リセット

  32

「どうして、会えないんですか!」
 いつか見つけた水町家の夜逃げ先に、哲郎はひとりやってきていた。
 しつこいくらいに何度もドアを叩き、挙句には夜通しで張りこんだ。これまでの苦労を思えば、夜風など何の障害にもならなかった。
 ようやく見つけたひとりの男性。よぼよぼのシャツを着て、疲れきった表情を浮かべているこの人物こそが玲子の父親だった。
 まだ学校へ通っていた頃に何度か見かけたことはあったが、ずいぶんと変わり果てた印象に最初は驚いた。
 水町玲子の父親も相当に苦労してきたのがわかったものの、だからといって哲郎は己の想いを諦められない。結果、こうして相手男性へ詰め寄っているのである。
「……理由は、娘が会いたがってないからだ」
 小さな声でポツリと呟かれた理由は衝撃的すぎて、哲郎は一瞬、自分の耳を疑った。
 そんなはずはない。自分と水町玲子はうまくやっていた。然るべき年齢になったら、結婚するという約束もしていたのだ。
 心の中に渦巻く想いが、自然に台詞となった口から出ていた。それを黙って聞いていた水町玲子の父親が、申し訳なさそうに目を伏せた。
「君は、昔から玲子と仲の良かった男の子だね。そうか。娘からの手紙で、ここの居場所とかも知ったのか」
 昔を思い出しているかのような遠い目と口調には、どこか懐かしがってる雰囲気もあった。できればあの頃に戻りたい。もしかしたら、そんなふうに考えてるのかもしれなかった。
 ここで哲郎も、手紙を貰った当時を思い出す。何度もの失敗を経て、リスクを考えずに、家族にも迷惑をかけて家を飛び出した。
 弱者が生き抜くために知恵を振り絞り、なんとか生活の基盤を構築するまでに至った。しかしその過程で、哲郎は玲子の両親から娘を奪い取ったも同然。恨まれるのは当たり前だった。
 頭に血が上りすぎていて、そんな当然の話に今さら気づく。哲郎は、ほとほと自分の無神経さに呆れ返っていた。
 あらゆる意味で鈍すぎるがゆえに、玲子の想いに幾度も気づけなかった。それが今日までの堕落ぶりを表している。
「あの日、玲子を連れて逃げたのも、君で間違いないんだな」
 よれよれのはずなのに、相手男性の言葉に力強さが込められている。それだけ、水町玲子の父親にとっては真剣な問題なのだ。
 ほんのわずかとはいえ、嘘をつくという対処法が頭に浮かんだ己を哲郎は恥じた。
 本気には、本気でぶつからなければ、こちらの思いは決して伝わらない。何度も人生をリセットして、哲郎は痛いぐらいに実感した。
「そうです」
 あえて相手の目を見て、正直に告白する。事実は変えられないのだから、いっそ堂々と肯定する道を選んだ。
 激昂した玲子の父親に殴り飛ばされるかと思いきや、相手はやはり小さな声で「そうか……」と口にしただけだった。
「ま、待ってください!」
 それだけ言い残して帰ろうとする水町玲子の父親を、哲郎は慌てて引き止める。
 哲郎がここへ来た目的は水町家の家主との会話ではなく、あくまで愛しい女性の消息を知るためだった。
 外から探っているだけでは、この家に住んでいるかどうかもわからない。なにせ、ようやくという言葉が相応しいぐらいの時間を経て、父親も外へ出てきてくれたぐらいなのだ。今のチャンスを逃せば、次にはいつになるか検討もつかなかった。
「お願いしますっ! せめて居場所くらいは教えてください。玲子は一緒に住んでいるんですか!?」
 改めて詰め寄る哲郎に対して、水町玲子の父親は何も喋らない。口を開く元気もないとばかりに、無表情のままで目だけをこちらに向けている。
 どうしても水町玲子の所在を知りたかった哲郎は、自然に相手の襟首を掴む手に力を込めてしまう。
「ゴホッ、ゴホッ! う、うぐ……」
 やがて相手男性が呻きだした頃、女性の「やめてください」という声が哲郎にぶつけられた。

 もしかしてという思いで振り返るが、水町家の玄関にいたのは玲子ではなかった。
 父親と同様に疲れ果てた様子ながらも、どことなく玲子に似ている。その点を考えれば、女性が誰なのかはすぐに理解できた。
 哲郎が駆け落ち同然で、水町玲子と一緒に姿を消した後、母親が懸命に働いて金銭を稼いでいたと、お世話になった新聞販売所まで押しかけてきた男が話していた。
 もっとも哲郎が直接聞いたわけではなく、玲子からもたらされた情報だった。そしてそれこそ、玲子が連れ戻されそうになった原因でもある。
 実際には連れ戻されるのではなく、販売所へやってきた男性の思惑どおりに、水町玲子自らが両親の元へ戻る道を選んだ。
 傍から見てれば不可解な選択でも、実の娘である玲子にとっては当たり前なのかもしれない。先の運命がある程度わかっている哲郎であればこそ、両親より好きな相手を取るという行動に出られた。
 相手女性に同様の決断を求めるにはあまりに酷であり、どのような態度をとるか決めかねてるうちに大勢は決していた。
 夜のうちに水町玲子は新聞販売所を後にして、両親が住んでいる家へ戻ってきた。そこからどうなったのかは、一緒に行動していない哲郎が知る由もなかった。
 だからこそ知りたいと願い、ここまで訪ねてきたのである。何の成果もなく、すごすごと帰れるはずがなかった。
「す、すみません。大丈夫でしたか」
 なんとしても情報を得たいのはもちろんだが、水町玲子の父親を腕力で締め上げるのは何かが違う。哲郎は慌てて、相手男性から手を離した。
 咳き込みながら呼吸を数回繰り返したあとで、かろうじて水町玲子の父親が顔を頷かせた。
「貴方は……誰ですか。何をしに来たんですか」
 夫が暴行を加えられているかのような現場を目撃したのだ。哲郎に対して、敵意を剥き出しにするのはある意味で当然だった。
 哲郎が何も言えないでいると、代わりに水町玲子の父親が状況を説明してくれた。
「お前も知っているだろう。玲子と仲の良かった……梶谷さんとこの息子さんだ」
 梶谷という苗字を聞いて、ほんの少しだけ安心したように「ああ……」と水町玲子の母親も顔を上下に動かした。
 娘が消息不明になっている間、誰とどこにいたのか、例の男性から情報を得ているのかもしれない。
 どのような説明を受けたかは不明だが、哲郎が水町玲子を連れ出して、新聞販売所で共同生活を送っていた事実に間違いはないのだ。下手な言い訳をするつもりはなかった。
「お家にも遊びに来てくれていたわね。確か、梶谷……」
「――哲郎です」
「そう。哲郎君だったわね」
 それほど会話をした覚えがないので、名前を忘れられたと怒ったりもしない。現に哲郎だって、水町玲子の母親の名前を覚えていなかった。
 名前についてはお互い様なのでどうでもいいが、問題は水町玲子の所在である。
「貴方が、玲子と一緒にいてくれたと聞いたわ。ありがとう」
「え? い、いえ……」
 予想外のお礼に、哲郎はずいぶんと間の抜けた返事をしてしまった。責められることはあっても、ありがたがられることはないと半ば確信していた。
 けれど水町玲子の両親は、娘を連れ出した憎いはずの男へ怒号ひとつ浴びせようとしないのである。
 哲郎が疑問に思っていると、水町玲子の父親がぼそっと「玲子から、事情は聞いたよ」と呟いた。
 男の説明よりも、実の娘に教えられた情報を信じた。親ならば当たり前のように思えるが、すんなりとわだかまりを捨て去るのは難しい。誰より、哲郎が一番よく知っている。
 以前に恋人を奪われた友人とは、何度人生をやり直しても、仲良くできる自信はなかった。表面上は気にしないようにしていても、顔を合わせると苦々しい思い出が蘇る。
 こればかりはどうしようもなく、半ば運命と受け入れていたが、ずいぶんと気持ちをコントロールするのに苦労した記憶が残っている。
 そんな哲郎に、今度は水町玲子の母親が話しかけてきた。
「あまり詳しくは聞けなかったけれど、私にもあの子が、玲子が教えてくれた。素敵な男性と一緒だったと」

 ――どうしたんですか。その言葉を、哲郎は口にできなかった。
 水町玲子の母親が、喋っている途中でいきなり泣き出したからだ。原因がさっぱりわからないので、哲郎は戸惑うばかりだった。
 何か失敗したのかとうろたえる哲郎に、水町玲子の父親が「娘は……幸せそうだった」とポツリと口にした。
「最初は貴方を恨みました。けれど、帰ってきたあの子はとても幸せそうで、思い出話を聞かせてくれました」
 そこで言葉を区切り、また水町玲子の母親は嗚咽を漏らす。手で口元を押さえながら、懸命に涙を止めようとしていた。
 そんな女性に代わって、夫でもある水町玲子の父親が口を開いた。
「自分は何より幸せな数年間を過ごせた。だから……これからは何があっても平気だと……言っていた……!」
 水町玲子の父親も泣いていた。やがて二人は支えあうように密着しながら、哲郎の前に立った。
「……なので、貴方に感謝しているんです。娘に……幸せを与えてくれて、どうもありがとうございました……」
 涙をこぼしながら、お礼を言ってくる水町玲子の母親に対して、哲郎はたまらず声を荒げる。
 他人の家庭に口を出すべきではないのかもしれない。けれど、どうしても黙ってはいられなかった。
「玲子がどこに行ったのか、何をさせられるのか、知っているんですね!? なのに、引き渡したんですか。自分たちの大事な娘を!」
 哲郎は一度、この前の人生で水町玲子の行く末を見ている。いかがわしいお店で働かされ、好きでもない男性と望まない結婚をさせられる。
 すべては家族のためであり、水町玲子ひとりが犠牲になった。そして哲郎も、悲惨極まりない末路を辿ったのである。
 自分の目で結末を見ているからこそ、想い人が不愉快な未来へ進むのを、なんとしても阻止したかった。
「それでも親ですか! 娘が……可愛くないんですか!」
 母親を見捨ててまで、水町玲子との生活を選んだ哲郎が、言うべきでない台詞なのは重々承知している。
 それでも口にせずにはいられないほど、今の哲郎は劇場に支配されていた。
「そんなわけないだろう!」
 哲郎に負けないぐらいに、水町玲子の父親も語気を強めた。
 すぐ側にいる母親が息を飲む中で、真正面から哲郎と対峙する。
「私だって、あの子には幸せになってもらいたい! いっそ、見捨ててくれたらよかったんだ!」
 溜まっていた鬱憤を吐き出すように叫んだあと、地面へ膝をついておもいきり腕を振り下ろした。
 大地に拳が痛烈にぶつかっても、悲鳴すら上げずに何度も同じ行動を繰り返す。それを見て、哲郎はようやく相手の思いに気づいた。
 自分の娘の不幸を願う親などいない。そして、水町玲子の両親は実直で真面目な夫婦だったのだ。だからこそ騙され、ここまでの苦境に立たされた。
「すまない……玲子。すまない……!」
 泣き叫ぶ父親の隣で「貴方のせいじゃない。私がもっと頑張れれば……」と母親も自分を責め始める。
 見てて気の毒なぐらい二人とも憔悴しきっており、これ以上に罪の意識を背負わせるのは忍びなかった。
「お願いですから……玲子の……娘さんの居場所を教えてください……」
 声を絞り出して哲郎が尋ねた時、唐突に背後に人の気配を感じた。


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