけられて、春道は見事に相手の術中にハマッてしまったのである。
考えてみれば、会話の場に同席してなかった和葉が内容を知ってるはずもない。戸高泰宏氏に負けず劣らず、春道も十分に迂闊だった。とはいえ松島和葉にバレても、こちらが内情を知ったのは不可抗力である。責められる原因にはならない。
それを松島和葉本人も重々承知してるのだろう。春道に文句を言うような様子は微塵もなかった。
「……貴方は私と葉月の関係を知っても、何事もなかったかのように接してくれました。理由を聞きたがるわけでもなく、特別な目で見るわけでもなく、本当にいつもと変わらない態度でした」
  実際はこうして和葉にバレてしまってるので、正確にはいつもと変わらないどころか、そこそこの違和感を発していたと考えて間違いない。
そのことを口にしようかと思ったが、止めておいた。どうにも野暮な気がしたのだ。
「……おかしな人ですね。人と関わりたがらない雰囲気を持ってるのに、他人の娘の世話を焼いたり、かと思えば普通の人なら気になって当然の話題でも興味を示さない」
「興味がないわけじゃないが、聞いたところで俺が口を出せる問題でもないだろ」
  ごく当たり前の発言をしたつもりなのだが、春道の台詞を聞いた松島和葉はクスリと笑う。
「ひねくれてるようで正直。孤独を好んでるようで寂しがりや。本当に珍しい……あまり接した経験のないタイプです」
「……自分の内面を分析されるのは、あまり気持ちのいいものじゃないな」
「そうですね。失礼しました」
「ま、いいさ。それより、今日は随分と饒舌だな。どうかしたのか」
  春道の指摘を受けた松島和葉は、僅かに心外だというような表情を浮かべた。
「常日頃から無口ではなかったと自覚してますが……そうですね。もしかしたら、はしゃいでいる葉月の楽しさが知らない間に移ってしまったのかもしれません」
「やれやれ……そんなにはしゃいでるのか」
「ええ。色々と覚悟しておいた方がいいかもしれませんね」
  最後にそう言い残すと、座った時と同様に優雅な動作で松島和葉が立ち上がる。
何かと騒がしい娘とは対照的に、ゆっくりと和葉が退室していった後で、春道は運動会について考える。
手抜きなんてしたら、大騒ぎするだろうな。苦笑いを浮かべながらも、どこかで楽しみにしている自分自身を発見して、春道はもう一度無人の部屋で苦笑いするのだった。



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