リセット

  38

「本当にこれでよかったのだろうか」
 田所六郎が立ち去ったあと、地面に両膝をついて項垂れたままの佐野昭雄を見ながら、水町玲子の父親がそんな言葉を呟いた。
「確かにこの男はどうしようもない小悪党だが、あいつはその上をいってるように思う。そのような人間を野放しにしておいてよかったのか。未だに悩んでいるよ」
 水町玲子の父親は、哲郎が中学生だというのも忘れ、本気で悩み事を相談してる感じだった。
 もしかしたら、中学生とわかっていながらも、一連の対応により哲郎を一人前の男として認めてくれたのかもしれない。
 相手の反応どうこうより、哲郎にはするべき最後の詰めが残っている。上手くいってくれれば御の字だが、失敗した場合はそのまま田所六郎を見逃すつもりだった。
 また人生のどこかで障害になるかもしれないが、やはりあの男は好き好んで関わりあうタイプの男ではない。数々の因縁を経てきた哲郎には、痛いぐらいによくわかっていた。
「愚痴になってしまったな。梶谷君は私を心配して、ああ言ってくれたのに申し訳ない」
 素直に頭を下げたあとで、水町玲子の父親は佐野昭雄へ冷酷な宣告をする。
 窃盗犯として警察へ突き出す。その発言を聞いた瞬間に、憐れな小悪党は顔面を蒼白にして地面へ突っ伏した。
 このシーンだけ見ていれば多少はかわいそうな気もするが、哲郎は前回の人生で水町家の悲惨な最期を見ている。とても同情する気にはなれなかった。
「それじゃ、交番まで一緒に来てもらおうか」
「いえ……その必要はないですよ」
 そう言ったのは、他ならぬ哲郎だった。どういう意味だと目で尋ねてくる水町玲子の父親へ、耳を澄ましてみるように指示をする。
 こちらの要求に従ってくれた水町玲子の父親の表情が、一瞬にして驚愕にまみれた。
 そのまま哲郎を見てきた相手男性へ「予定どおりです」と応じる。現場に聞こえてきたのは、パトカーの鳴らすサイレンの音だった。
 水町家の外が騒がしくなっており、事情を知らない水町玲子の父親がうろたえた様子を見せる。
「心配しないでください。予め、僕が呼んでいたんです」
「梶谷君が?」
「はい。そこにいる人が怪しい動きをしてましたからね。逃げられた場合の保険です。とはいえ、何事もなかったら、水町さんにご迷惑をおかけするところでした。勝手に名前を出させてもらいましたから」
 まだ中学生の哲郎が応援を要請したところで、簡単に動いてくれるほど警察は暇ではない。ゆえに悪いと思いながらも、水町家の名前を勝手に使用したのである。
 水町工場は経営規模も徐々に大きくなりつつあり、それほど都会ではないこの町では有名な会社になっていた。そこからの要請となれば、警察も完全には無視できない。
 大掛かりな体勢は期待できなくとも、パトカーの一台や二台は派遣してくれると判断した。これが哲郎の用意した最後の仕掛けだった。
 水町玲子の父親へある程度の事情を説明したところで、哲郎は敷地の外へ出るのを提案する。
 パトカーのサイレンは限りなく大きくなっており、家の中にいた玲子やその母親も気づいて、何事かとドアから外へ出てこようとしていた。
「さ、早く行ってみましょう。もしかしたら、もうひとりの盗人も捕まっているかもしれませんしね」
 哲郎が笑みを浮かべると、水町玲子の父親は「参ったな」と苦笑しながら頬を人差し指で掻いた。
「梶谷君は最初から、一連の事件の前兆に気づき、ここまでのお膳立てをしてくれたのか。これでは、どちらが大人で、どちらが子供かまったくわからないよ」
 謝ろうかとも思ったが、そんな台詞を口にしたばかりの水町玲子の父親がなんだか嬉しそうだったので、哲郎は何も言わずに先にパトカーがいるであろう場所へ向かって歩き始めた。

 敷地の外へ出ると、道路に複数のパトカーが縦に連なっていた。音は消えているものの、特有の赤いライトが事件を知らせるべく夜の闇の中で回転している。
 制服姿の警察官に囲まれ、事情を説明しているのは、すでに逃げたと思われた田所六郎だった。
 通報を聞きつけて、慌ててやってきたのであれば、警察が到着する前に田所六郎は逃走に成功していただろう。その程度は、実際に事が起きる前でも容易に想像できた。
 だからこそ哲郎は事前に「今夜、運営資金が盗まれる」と警察へ連絡していた。最初は信じていなかったみたいだが、そこで役立ったのが水町家の名前である。
 事前の通報が嘘であろうと真実であろうと、有名になりかけている会社からの要請とあれば、どうしても断りきれない。本当だった場合、情報を得ながら動かなかった警察にも責任が少なからず発生するためだ。
 一般家庭の貯金と違って、会社の運営資金となれば額が違う。この時代で何千万というのは、驚愕するくらいの大金だ。それが盗まれたとなれば、まさしく大惨事になる。
 ゆえに半信半疑であったとしても、完全に情報を無視できない。そこで数台のパトカー及び複数の警察官を夜道へ紛れ込ませて、ひたすら待機していたのである。
 そこへわざわざ、正規のルート以外で水町家から出ようとする人間が現れた。警察官が不審者と判断し、呼び止めるのは当然の流れだった。
「ですから、何度も説明しているとおり、私はむしろ水町さんの味方なのですよ」
 何度も同じ説明をしているのだろう。数人の警察官に囲まれた田所六郎は、うんざり気味の表情になっていた。
 だが警察からすれば、この場を逃れるための嘘にしか聞こえない。先の見えない押し問答を繰り返しているうちに、敷地から哲郎と水町玲子の父親が現れた。
 渡りに船とばかりに田所六郎は「それなら、当人に聞いてみてください」とこちらへ対応を押し付けてくる。
 つい先ほど相手の作った物語を飲むと取引した水町玲子の父親は、困ったような顔で哲郎を見てきた。
 正直に事の顛末を教えたいが、その場合は取引を反故にされたと相手男性が怒るのは必然だった。どうしようか思案する水町玲子の父親へ、哲郎が対応を任せてほしいと申し出る。
 本来なら断られて当然の申し出なのだが、これまでの哲郎の功績を評価してくれたのか、水町玲子の父親は二つ返事で任せてくれた。
「状況は、彼がきちんと説明してくれます」
 わざわざ警察官に紹介してくれて、哲郎の言葉に間違いないと太鼓判まで押してくれる。
 これにより警察官たちも、若輩者の中学生の言葉にも、耳を傾けるつもりになったみたいだった。
「そうですね……その人の……言葉、どおりです……」
 わざと伏し目がちに、小さな声で警察に告げる。いかにも何か意味ありげな態度でそう話せば、裏に何か隠れた真意があるのではと勘繰られるのは当たり前だった。
 すぐに警察官は哲郎が口止め及び脅されてると判断し、厳しい視線を田所六郎へ向ける。
「……そういう……ことか」
 田所六郎が、諦めたようなため息をひとつだけついた。
「道理で、玄関へ向かうルートへ立ち塞がっていたわけだ。警察の良すぎる手際から考えても、どうやら君は最初から全部わかっていたみたいですね」
 相手の発言には何も答えない。ここで変な言い合いになって、田所六郎に有利となる言葉を引き出されるわけにはいかなかった。
 相手男性は百戦錬磨の猛者であり、同じ舞台で勝負をするのは極力避ける必要がある。
「参りましたね。まさか中学生に手玉にとられるとは、さすがに予想もしていませんでした」
「そのくらいにしておけ。お前の話は、署でゆっくり聞いてやる。どうやら、専門の部署の方々が出向いてきてくれるらしいぞ」
 結局、田所六郎の言い分はひとつとして認められず、パトカーで近くの交番まで連行されることになった。
 パトカーへ乗せられる直前、田所六郎はもう一度だけ哲郎を見てきた。

「この後の展望の予想はついているのかな」
 警察官がすぐ近くへいるにも関わらず、田所六郎は哲郎へ挑発的な目と言葉をぶつけてきた。
「……俺とそちちは無関係なはずだ」
「なるほど。理屈的にはそうだ。私は約束を守る。しかし、そうなると問題は君の方ですね」
 警察から解放されても水町家には手を出さない。けれど、哲郎に関しては話が違う。相手男性はそう言っているのだ。
 必ず名前や住所を調べ、今度は梶谷家を標的に悪行を尽くすことになる。警察官にはわからないように、わざわざ遠まわしな脅しをかけてきた。
 正直怖くてたまらなかったが、この程度は哲郎の想定の範囲内でもある。特別に慌てたりはしなかった。
「……もうひとりの逮捕者が、自分だけは罪を軽くしたい一心で、きっと洗いざらい今回の計画を暴露するはずです。そうなると、どうなるんですかね。貴方は守られるんですか。それとも、見捨てられるんですか」
 田所六郎がどこかの組織へ属していた場合や、仮にそこまでいってなくても出入りなどをしていた場合、警察によって執拗に背後関係が調べられる。
 改めて考えてみると、今回の計画に表立って姿を現していたのは、あくまで田所六郎ただひとりだった。そこに哲郎はわずかな勝機を見出した。
 組織の関わりが最初から目に見えていたのなら話も変わってくるが、実質的に動いていたのはあくまで田所六郎のみ。すると背後関係はどう考えるか。有能な人間であっても、シビアに切って警察の捜索を交わそうとする可能性が高い。
 哲郎が最初の人生で勤務していた信用金庫でも、不祥事を起こした人間がいれば同様の処理をされる。個人の暴走による悲しい事故であり、会社は関与していない。しかし、今後はこのような事態が発生しないように、各員を徹底して指導する。この程度の説明で終わりだ。
 普通の企業でも、こうなのである。万が一、田所六郎が危険な組織に出入りしていた場合、容赦のなさは民間を圧倒しているはずだった。
「仕掛ける相手を間違えましたよ。君のおかげで、私の苦労は増えそうです」
 軽く笑ったあとで、警察官に急かされながら田所六郎はパトカーへ乗り込んだ。今までの威圧感はまるでなく、完全敗北したと宣言しているみたいだった。
 残った警察官に水町玲子の父親が事情を聞かれている間も、哲郎は因縁深い憎き男を乗せたパトカーが遠ざかっていくのを黙って眺めていた。
 去り際の言い分からすると、哲郎や水町家が再度狙われる可能性は低そうだった。それどころか、田所六郎自身が窮地に追い込まれる可能性があるのだろう。
 どこの組織であっても深く関わったりすれば、常人が知らなくてもいい機密情報まで耳に入ってくる。そして、それらは一概に周囲へ漏らしてはいけないものだったりする。
 漏洩を極端に恐れるのであれば、危険を顧みずに最悪の手法をとる可能性もある。いわゆる口封じだ。
 表に出るか出ないかの違いだけで、そうした行為は哲郎が知らない場所でひっそり行なわれていたりするのだろう。確証はないので断言できないが、田所六郎の最後の態度を見るに、そんな気がしていた。
 できうる限り永遠にかかわりたくないと思っている哲郎が、自らの意思でそちらの世界へ進む可能性は極端に低い。目指すべきは、初恋の少女――水町玲子との幸せな日々だけだった。
「哲郎君、大丈夫だった? 一体、何があったの」
 騒動が収まりつつある中、駆け寄ってきた水町玲子が心配そうに哲郎を見上げてくる。
 ――ようやく守れた。心の中の声を言葉にしたりはせずに、哲郎はただ大事な少女を愛しげに見つめていた。


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