リセット

  37

「これが、約束のお金です。上手くいきましたよ。社長は、俺を全面的に信用してくれてますからね」
 すっかり暗くなった空の下、水町家の敷地内でそんな台詞を口にしたのは、雇われている社員の佐野昭雄だった。
 すぐ側にはもうひとりの男が立っている。いちいち顔を確認するまでもない。何度も哲朗や水町玲子を悲惨な目にあわせてくれた憎き男――田所六郎である。
「予定どおりに、うまくいきましたか」
 哲朗や水町玲子の父親がすぐ側に隠れてるとは露知らず、田所六郎が佐野昭雄へ話しかける。
 まだ状況を理解しきれていない水町玲子の父親も、ただならぬ雰囲気を察して、哲朗へ声をかけるような真似はせずに事態をじっと見つめている。
「こう見えても、俺は社長に信頼されてますからね。この程度は簡単ですよ」
 得意気に笑う佐野昭雄が懐から大切そうに、大きな布袋を取り出した。大きく膨らんでおり、中に何かが大量に入ってるのが見て取れる。
 哲郎のすぐ後ろで、水町玲子の父親がゴクリと喉を鳴らした。明らかに緊張しており、前方で繰り広げられている事態の異常さにも気づいている。
 これが何を意味するのか尋ねてきたりせずに、己の目や耳、五感すべてをフルに使って理解しようとしている。
「それは結構です。では、こちらに渡していただけますか」
 田所六郎が約束の物――つまりは水町工場の事務所から、持ち逃げしてきたであろう資金の受け渡しを求めた時だった。
 すぐに成立するのかと思いきや、予想外に佐野昭雄が首を左右に振って、一歩だけ後ろへ下がったのである。
 まさか、この場にきて正義感が蘇ったのか。驚きも加わって、ますます佐野昭雄と田所六郎の二人から目が離せなくなる。
 水町玲子の父親も同様だったみたいだが、すぐに新たな失望へ襲われる。佐野昭雄は薄ら笑みを浮かべたままで「そちらこそ、約束を守ってもらえるんですよね」と念を押し始めた。
「忘れてなどいませんし、実行するつもりでもいます。ただし、少しばかり時間を必要とするかもしれませんが、いずれにせよ、約束はお守りしますよ」
「本当でしょうね。こっちは奥さんを回してくれるっていうから、こんな危険な誘いに乗ったんだ。反故にされたら、たまったもんじゃない」
 唇を尖らせる佐野昭雄に、ここまで温厚な態度で接していた田所六郎がスッと目を細めた。鋭さを増した視線には殺気が滲み、遠目で見ている哲郎まで緊張を覚える。
「そちらには緊張感が足りないみたいですね。あまり大きな声を出して、事が明るみに出たら、貴方の人生は終わりなのですよ」
「な……ちょ、ちょっと待ってくれ。お、俺だけじゃないだろ」
 佐野昭雄の指摘どおり、田所六郎の立場も危うくなるはずなのだが、数々の修羅場を乗り越えてきたらしき男は微塵も動揺していなかった。
「さて、どうでしょうね。損害は被るかもしれませんが、そちらと違って、戻る場所があるのは確かですよ」
 いかに提案を持ちかけられた立場であっても、実行犯は佐野昭雄になる。加えて雇い主である水町玲子の父親へ反旗を翻した以上、すごすごと戻るわけにもいかない。
 今回はうまく資金を持ってこられたかもしれないが、戻す時も誰にも見つからずこなせるとは限らない。現段階ですでに、佐野昭雄は極めて微妙な立場になっていた。
 たったひと言で、田所六郎は佐野昭雄に己の現状を強烈に認識させたのである。
 汗ひとつかいてない田所六郎に対して、勤めている工場の資金を持ち逃げしてきたばかりの男は顔中に脂汗を浮かべている。
 今さら後悔してもどうにもならず、佐野昭雄の取るべき行動はひとつに限られていた。すなわち、田所六郎との取引を成立させることだ。
「わ、わかった。アンタを信じる」
 震える声で告げながら、ついに佐野昭雄が水町家を崩壊させる最大の原因を作ろうとする。

 しかし前回の人生とは、決定的に違う点がこの場に存在した。
 本来なら現場にいないはずの人間が、二人もずっと田所六郎と佐野昭雄のやりとりを見ていたのだ。
 しかもそのうちのひとりは、水町玲子の父親。つまりは、この工場の経営者なのである。
 哲郎にしても初めて目撃した取引現場だっただけに、上手くいくかどうかの自信は半分程度しかなかった。
 喜ぶべきかどうかは判断に迷うが、そこを救ったのが佐野昭雄の壮絶な自爆だった。
 まだ水町家の工場の敷地内にもかかわらず、天性の口の軽さを発揮して己の欲望を堂々と暴露してくれた。
 もっとも、その場に自分の雇い主がいないと思っていたからこその言動だったのだろう。誰かに見つかったり、聞かれてないか常に気を配っている田所六郎との大きな違いだった。
 佐野昭雄も用意周到で慎重な人間だったらと思えば、正直ゾッとする。だが、そうではなかったおかげで、哲郎の計画もここまでは順調に進んでいた。
「待て、お前たち」
 これ以上は黙ってられないと、水町玲子の父親が哲郎の背後から飛び出した。
 実際に大きな布袋を持った佐野昭雄が「約束のお金です」とまで言ってるのだ。中に入ってるのが、どのようなお金なのかは説明されるまでもないだろう。
 鬼気迫る表情を浮かべた水町玲子の父親が、凄まじいまでの迫力で田所六郎と佐野昭雄へ近づいていく。哲郎もそのあとに続き、ほどなくして同じ場で四人が対峙することになった。
 外見が中学生の哲郎に注意を向ける必要はないと判断したのか、田所六郎の視線は水町玲子の父親だけに注がれている。
「話は全部聞いていた。今さら、つまらない弁解はしなくて結構だ」
 いきなりの展開にも関わらず、笑顔で場を取り繕おうとした田所六郎へ厳しい言葉が飛んだ。発言主は、もちろん水町玲子の父親である。
「……つけられていたみたいですね。注意力散漫……という話ではすみませんよ」
 誤魔化すのは難しいと察した田所六郎が、かつてないほどの怒りが詰め込まれた目で近くにいる佐野昭雄を睨みつけた。
「しょ、所長……!? ど、どうして、ここが……あ、いや、違うんですっ! こ、これは……そ、そうだっ! そ、そこの男に唆されただけなんです。資金が金庫に集まる時期を見計らって持ち逃げしようなんて、一度だって考えたことはなかったんですよ!」
 地面に両膝をついて、何度も何度も頭を下げる佐野昭雄を、酷く冷徹な目で水町玲子の父親ではなく田所六郎が見下ろしていた。
 責任の所在を自分へなすりつけられたのを怒ってるわけではない。実際にそうなのだから、その程度ではなんとも思わないはずだ。
 ならばどうして無慈悲な視線を向けているのか。理由はひとつしかない。佐野昭雄が言わなくていい事実まで、自ら白状している点だ。
 頭脳をフル回転させて、この場を上手に切り抜けようとしている田所六郎にすれば、惨めな共犯者はもはや足手まといにしかなってないのである。
「やはりそうか……布袋の中身は金庫にあった金だな! 佐野っ! 貴様という男は……っ!!」
「ひ、ひいいっ! わ、悪いのはそこにいる男ですっ! 私は所長に絶対服従の忠臣ですよ!」
 何度「今さら」という言葉を使えばいいのかわからなくなるぐらい、あまりにあんまりな弁解の言葉だけが滑稽なまでに並ぶ。
 なだめるどころか、余計に水町玲子の父親の逆鱗に触れるだけだとも気づかず、ひたすら佐野昭雄は口を動かし続ける。
 ――付き合っていられない。ため息をついた田所六郎の顔は、誰が見てもわかるぐらいにそう語っていた。

「資金の持ち逃げをしようとしていた犯人を、私が身を挺して捕まえた。そのような物語でどうでしょう」
 泣き喚くように謝罪する佐野昭雄を、乱暴に叱り飛ばしていた水町玲子の父親の顔が唐突に向きを変える。
「……どういうことだ」
 現場を目撃していた水町玲子の父親には、実行犯が佐野昭雄でも、首謀者は違うというのがすでにわかっている。
 にもかかわらず、先ほどの田所六郎の発言である。真っ当に地に足をつけて生きてきた水町玲子の父親が、怪訝そうに眉をしかめるのは当然の反応だった。
 相手男性が何を言いたいのかを理解しきれず、正面から対峙するような形になる。
 その隙に逃げ出すかと思ったが、水町玲子の父親の圧力から解放されても、佐野昭雄は情けない悲鳴とともに地面へ座り込んでいるだけだった。
 ここまで惨めな姿を晒すのであれば、最初からたいそれた計画に手など貸さなければいいのに。他人事ながらに、哲郎はそう思わずにいられなかった。
「どういうこともなにも、話したとおりの意味ですよ。理解できませんでしたか?」
 佐野昭雄という小悪党を使った資金持ち逃げ事件が露見した現在でも、余裕の態度を田所六郎は一切崩していない。
 むしろ逆に堂々としており、被害者であるはずの水町玲子の父親が気圧されているようでもあった。
「もう二度と工場や家族に手を出さないから、黙ってこの場を見逃せってことですよ」
 途中で口を挟むのは失礼だと重々承知していたが、我慢しきれなくなった哲郎は水町玲子の父親の代わりに口を開いてしまった。
 しまったと思っても、一度外へ出した声を回収するなど不可能である。このままいってしまえと、哲郎は心の中で覚悟を決める。
 外見は中学生でも、中身は何度も大人になった人間である。それなりに修羅場もくぐっており、当初よりもずっと強い度胸が身についていた。
 水町玲子の父親でも後退りしそうだった独特の緊張感に包まれながらも、哲郎は一歩も退かずに田所六郎と視線をぶつけ合う。
 空中で火花でも散ってるかのごとき錯角に襲われるくらい、現場にはとてつもなく緊迫した空気が漂っていた。
「身に纏っている雰囲気といい、ただの中学生にしておくには惜しい逸材ですね」
 フフンと鼻を鳴らしながら、田所六郎は会話相手に水町玲子の父親ではなく哲郎を選んだ。
 中学生ではあっても、哲郎の方が話が早いと踏んだのだろう。一概に子供だと見下さずに、冷静に相手を分析できるあたり、やはり田所六郎はただ者ではない。
 繰り返してきた人生の中で、何度となく辛酸を舐めさせられてきた。恨みつらみは両手で抱えきれないほど持っていたが、ここで個人的感情を優先させるわけにはいかなかった。
 なにせ水町家だけではなく、哲郎自身の未来もかかっているのだ。歪んだ結末など、もう必要ない。欲しているのは、恋人の少女との幸せな日々だけだった。
「取引に応じましょう。あの手合いを相手にするのは、想像以上に厄介です」
「しかし……」
「犯行を未然に防げたことで、こちらの被害は大きくありません。ですが、事を荒立てれば損害が増える可能性も出てきます」
 哲郎に言われるまでもなく、田所六郎の本質が善にしろ悪にしろ、並の人物でないのには気づいていたのだろう。
 始めこそわずかに悩む姿勢を見せたものの、最終的には哲郎の判断を尊重してくれた。
「気に食わないが、その物語を受け入れてやる。その代わり、二度と目の前に姿を現さないでくれ」
「もちろんですよ。それでは、私が身を挺して捕らえた盗人の処遇をよろしくお願いします」
 それだけ言い残して田所六郎は去っていく。だが相手男性はまだ知らない。哲郎の仕掛けは、あとひとつだけ残っている。


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