リセット

   10

「わかった。水町さん――いや、玲子……さんが望むのなら、そうしよう」
 少女が強く希望してるのであれば、哲郎に拒む理由はなかった。
 早速、玲子と下の名前で呼んでみたが、想像以上の照れが襲ってくる。
 けれど当の水町玲子は、頬を赤らめながら嬉しそうにしていた。
「じゃあ、私も哲郎君って呼ぶね」
 そのあとで、自分にさん付けはしなくていいと付け加える。
 それならば哲郎にも、君付けをする必要はない。互いに対等の呼び方にしようと求めたが、水町玲子は首を左右へゆっくり振った。
「女の子が、男の子を呼び捨てにするなんて、変な感じがするし……私はこれでいいの」
 そう言われてしまっては、元も子もなかった。
 だいぶマシになってきてるとはいえ、この時代はまだまだ男性の立場の方が強いのである。
 下手に言い合いをして喧嘩になってもつまらないので、哲郎は少女の主張を受け入れる。
 なにがなんでも、自分の言うとおりにしたいというような議題ではなかったので、全面降伏にもさしたる抵抗はなかった。
「わかった。でも、僕も慣れないうちは、さん付けしてしまうかもしれないから、その場合は許してね」
「うん……わかったよ、哲郎君」
 哲郎の名前を呼ぶ少女はとても嬉しそうで、いつもよりずっと笑顔が輝いて見えた。
 交際を開始してから、卒業までわずかな期間しかないが、それでも充分な絆を作れると信じていた。
 そうでなければ、人生をやり直してる意味がない。哲郎は手を繋いで、一緒に帰宅している水町玲子を横目で見つめながら、改めて好きだという思いを強くした。
 それからというもの、日曜日になればよく二人で遊んだ。自転車に乗って、隣町まで行ってみたり、公園で他愛もない話で笑い合ったりした。
 すでにひととおりの教育課程を修了している哲郎にとって、学校の授業はまったく問題にならず、成績は常にトップを維持していた。
 哲郎が本来、己の知識レベルを上昇させるのは中学時代からで、この頃はまだ真ん中より下ぐらいだった。
 にもかかわらず急激に優等生へ変貌したのだから、当初は教員たちもおおいに驚いていた。
 けれど同じ状態が二ヶ月、三ヶ月と続いてくると、人知れず努力した結果と評価されるようになった。
 教師からチヤホヤされるようになり、ある程度の妬みも出てきたが、そんなのが些細な問題に感じるぐらい女生徒の人気が上昇した。
 哲郎自身はつい最近その事実を知ったばかりなのだが、同性である水町玲子はひと足早く情報を入手していたのだろう。道理で、あそこまで心配するはずだった。
 成績が上昇したとしても、哲郎はこれまでと同じようにするつもりだったが、周りが自然と変化していた。
 野球などをして騒ぎまくっていた友人たちが、哲郎を避けるようになっていたのである。
 とはいえ、何人かはこれまでと同じく付き合ってくれている。
 従来の人生における中学生時代にも同様の状況を味わってきたが、こんなものなのだと割り切るしかなかった。
 自分が変われば、合わせるかのように友人関係も変化する。去っていく友人がいれば、代わりにやってくる友人もいる。
 本を読んだりするのが好きで、あまり会話をしたことがなかった男児と仲良くなれたりもした。
 哲郎から話しかけたりしたわけでなく、水町玲子を始めとした女性陣が仲介役になってくれたのである。
 薄情な奴らは放っておけばいいとばかりに哲郎の味方となってくれ、今や教室内は勢力が二分化されてるようなものだった。
 いつの間にやら中心に祭り上げられている哲郎のグループが優勢なものの、ギスギスした空気はあまり好ましくなかった。
 本来ならどうするべきか悩むところだが、解決方法を見つけるより先に、通い慣れた小学校の卒業式がやってきた。

 各児童の両親も見学へやってきており、その中には哲郎の母親もいた。
 父親の哲也は休みがとれないと事前に聞いていたため、どこにいるのかと探したりはしなかった。
 さらに言えば、この日に父親が来てくれないのはよくわかっていた。
 何故ならばすでに一度経験しているからだ。姿形は小学生でも、頭の中は違う。社会を経験してれば、大人の事情もよく理解できる。
 当時は相当に落胆したのを覚えているが、成長してから考えればいい思い出になる。
 このようなケースは人生において、多々存在する。だから人は成長するにつれて、我慢の重要さを認識するのである。
 卒業式には水町玲子の両親も出席しており、当の少女は巻原桜子などの友人と一緒に号泣している。
 よくあるパターンとして、最初に泣いた誰かを見て、次々に涙が伝染していくというのがある。
 今日の卒業式もその典型で、中には男子でも泣いている人間が何人もいた。
 哲郎の目には、涙など一切滲んでいない。水町玲子と交際できたという点では感慨深かったが、二度目の小学校の卒業式となると、勘当もいささか薄れる。
 そこら辺は、過去へ戻れるスイッチの数少ないマイナス部分かもしれなかった。
 だがそれは哲郎の我侭も同然であり、こうしてやり直すチャンスを与えられているだけでもありがたかった。
 体育館に集まった卒業生が、ひとりひとり証書を授与され、その後に下級生からお別れの歌を送られる。
 場にいる卒業生の中で、哲郎だけが懐かしさを感じてるのだろうなと思えば、何やら変な気分になった。
 式もつつがなく終了し、最後に所属していた教室へ戻る。
 やはりクラスメートは大多数が泣いており、普段は気丈な女子も大粒の涙をこぼしていた。
 教室に遅れて現れた担任教師も涙ぐんでいて、怖い一面もあったけれど情が深い人物だったのだと印象づける。
 もちろん計算でやってるわけではないのだが、思考回路は大人も同然な哲郎は、どうしても冷めた感想を排除しきれなかった。
 そんな折、ふと隣の席に座っている水町玲子と目が合った。
 涙でキラキラと瞳を輝かせながら、かすかに微笑む姿がとても眩しく映った。
 記憶の中にある卒業式では、席も離れており、何より一度も互いを見ずに言葉もなく別れた。
 相手は見ていたのかもしれないが、気まずさのあまり、哲郎が顔を背け続けていたために、記憶をどんなに漁っても確認するのは不可能だった。
 やがて担任教師の挨拶も終わり、教室にて解散となった。
 ほとんどは両親同士で会話をしており、子供たちは普段の放課後と同様に、仲間たちと連れ立って学校を後にする。
 大半が中学校も同じなので、お別れなんて雰囲気は微塵もなかった。
 もっとも小学生なんて、こんなものではないだろうか。かくいう哲郎も、卒業式が終わったあとすぐに、いつもの空き地で仲間たちと野球をしたのを覚えている。
 けれど二度目となる今回は違う。野球へ誘う役だった友人とは疎遠になっており、従来の人生と同じ道を歩く結果にはならなかった。
 代わりに、異性ながらもよく話すようになっていた巻原桜子が側へやってくる。
 背後には隠れるようにしている水町玲子が、恥ずかしそうな表情で立っていた。
「お待たせ。玲子を連れてきてあげたわよ」
 ニヤけ顔の巻原桜子にからかわれ、水町玲子の顔が予想どおりに赤くなる。
 反応をさせて楽しむためだとわかってるのに、どうしようもないみたいだった。
 熱を持った頬をクールダウンさせるかのように両手で押さえながら、いつもどおりに「もうっ」と叱責の言葉を友人へぶつける。
 そのあとで意を決したように、水町玲子が哲郎へ右手を伸ばしてきた。
「哲郎君、一緒に帰ろう」

 伸ばされた手をしっかり握った哲郎は、周囲から冷やかされつつも、水町玲子と2人きりで帰路についた。
 本来なら男児たちに囲まれ、ガヤガヤとした雰囲気の中で、野球などを楽しんでる頃だった。
 それが現在の哲郎は、静かな町並みの中を、当時大好きだった女の子と手を繋いで歩いている。
 本来の自分について考えるのは、もうそろそろ止めた方がよいのではないか。最近では、そんな風に思うようになっていた。
 何故ならば、現在の哲郎こそがすべてであり、戻ってきた以上、それまでの人生は架空上の出来事も同然になっている。
 同じ選択肢を延々と選び続けて、まったく差異のない未来へ辿りつけば話は別だが、そうなる確率は限りなく低かった。
 哲郎自身が重要な場面場面で、どのような選択をしたのか、すべて覚えてるわけではない。知らず知らずのうちに、違った選択をする可能性も大いにある。
 行動指針を決める情報として記憶や思い出、経験をありがたく利用しても、六十余年生きた自分はこうだったと固執する必要はなかった。
「どうしたの、哲郎君。また、難しい顔をして、何かを考えてるみたい」
 熱心に哲郎の挙動を観察してるのか、もしくは同年代の人間より洞察力が鋭いだけなのか。どちらにしろ、少しでも上の空になると、即座に少女が指摘してくる。
「いや、何でもないよ」
「……そう。うんっ。なら、いいの」
 本当にそうだったのか、確信が持てないほどの短い間だけ、水町玲子が寂しそうな表情を浮かべた。
 けれど次に見た時には、いつもの笑顔を見せてくれており、哲郎の中に芽生えた不安も深刻化せずに飛散する。
 手のひらに伝わってくる相手の体温が、心配しないでも大丈夫だよと言ってくれてるような気がした。
「小学校……卒業しちゃったんだね」
 ポツリと水町玲子が、俯き気味に呟いた。
 地面へ零れ落ちる前に、なんとか哲郎の耳が言葉を拾い上げる。
「長いようで……あっという間なんだよね。中学校、高校も……こんな感じだよ」
「そうなのかな……でも、ふふっ。なんだか体験してきたみたいな言い方だね」
 言われて、しまったと思ったが、特別に弁解したりはしなかった。
 ――そうだよ。経験して辿りついた未来から、戻ってきたんだ。こんな説明をしたところで、信じてくれる者など、誰ひとりとしているはずがなかった。
 例外があるとしたら、哲郎にスイッチを譲渡してくれた名前も知らない老婆だけだった。
 適当な言葉で少女の指摘を誤魔化しつつ、さりげなく話題を変える。
「水――いや、玲子は、中学生になったら、何かしてみたいことはあるの?」
 だいぶ慣れてきたとはいえ、油断すると危うく苗字で呼びそうになる。
 哲郎としてはそれでも構わなかったが、苗字にさん付けまで加えると、途端に相手の機嫌が悪くなる。
 まだ幼いがゆえに、大人じみた恋愛に憧れてるのかもしれない。なんて考えたあとで、そういえば自分も子供だったと、哲郎は内心で苦笑する。
「特には……ないかな。でも、部活動はしてみたいかな」
 小学校にも部活はあったものの、それほど数は多くない。けれど中学校になると、数も規模も増大する。
 各地域から中学校へ集まってくるため、生徒数も小学校とは大幅に違ってくる。
 疎遠になる小学校の友人より、中学生になって親密になる人間の方がよほど多いのである。
「哲郎君は、どう? 何かしてみたいこと……あったりする?」
「そうだね……とりあえず、友達はたくさんほしいかな」
 孤独な中学及び高校時代を過ごした経験しかない哲郎にとって、それは心からの願望だった。


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