リセット

  33

 もしかして、今度こそ玲子か。哲郎は勢いよく背後を振り返った。しかし、そこに立っていたのはスーツ姿の男性だけだった。
「た、田所さんっ」
 哲郎と一緒に男の存在に気づいた水町玲子の父親が、相手の名前を口にしていた。
 どうやら田所という名前らしいスーツ姿の男は、スラックスのポケットに手を突っ込んだままでこちらを見ている。
「水町さん、一体何の騒ぎですか」
 チラリと哲郎にも視線を向けてきたが、人間らしい温かみを感じない目つきに背筋がゾッとする。
 この男性が親切心だけで、水町家の夜逃げを手伝ったとはとても信じられなかった。
「まあ、いいでしょう。ところで、こちらは誰ですか」
 水町玲子の母親が、田所の質問に対して「娘の恋人です」と答える。
 本来なら、両親公認の仲になったと喜びたいところだが、現在はとてもそのような状況ではない。哲郎はすぐ近くにいる男性と、睨みあうような形で対峙する。
「お前は……」
 相手は忘れているかもしれないが、哲郎の記憶には男の顔が鮮明に残っていた。
 以前の人生で、水町玲子を変な店へ紹介した張本人だったのだ。通いつめているうちに、何度か顔を見かけたことがあった。その際に、玲子ではない別の女性店員が教えてくれた。
「君のような若者に、お前呼ばわりされる筋合いはないのですけどね。そうですか、君が人の家の娘さんをさらった狼藉者ですか」
 狼藉者なんて呼ばれ方をされて、嫌な気分にならない人間はいない。哲郎も例外ではなく、食ってかかるように相手へ詰め寄った。
 前回の人生でボコボコにされたのがいい例で、決して哲郎は腕っ節が強くなかった。性格も好戦的ではなく、およそ喧嘩に向かない人種であるのは、自分自身でもよく理解していた。
「狼藉者はどっちだよ。人の弱味につけこんで、若い女をいかがわしい場所で働かせようとしてるじゃないか!」
「ものは言いよう……ですね。悪意ある言い方は止めてもらいたい。私は水町家の方が生活費に困ってるというので、もっとも効率的にお金を稼げるお店を紹介してあげただけです」
 それこそ、相手の台詞にあった「ものは言いよう」というやつだった。聞こえはいいが、やってることは悪質そのものだ。
「ふざけるな。だったら、もっと真っ当な仕事を紹介すればいいだろう。生活するだけで、そんなに金がかかるものか」
 外見は普通の若者かもしれないが、実際は何度も人生をやり直して経験を積んでいる猛者なのだ。知識などを含めた内面においては、相手男性の上をいっている自信がある。
 下手な言い訳は通用せず、的確な指摘を田所と呼ばれる男性に行う。すると相手は、見るからに面倒臭そうに舌打ちをした。
「これだから、人生というのを知らない子供は嫌いです。いいですか。ある程度の事情を知っているみたいなので、あえて教えてさしあげますが、夜逃げにもお金がかかります」
 夜逃げ先の物件に始まり、車の調達費に加えて借金先へのアフターケア等々。田所はもっともらしい理由を、次々に並べてきた。
 そのたびに水町玲子の父親が申し訳なさそうな顔をするも、哲郎にはひとつの疑念が浮かんでいた。
 相手の発言を聞くほどに、ある種の胡散臭さが発生してくる。苦労して夜逃げさせたように聞こえるが、最初からすべて予定どおりだったのではないか。そんなふうに思えた。
 もちろん何の証拠もないので、あくまで哲郎の客観的な感想にすぎなかった。けれど、辿りついた結論が妙にしっくりきた。
「もしかして……金を盗んだ人間と、共犯だったんじゃないだろうな」
 突然の哲郎の発言に、田所だけではなく、水町玲子の両親も大きく目を見開いた。
 言葉が巧みな相手には下手にかまをかけるより、こちらの方が適してるのではないかと、哲郎は直球勝負を挑んだのである。

「それがどうかしましたか」
 田所と呼ばれている男は、悪びれもせずにそう言い放った。これには水町家の夫婦も驚愕し、言葉を出せずに口をパクつかせる。
「今も昔もこの世は弱肉強食なのです。よく覚えておくことですね」
「き、貴様……よくそんな……!」
 これまで黙って聞いていた水町玲子の父親が、こめかみに青筋を浮かべて田所へ掴みかかった。
 しかし普段からろくなものを食べておらず、身体の弱っている水町玲子の父親が以前みたいな力を出せるはずもなく、田所の手によって難なく地面へ転がされてしまう。
 夫のダウンに慌てた水町玲子の母親が「あなたっ!」と叫んで近寄ろうとする。
 だがその瞬間に、どこからか現れた頑強な男たちがそうはさせまいと立ち塞がった。
 田所の余裕の態度を見ていれば、チンピラ風の男たちが全員仲間なのがすぐにわかる。その様子を地面に倒れている水町玲子の父親が見て、さらに愕然とした。
「器量良しの娘さんも契約書に判を押してくれましたので、もう貴方たちはどうでもいいのですけどね。奥さんには、まだ使い道がありそうなのでもらっていきますよ」
「ふ、ふざけるな……俺の……妻だ……」
「フン。守れもしないくせに、口だけは達者ですね。あまり私を怒らせない方が身のためですよ。貴方は遠くで幸せに暮らしてることになるのです。実際がどうであろうと、関係ないのですよ」
 意味がわかってなさそうな水町玲子の父親の代わりに、震える唇で哲郎が「脅すのか」と応じた。
 哲郎との方が話が早いと判断した田所は、体勢を変えて向き直った上で実に悪役らしい笑みを浮かべてみせた。
 その間にも水町玲子の母親は、チンピラ風の男たちの手によって、近くへ用意されていた車の中へ連れ込まれてしまった。
 田所が近くにいる以上、迂闊に哲郎も動けず、現場は硬直状態が続いていた。
 やがて車が発進し、去り行く妻の姿をガラス越しに眺めるしかない水町玲子の父親が顔を絶望一色に染めた。
 どうしてこうなったのだろう。今にも泣きそうに歪んだ顔は、誰にともなくそう尋ねてるように思えた。
 その水町玲子の父親の顔が、またもや変化した。忙しいことこの上ないが、今回は事情が違う。悲しんでるのではなく、膨大な怒りを前面に押し出している。
「田所さん。私も奥さんの方へ行っていいですかね」
「出番を待ちきれませんでしたか。まあ、貴方は昔から水町さんの奥さんに好意を抱いていたみたいですから、仕方ないかもしれませんね」
 突如現れた見知らぬ中年男性と、田所が実に仲良さげに、あまり好ましくなさそうな類の会話をし始める。
 何がなんだかわからない哲郎は傍観するしかないが、地面に倒れている水町玲子の父親は違った。
 よほど田所からキツい一撃を貰ったらしく、未だに立ち上がれないものの、地面の上で手足をバタつかせて少しでもやってきたばかりの男へ近づこうとする。
「貴様……佐野ォ!!」
「お久しぶりです、社長。元気でしたか? ずいぶんとみすぼらしい姿になっているみたいですけど」
 いやらしい顔つきに、憎たらしい話し方。どうやらこの男も、田所と同じ穴のムジナと考えて間違いなさそうだった。
「そこの君はこの男が誰か知らないはずですね。特別に紹介してあげますよ。彼は佐野昭雄と言って、水町工場の社長に信頼されていた社員です。おっと、いけません。社員でしたと、過去形にする必要がありましたね」
 水町玲子の父親の態度と、田所の説明を受ければ、いくら人から鈍いと言われる哲郎でさえも状況は理解できる。
 要するにこの男が、水町家の工場から運営資金を盗んだ張本人なのだ。それがこんなところにいて、しかも玲子たちの夜逃げを手伝った田所と親しげに会話している。
 常人離れした推理力がなくとも導き出せる結論に、哲郎は自分の身体が怒りと恐怖で震えるのを感じた。

「恥を知れっ! 貴様!」
 哲郎が何か言うより先に、積もり積もった恨みのある水町玲子の父親が佐野昭雄を地面の上から睨みつけた。
 幼少時に何度か会った覚えがあるものの、ここまで怒っている水町玲子の父親を見るのは初めてだった。
 驚くのはもちろんだが、同時に哲郎は恐ろしさも覚えていた。その迫力が、人をも殺傷しかねないほど強烈なものだったからだ。
 人はこんなにも怒れるのか。率直にそんな感想を抱くほどで、あまりの緊張感に場を包む空気もピリピリしていた。
「私を恨むのは筋違いですよ。怒るのなら、社長の奥さんにしてください」
「な、なんだと……!?」
 予期せぬ発言の真意を確かめるべく、どういうことだという言葉が佐野昭雄にぶつけられる。
 すると水町工場倒産の原因を作った男は、悪びれもせずにこう言い放った。
「だって、奥さんが俺の誘いを断ったんですよ。長年支えてきた人間を、誠心誠意労うくらいしてくれても罰は当たらないでしょう」
 佐野昭雄という男のあまりの言い分に、哲郎は頭をクラクラさせた。
 誠心誠意労う方法については、知りたくもない。なのに、相手男性はこちらの神経を逆なでしようとしてるかのごとく、言葉を続けてくる。
「だから、田所さんのお誘いに乗ることにしたんです。各所から売上金が入る日はわかってましたからね」
 やはり哲郎の推測どおり、田所と佐野の二人は最初からグルだったのである。
「幸いに社長は俺を信頼してくれてましたからね。何かあった時のために、金庫の番号も知ってましたから、犯行は容易かったですよ」
 いくら社員とはいえ、家族以外の人間に売上金を保管する金庫の番号教えるなんて、そうそうあることではない。
 そこまでの信用をしてもらっておきながら、目の前にいる佐野という男はあっさりと裏切ったのだ。まさに非道。改めて怒りがふつふつとこみ上げてくる。
「売上金が金庫へ保管された日の夜、工場の隅で待ち合わせしましてね。ほら、大きな松の木があるところですよ。そこで現金の引渡しを行ったんです」
 自身の裏切りを得意気に話してるのが、哲郎には信じられなかった。こんな男のために、水町玲子との未来が無残に破壊されたのである。
 そう思うとこらえきれない憎悪に変わり、今すぐにでも相手へ掴みかかりたい気分になる。
「佐野さん。お喋りがすぎますよ」
 田所にたしなめられた佐野昭雄が「すみません」と頭を掻きながら謝る。このやりとりだけでも、どちらの立場が上なのかすぐにわかる。
 前々から水町工場を狙っていた田所が、社長から信頼されている佐野という人間に目をつけて、一連の計画を練ったというのが恐らく真実だろう。
「ですが、私も鬼ではありません。冥土の土産に、その程度の情報は差し上げましょう」
 満面の笑みを浮かべる田所の背後に、漆黒の不気味なオーラが見えたような気がした。これが俗に言う殺気なのだとしたら、水町玲子の父親だけでなく、哲郎も大ピンチだった。
 こうなったら水町玲子の父親を担いで、なるべく急いでこの場から逃げよう。哲郎がそう判断した時、心を読んでいたかのごとく、周囲からぞろぞろと田所の仲間らしき男たちが現れた。
 瞬く間に哲郎と水町玲子の父親は囲まれ、徐々にその輪が小さくなってくる。
「社長。奥さんの面倒は私が見ますので、どうぞご心配なく」
 緊迫したシーンにおいて、場違いなほど明るい佐野昭雄の声を聞きながら、哲郎は一縷の望みをかけて決死の特攻を試みるのだった。


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