愛すべき不思議な家族 23

 そして運動会の当日がやってきた。父兄の参加は児童よりも遅くて構わないのに、朝も早くから春道は何度も松島葉月に起こされた。
  目覚まし時計よりも強烈な朝を与えてくれた少女に、これまた何度もきちんと運動会へ行くと約束させられた。嬉しい反面、万が一の事態を考えると心配でたまらないのだ。
  両親に学校の行事に参加してほしいと熱望した経験がないだけに、どうしてあそこまで喜べるのか春道にはいまいちピンとこない。
  だからといって、少女にねちねちと質問して相手の楽しさを半減させる真似はしない。 性分ではないし、それで喜ぶほどお子様でもない。もっとも相手が葉月だけに、こちらの意図などお構いなしの展開になる可能性も否定できない。
  経緯はどうあれ、春道はきちんと葉月が通う小学校の運動会に参加するつもりだった。交わした約束を破るのもあまり好きではない。その割には、葉月にあまり構うなと和葉から言われていたのに、現在のような状況になってしまっている。
  矛盾を覚えつつも、都合のいいように解釈しつつ、春道は本日の朝食を私室にて頬張る。
  相変わらず美味しい松島和葉の手料理を平らげたあとで、ようやく準備を開始する。
  松島葉月はとっくに登校しているが、それは色々と準備をするためだ。今から身支度を整えても、運動会の開始までには余裕で間に合う。それほど早朝に起こされたのである。
  パジャマから着替えようとしたところで、春道は手の動きをピタリと止める。運動会に何を着ていけばいいのか迷ったのだ。
  授業参観の時みたいに、まさかスーツで行くわけにもいかないだろう。ネクタイ締めて、革靴でグラウンドを走ったりなんかしたらいい笑い者だ。
  ならばどうすればいいのか。子育て経験などありもしないだけに、明確な答えが見つからない。松島和葉に相談するという選択肢も存在するが「どうぞ、お好きなようにしてください」なんて回答が返ってくるのは想像に難くない。
  正解がわからないのなら自分流でいくしかない。一般的かどうかは不明だが、とりあえず春道は部屋着でも使用しているジャージを身に纏った。
  本来ならPC関連の仕事をしてる人間らしく、インターネットなどで検索すればよりベターだったに違いない。しかしこの時の春道には、頭の片隅にもそんな考えは思い浮かんでなかった。
  動きやすい服装が一番なはずだ。そう判断して、春道はジャージで行くことに決めた。あとは移動手段だが、これは車で問題ない。小学校側が近くに、運動会に参加する父兄のために駐車場を用意してくれている。
  田舎なだけに空いてる土地は余っており、役所に使用目的を説明して当日だけ借りたのだ。何故、春道がこうまで事情を知ってるのかといえば理由は簡単。松島葉月から見せられた運動会のお知らせのプリントに、はっきりと記入されていたのだ。
  運動会の開始は午前十時から。私室の時計は午前九時を過ぎたところだ。そろそろ向かっておくか。ギリギリになりすぎると、駐車場が混み合って面倒臭くなるかもしれない。
  ジャージに着替えただけで、他に何かを持ったりせずに春道は私室から廊下に出る。
  階段をゆっくり降りていくも、家の中に人の気配は存在しない。松島葉月が登校したあとも、確かに母親の松島和葉は残っていたはずである。
  念のためにこっそりとリビングを覗いてみるも、やはり誰もいない。恐らくは先に徒歩で、葉月の通う小学校へ出発したに違いない。
  このところ戸籍上は娘になった少女だけじゃなく、夫婦となった母親とも関係は良好だと思ってただけに、少し意外な感じがした。
  もしかしたら松島和葉が春道を待ってくれていて、一緒に運動会の会場となる小学校のグラウンドへ向かうのではないかと想像していたのだ。
  結果は真逆だった。残念な気分と、当然だという気分が混ざり合った複雑な感情が春道の中に芽生える。
  ここ最近、松島和葉が春道に歩み寄ってきたように見えたのは、実家に戻った一件で多少気落ちしていたせいかもしれない。表面上はそう見えなくても、彼女は立派な大人だ。感情をコントロールする術くらい知っていて当然である。
  いないのはどうしようもないので、春道はひとりで葉月の通う小学校へ向かうことにする。車を使うのでたいした時間はかからない。
  玄関で靴を履いた春道は、無人となる家のドアにきちんと鍵をかけてから、目的の小学校へと出発するのだった。

 時間に余裕を持って出たはずが、駐車場は多数の人間で混み合っていた。考えることは皆一緒だなとため息をつきつつ、無事に駐車を終えて小学校のグラウンドへ到着した頃には、児童たちの元気な声が青空の下で響いていた。
  全学年合同で行う運動会。高学年の生徒が低学年の生徒の面倒を見て、微笑ましくも順調に進行されている。
  児童に負けず劣らず保護者の数も多く、ざっと見渡しただけでは、松島母娘を見つけるのは困難だった。
  不審者ばりにうろうろしてると、グラウンドから耳に馴染みのある声が飛んできた。
「パパー」
  短距離走の順番待ちをしている少女が、周囲の目も気にせずにぶんぶんと春道に向かって手を振っている。
  挙動不審ぽかっただけに訝しげな視線を集めていたが、それが一気に四散する。児童の父親だと判明したので、周囲が警戒をといてくれたのだ。
  安堵したのも束の間。今度は別のプレッシャーに苦しめられる。
  大事な娘さんに手を振り返さなくてもいいんですか? 周囲の視線はほぼ確実に、揃いも揃って春道にそう問いかけていた。
  柄ではない。釈明しても、名前も知らない保護者たちに通じるはずがない。かといってここで平然と無視したら、松島葉月は極端に落ちこんで悲しむに決まっている。
  そうなれば、泣きべそをかく女児に同情が集まるのは必然。春道が悪者扱いされるのも必然。とるべき行動はひとつしかなかった。
「葉月、頑張るからねー」
  春道が手を振り返したのを受けて、さらに大きく手を振りながら葉月が叫んだ。より多くの視線を集める結果になり、恥ずかしさで顔が熱くなっていく。鏡を見なくても、真っ赤になってる己の顔が容易に想像できた。
  にこにこ笑顔満開の女子児童が、整列係の上級生に諭されてようやくおとなしくなってくれる。これにより、周囲の視線からもなんとか解放される。
  現場を少し離れた位置で春道は足を止めた。どうせ恥をかいたのなら、松島葉月に母親の居所を尋ねればよかったのである。
  けれど今さら戻ってもいい笑い者だ。自力で和葉を探すしかない。悲壮な決意をして、春道は再度そこらへんをうろうろし始める。
  とはいってもあまり遠くへは動けない。短距離走に参加する葉月を観なければならない。あの少女のことだから、走る直前に春道の姿を確認できるまで探すに決まっていた。
  万が一、その時になって春道を見つけられなければ、後で色々と文句を言われる。それに松島和葉の目的も、運動会に参加する娘の姿を見物することだ。葉月が見え辛い場所にいるとは思えない。
  推測は見事に的中していた。保護者用のスペースの最前列で、地面に敷いたビニールシートの上に膝を折って座っていた。リラックスしきっている周囲とは対照的に、どこか緊張感のようなものが感じられる。
  もっとも松島葉月にとっては、あの状態こそが自らのスタンダードなのだろう。小さい頃に習ったものは、大人になっても覚えてるとよく言われるが、よほど厳しく躾けられたに違いない。それとも根が真面目すぎるだけなのか。
  理由はどうであれ、春道があれこれと指摘する問題ではない。今はとにかく、多少のプレッシャーは我慢してでも、和葉と一緒にいさせてもらうのが得策だった。
  春道は人ごみを掻き分けて、松島和葉が陣取っている場所に辿り着く。
「ここ、いいか」
「ええ、どうぞ」
  短い会話を交わしたあとで、春道は松島和葉の隣に腰を下ろす。二人の間にバスケットが存在してるので、正確には隣とは言えないかもしれない。それでも春道にとっては、至近距離と形容しても構わないぐらいだった。
  私室で会話する場合は離れて向かい合うし、車で松島和葉の実家まで往復した時は葉月がいたのでそれほど意識しなかった。
  今回は状況がまるで違う。多数の人間が集まる場所で、仲良く一緒に座って運動会を見物しているのだ。誰に質問しても、春道たちを夫婦だと答えるはずである。
  柄にもなく春道は緊張していた。女性と交際した経験も、同年代の男性と比べて少ないのが影響してる可能性もある。けれど、これまでこんな気持ちになったりはしなかった。
  どうしてだろうと理由を考えてるうちに、春道は以前よりも松島和葉を意識するようになっていた自分自身に気づく。だからこそ、少し特殊な状況になっただけでうろたえてしまうのだ。
  チラリと横目で隣を見ても、当の松島和葉本人に春道を意識してる様子はなかった。いつもと変わらない態度や仕草で、愛娘の出番を今か今かと待ちわびている。
  事あるごとにこうした姿を見ている春道には、とても和葉と葉月に血が繋がってないとは思えない。何かの間違いではないのかと考えるも、事情を知ってる親族の戸高泰宏の言葉だけに信憑性は高い。
「……頑張って」
  隣から呟きがボソッと聞こえてきた。見れば拳を握り締めた松島和葉が、前方を凝視している。いよいよ松島葉月の出番が目前に迫ってきたのだ。
  前の組がゴールする前に、葉月たちの組がスタートラインのすぐ後ろに整列させられる。低学年の部なので、一年生から三年生までの各クラスからひとりずつ参加している。高学年の部は残りの四年生から六年生までが合同で行われる。
  この方式だと低学年が圧倒的不利に思えるが、運動能力の優劣は年齢で決まらない。年下が年上に勝つなんてのはよくある話だ。どうなるかはやってみなければわからない。
  いよいよ葉月たちの組になり、号令役を務める教師が「位置について」と発する。
  スタートラインに並んでいる児童たちが前傾姿勢になり、準備が整ったところで教師が専用の道具でパアンと合図を出す。
  松島葉月を含めた女児たちが一斉に駆け出し、各々のクラスメートたちが大声を上げて応援をする。
  優勝クラスには豪華商品があるなどの特典はない。このぐらいの年齢は、とにかく勝負事には夢中になる。春道もそうだった。恐らくは隣にいる松島和葉も――いや、もしかしたら違うかもしれない。
  何にせよ、松島葉月も参加している短距離走はスタートしている。全員が全力でゴールへと向かう中、葉月が一歩分周囲より前に出る。それと同時に、娘を後押しするかのごとく松島和葉も身を乗り出す。
  普段は冷静沈着でも、娘が絡めばそれは一変する。まさに我が子を応援する母親の眼差しで、競技が行われているグラウンドを真剣に見つめている。
  道中転びそうになったりもせず、松島葉月は誰よりも早くゴールラインへ駆け込んだ。児童たちの控えてる場所の一角から、わっと大きな歓声があがる。どうやら葉月が所属してるクラスみたいだった。
  少し恥ずかしげに仲間たちにガッツポーズをしてみせたあとで、満面の笑みを春道と和葉にくれた。いじめにあっていた頃の悲しそうな雰囲気はどこにもない。その事実に改めて安堵する。
  こうして午前中の競技はあっという間に消化されていくのだった。



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