リセット

  39

「いや。普通の夕食会だったはずが、ずいぶんとゴタゴタしてしまったな」
 数時間後に戻ってきた水町家の食卓。並んでいる美味しそうな料理は、すべて冷えてしまっている。
 水町玲子の母親が台所へ立ち、それらをひとつひとつ丁寧に温めなおす。隣では娘の玲子も手伝っており、親子関係の良好さが二人の背中から伝わってくる。
 もう結構な時間になってはいたが、哲郎は未だに水町家へお邪魔している。つい先ほどまで、警察からパトカーの中で事情聴取を受けていた。
 ほとんど事件に関与していなかった水町家の母娘への聴取はすぐに終わったが、当事者とも呼べる哲郎と水町玲子の父親の場合はそうもいかなかった。
 とはいえ、こちらが加害者ではないため、警察の事情聴取も厳しくはなく、割合に和やかな雰囲気で進んだ。哲郎には教えてもらえなかったが、田所六郎の情報もある程度は把握しているみたいだった。
 先に家へ戻された恋人の少女が、心配げな表情で哲郎と自分の父親を玄関先でずっと待っていてくれた。ドアを開けた直後の「お帰りなさい」の言葉が妙に嬉しく、今でも耳に残っている。
 運営資金も無事に水町玲子の父親の手元に戻っており、これで破滅の条件はなくなった。分岐点で違う選択肢を進むことに成功し、とりあえずは哲郎もひと安心だった。
 水町玲子の父親も同様の心境だったらしく、食卓へつくなり先ほどの台詞となった。だが表情は明るく、怒っているような様子はまったく感じられない。
「しかし、哲郎君がいなかったら、どうなっていたことか。本当に感謝してもしたりないくらいだ」
 座ったままではあるが、そう言って工場の経営者でもある水町玲子の父親は、まだ中学生の哲郎に頭を下げた。
 水町玲子と幸せな未来を築きたい。己の願望を叶えるための行動でしかなかった。けれど結果的に、哲郎は水町家の面々を救ったことになる。
 照れ臭くなるくらい、感謝の気持ちを言葉にして並べられているところへ、再び温めた料理を手にした水町の母娘が食卓へやってくる。
「本当にそうだわ。まさか佐野さんがお金を盗もうとしてるなんて、私なら考えられなかったもの」
 幼い頃より知っており、自らの父親も絶大な信頼を置いている。そんな従業員がいきなり反旗を翻すなど、想像できなくて当然だった。
 ゆえに哲郎も事件の詳細を誰にも知らせることなく、水町玲子の父親へ現場を直接目撃させようと考えた。
 事件前の時点では、哲郎よりも佐野昭雄は水町家に信頼されていた。そのような状態でいくら注意を与えても焼け石に水。下手をすれば、こちらが出入り禁止を食らう可能性もあった。
 慎重に慎重を重ねて、なんとか今回の一件を乗り切っただけに、かつてないほどの達成感に哲郎は包まれている。
「全部、哲郎君のおかげね。ありがとう」
 恋人の少女が親しげな態度をとったりすれば、食事前はわずかに眉をしかめていた父親も、今では心からの笑顔で見守っている。
 当の水町玲子の父親自身が、事件後からは哲郎を名字ではなく、名前で呼ぶようになっていた。
 友好ランクが一気に最上級までレベルアップしたみたいで、実にフレンドリーな応対をしてくれる。
「今日はもう遅い。先ほど、哲郎君のお家には使いを出したから、食事を終えたら泊まっていきなさい」
「そうね。それがいいわ。私も勉強を教えてもらえるし」
「勉強するのはいいことだが、きちんと――いや、哲郎君なら、心配ないな」
 勉強だけにしておけと釘を刺すつもりだったのは、哲郎にもすぐわかった。途中で言葉を止めたのも、こちらへの信頼の高さを表している。
 もちろん眠る部屋は別々であり、哲郎も余計な真似をするつもりはない。しかし水町玲子だけでなく、その家族と一緒に夜を過ごせるというのは、なにやらとても幸せな出来事に思えた。

 自宅ではなかったものの、楽しくも美味しい夕食を――というよりはもう夜食だったが、充分に楽しんだ。
 そのあとで水町玲子の部屋で勉強をした。どちらかといえば、雑談するケースが多かったが、数時間前にあのような事件が起きたのだから無理もなかった。
 どうして佐野昭雄を怪しいと気づいたのかなど、質問責めにされていささか疲れたが、英雄になったような気分に高揚感を覚えた。
 得意気になってあれこれ話したりはしなかったものの、心の中では天狗になりかけていた。最大の心配事のひとつが片付いたのも、要因のひとつかもしれない。
 日付が変わる前に恋人の部屋から出て、水町玲子の母親が用意してくれた部屋で布団に入った。
 ひとりで外泊する初めての場所が、恋人の家なのだから、当時の中学生の視点からは、だいぶマセている少年にしか見えないだろう。
 それもこれもすべて、資金持ち逃げ事件を未然に防いで、水町玲子の父親から最大級の信頼を得たおかげだった。
 心を悩ませるような事案もなくなり、久しぶりにゆっくり眠る。枕が変わると眠れないようなタイプではなかったため、他人の家でも熟睡できた。
 そして目覚めた朝。見慣れない天井だったにもかかわらず、哲郎の心は今までにないぐらい晴れやかだった。
 起きて布団を綺麗に片付けたあと、居間へ行くと、すでに水町玲子の母親が忙しそうに動いていた。
 いまだに玲子の両親の名前を知らなかったが、いきなり「お名前を教えてください」というのもなにか変なので、あえて尋ねないでおく。
 水町玲子との交際が順調に続けば、いずれ知る機会も出てくる。焦る必要はなく、これまでどおりに玲子の父親や母親といった判別でいこうと、哲郎はひとり心の中で決める。
「おはようございます」
 哲郎が朝の挨拶をすると、水町玲子の母親もにこやかな笑顔とともに返してくれた。
 それなりに年齢を重ねているものの、年老いた感じはなく、むしろ大人としての魅力を感じさせる。
 さすがに水町玲子の母親だけあって、美貌はかなりのレベルで、佐野昭雄が世話になった社長を裏切ってまで手に入れたがった気持ちも少しは理解できた。
 もっとも哲郎の場合はそんな悪質の手法は使わず、あくまでも正攻法でいく。あまり効率はよくないかもしれないが、愚直なまでの正面突破が相手の心を揺り動かす可能性もある。
「哲郎君は早いのね。玲子なら、まだ眠っているわよ」
 父親は朝早く工場へ行くため、家族揃っての食事は夜しかとれない。だからこそ、夕食の機会を大事にするのだと教えてくれた。
「そうだ。よかったら、哲郎君。玲子を起こしてきてくれないかしら」
「え? いいんですか」
「うふふ。構わないわよ。哲郎君なら、安心して任せられるもの」
 まともに信頼している台詞を言われれば、とても裏切る気持ちにはなれない。確信犯かどうかは不明だが、実に上手い手である。
 とはいえ、そんな念押しをされなくとも、哲郎が卑猥な真似を眠っている恋人の少女へするはずがなかった。
 今は中学生でも、本来は六十をすぎたおじさん――いや。下手をするとお爺さんと呼ばれる年齢だったのだ。
 過去へ戻れた当初は実に戸惑い、小学校や中学校で同じクラスになった女子と会話するのがとても照れ臭かった。
 現在でこそ子供の自分にも慣れてきているが、ここまでになるには数々の心の葛藤と戦ってきた。
 けれどこれも明るい未来を手に入れるためと割り切り、こうして中学生の己を演じている。人生をリセットしても記憶が残っているというのが曲者だったが、逆にそうでなければ人生を何度やり直しても同じルートを辿る確立が高くなる。
 人生を何度でもリセットできるという安心感があるからこそ、哲郎は大胆に本来の自分にはなかった大胆さも発揮できた。多少の気恥ずかしさなど、得られるメリットに比べればデメリットにもならない。
「わかりました。それじゃ、玲子さんを起こしてきますね」
 水町玲子の母親によるリクエストを受け付け、哲郎はここ最近で通いなれた恋人の部屋へ向かった。

 ドアをノックした音が、コンコンと廊下へ響く。哲郎の自宅と違って、水町家はどちらかといえば洋式になっている。
 これだけでもお金持ちなのがわかる。電話もしっかり設置されているし、テレビもある。さすがは経営が順調な工場社長の住居である。
 だが栄華を極めるような生活を送っている水町家の人々も、先日の佐野昭雄による資金持ち逃げ事件に襲われていたら状況が一変していた。
 当人たちは想像もできないだろうが、哲郎だけは夜逃げした先での水町家の悲惨な暮らしぶりを知っている。だからこそ、少しだけ妙な気分にもなる。
 過去を不当に変えていいものか。迷いは現在もまだ抱えている。けれど、今さら懺悔したところで始まらない。哲郎は水町家を救った代わりに、田所六郎や佐野昭雄の人生を狂わせた。
 もとより、ろくでもない人間だったとはいえ、本来とは違う道へ強制的に進まされたのだ。そのことを思えば、多少なりとも罪悪感が芽生える。
 しかしそれを気にしてばかりいては、自らが望むべき人生を作れない。自分勝手と言われようが、哲郎は偶然に手に入れた例のスイッチをフル活用するつもりだった。
「玲子ー? まだ寝ているのか。もう朝だよ」
 ひとつ前の人生で、新聞販売所で同じ部屋に住み込んで一緒に生活していた日々を思い出す。お金はあまりなかったが、確かに幸せの二文字がそこにはあった。
 その時は女房みたいな感じで、水町玲子がよく哲郎を起こしてくれていた。朝食も用意してもらい、籍こそ入れてなかったものの、ほとんど結婚生活も同然だった。
 リセットされた今回の人生では、相手女性にそんな記憶は存在していない。哲郎の夢物語だと笑われて終わりだ。それでも、楽しかった思い出は確かに心の中に収納されていた。
 今回は誰にも邪魔されず、前回以上の幸せを手に入れるんだ。決意を新たにした哲郎は、反応のない水町玲子の部屋のドアを開けた。
 敷かれた布団の上で、毛布にくるまってすやすやと寝息を立てている女性がいた。もちろん、恋人の少女こと水町玲子である。
 中学生にしては割と遅い、深夜近くまで話をしていたりしたため、今朝はうまく起きられなかったのだろう。
 眠っている恋人の少女へ近づき、耳元で「おはよう」と声をかけてみる。
「うう〜ん」
 可愛らしい声とともに、若干の寝返りを打つだけで、目を覚ます気配は一切なかった。
 仕方ないので掛け布団の上から少女の肩に手を置き、睡眠中の身体を揺すってみる。
 物理的な衝撃を加えられれば、さすがに玲子も起きるはずだ。一度、二度と揺らしているうちに、恋人の少女が気だるそうに両目を開けた。
「よ、おはよう」
「ん……おはよう……」
 眠そうな目を手の甲で擦りながら挨拶を返した水町玲子だったが、途中でその動きが緊急停止した。
「て、哲郎君!? ど、どうして? え、あれ……ちょ、ちょっと待って!」
 面白いくらいに取り乱す恋人の少女を眺めながら、哲郎は玲子の母親に起こすのを頼まれたと教える。
「昨日、泊めてもらった恩もあるからね。お手伝いをしないわけにはいかないだろ」
「そ、そうね……そのとおりだわ。じゃ、じゃあ、すぐに起きるから、居間で待っててね」
 寝起き姿をあまり見られたくないのか、頭から毛布をかぶってしまった水町玲子の言葉に従い、哲郎は部屋をあとにする。
 後ろ手でドアを閉めたあと、寝起きの水町玲子を思い出してはこっそりと笑う。今日もいい一日になりそうだ。廊下で一度両手を伸ばしてから、哲郎は恐らく朝食が用意されているであろう居間へ戻ろうと足を動かし始めた。


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