リセット

  40

「なにか変な感じがするね」
 朝食にと作ってもらったおにぎりと味噌汁を食べている最中、恋人の少女が哲郎にそんな言葉をかけてきた。
 哲郎としては何の違和感もなかったため、すぐに頷くことができずに「そう?」と言ってしまった。
「そうだよ。だって、哲郎君が私のお家で、一緒に朝ご飯を食べてるんだよ。嬉しいような……恥ずかしいような……そんな気分にならないかな」
 言われてみれば、相手の気持ちも理解できる。きっと、これが初めての体験であったのなら、哲郎も素直に水町玲子の意見に同調していた。
 しかし前回の人生で、ひと部屋でのいわば同棲を経験しているだけに、改めて緊張などを覚えたりしなかったのである。
 照れたように頬を桃色にしている少女へ、どんな言葉を返そうか悩んでいると、唐突に同じ食卓を囲んでいる水町玲子の母親が口を挟んできた。
「今からそんなに緊張していたら、結婚なんてできないわよ」
 娘と同様に、おしとやかそうな母親からいきなり繰り出された結婚という単語に、思わず口に含んでいた味噌汁を噴き出しそうになる。
 哲郎の隣にいる恋人の少女も動揺しまくっており、挙動不審なぐらいに周囲をきょろきょろし始める。
「お、お母さんったら、朝から何を言ってるの。て、哲郎君だって、困ってるじゃない」
「あら、そうなの。貴方たちの仲があまりに良いので、このまま進んでいくのかと思っていたわ」
 水町玲子の母親が言うこのままの道というのは、清い交際を経て大人になり、成人したところで周囲に祝福されながら結婚する。そんな王道的な人生設計を差しているのだろう。
 哲郎としてもそれが一番だと考えているので、余計な発言はせずに、ただおとなしく状況を見守る。
「そ、それは、その……これからの問題であって、今はあの……だから……」
「じゃあ、玲子は哲郎君と結婚したくないの?」
「そ、その質問はずるいと思う。そ、それより、早く食べないと、学校に遅刻しちゃうよ」
 なんとか現在の話題から逃れようと、必死になって水町玲子が違う会話へもっていこうとする。
 作ってもらった味噌汁を啜りながら、哲郎は不思議なものだと心の中で呟く。実のところ恋人の母親とは、これまであまり会話をした覚えがなかった。
 徐々に水町家との友好は深まっていたものの、どこかよそよそしい感じも残っていた。もっとも基本的には他人なのだから、当然といえば当然だ。この点は父親も同じだった。
 けれど昨夜の一件を哲郎主導で解決してからというもの、明らかにこれまでの態度とは変わっていた。
 一応の恩人というのもあるだろうが、まるで家族の一員みたいな扱いを受けている。表面的にはさほど変わらないような笑顔を見せていても、その種類はこれまでとまったく違う。少なくとも、哲郎はそう感じていた。
 現金なものだと相手家族を批判するつもりはない。むしろ当たり前の反応だ。だからこそ余計に、前夜の計画が上手くいったのを内心で喜んでいた。
 両親の心象がよくなれば、それこそ祝福されての結婚が可能になる。前回の人生みたいに、水町玲子は自分の親についてあれこれと悩む必要はなくなる。
 人間なので多少の問題点はどうしても出てくるが、借金問題で苦しむ両親を見なくても済むのは、恋人の少女にとって大きなプラスだ。とはいえ、相手はなんのことかわからないはずなので、あえて哲郎か何かを教えたりするつもりはなかった。
「玲子が照れてるみたいなので、質問を変えましょう」
「お、お母さんってば……も、もう知らない……」
 顔面を真っ赤にしている水町玲子は、哲郎をチラチラと横目で見てくるくせに、目が合いそうになると慌てて顔を逸らしてしまう。言葉にされなくとも、照れてるというのがそれだけでわかる。
 隣に座っている恋人の仕草を微笑ましく眺めている哲郎に、水町玲子の母親が先ほど娘にしたのと同じ質問をぶつけてきた。
「哲郎君は、玲子と結婚したくないのかしら」

 今度は味噌汁を飲んでいる最中でなかったので、噴き出しそうにならなかった。なにより、こうした種類の質問がくるのではないかと、ある程度の想定はできており、同時に心の準備も完成していた。
 落ち着きを崩さない哲郎に対して、ようやく話題が変わると安堵しかけていた水町玲子は過剰なまでにあたふたしていた。
 あまりにあんまりすぎる動揺ぶりは、まるで喜劇かと言いたくなるぐらい滑稽だったが、当人はそんなつもりは一切ない。水町玲子本人でなくとも、茹で上がった蛸みたいになっている顔色を見れば一目瞭然だった。
 水町玲子が自分の母親へツッコみを入れる前に、哲郎がしれっと質問に対する回答を口にする。
「もちろん、したいと思っていますよ。大好きですから」
 表情を固めて絶句する恋人の隣で、我ながら神経が図太くなったものだと哲郎は実感していた。
 六十余年を過ごした最初の人生では、恋人を作るどころか意中の女性に愛を告げる行為すらできなかった。
 恋愛に対しては常に臆病で受動的。加えて、それほど熱心でもない。そんな人間だった。
 それが人生をリセットできるスイッチを偶然に手に入れたことで激変する。何度もやり直しては様々な問題へ直面するたび、水町玲子を心から愛していると思い知らされた。
 自分にとっての運命の女性なのだと確信し、幸せな未来を手に入れるためにどんな困難が立ち塞がっても決して諦めなかった。
 心が引き裂かれそうな結末も幾度となく見てきた。そのたびに気が狂うかと思った。けれど、絶望の先にはきっと希望があると信じた。
 傍から見れば愚かに映るかもしれないが、哲郎は己の決断が間違ってなかったのを実感している最中だった。
「その答えを聞いて、安心しました。哲郎君はしっかりしているし、お父さんもお母さんも応援するわよ」
「ま、待って。なにか、凄い勢いで勝手に話が進んでるような気がするんだけど」
「あら。玲子は哲郎君と結婚したくないの?」
「そ、そんなことはないわ。私も哲郎君を――じゃなくて、私たちはまだ中学生だし、色々と勉強することも山積みで……そう! そうなのよ。だから、学校へ早く行きましょう」
 思いついたように決断を下し、急いで食事を終えた水町玲子が哲郎の手を引っ張る。
 それを見た水町玲子の母親が「女の子が食事中にはしたないわよ」とたしなめる。
「お、お母さんのせいじゃない。も、もう……っ」
 ひとりからかわれ続ける水町玲子が、耳まで真っ赤にしたまま母親へ抗議の声を上げた。
 自身の狼狽ぶりには充分気づいているのか、水町玲子は一刻も早く哲郎と母親を引き離そうとする。
 二人の会話によって、赤面が酷くなる展開にならないか心配しているのだ。特別な感情を抱いてなければ、ここまでの乱れっぷりを披露するはずもない。きちんとした言葉はなかったが、これでも哲郎は満足していた。
 自分の両親の前で、恋人を好きだと堂々と報告するのは、なかなかに勇気がいる。哲郎が今の水町玲子の立場だったならば、もしかして同じような行動をとったかもしれない。
「ごちそうさまでした」
 味噌汁を飲み干したお椀を食卓の上へ静かに置いてから、哲郎は作ってくれた水町玲子の母親へのお礼にもなる食後の挨拶をした。
 すぐに「お粗末さまでした」と返ってきたので、美味しかったですと言って、使い終えた食器を台所へ下げる。
 哲郎の行動に倣って、水町玲子も自分が使用した食器を手に台所へ向かう。その様子を恋人の母親が微笑ましげに見つめていた。

「お母さんったら、舞い上がりすぎだよね。哲郎君もそう思うでしょう?」
 二人一緒に玄関から送り出され、途中まで並んで歩く。普段は別々にそれぞれの学校へ通っているため、朝からこうして顔を合わせる機会は多くなかった。
 ところが今日に限っては偶然顔を合わせるどころか、同じ家から仲良く出発したのだ。まさに同棲している気分になり、哲郎のテンションも自然に上昇していた。
 もちろん恋人の少女も同じで、普段よりもずっと口数が多くなっている。朝食の席で、母親にからかわれたのも影響しているのだろう。
「舞い上がっていたのかな。俺には、無理して明るく振舞ってたように見えたけどね」
「え……どういうこと?」
「仮にも自分の夫が、心から信頼していた部下に裏切られたんだ。玲子のお母さんも面識はあっただろうし、人となりを知ってるだけにショックは大きいと思うよ」
 哲郎の指摘に、足を動かしながらも、玲子が押し黙った。ひょっとして、すでに気づいていたのだろうか。
 だとしたら、先ほどの指摘は単なる余計なお世話でしかなかった。マズい対応だったかとわずかに後悔が芽生えた頃、隣を歩いている少女が「そうだよね」と呟いた。
「私でも結構ショックを受けているもの。昔から知り合ってるお父さんやお母さんはもっとだよね。もう少し、お話に付き合ってあげればよかったのかな」
「俺と結婚するかどうか?」
「え……!? も、もう。こんな街中でする話ではないでしょう。哲郎君も意地悪なんだから」
 言いながらも、水町玲子はどこか楽しげに笑っている。心が少しだけ軽くなった。恋人の笑顔はそんなふうに言ってるような気がした。
 楽しく会話をしているうちに、お互いの学校へ向かう道が別々になる地点へやってきた。
「じゃあ。また放課後に」
 問題が解決した以上、あとは図書館での待ち合わせでもよかったのだが、今日もまた学校終了後は水町家で一緒に勉強することになっていた。
 頷いた玲子が所属している中学校へ向かおうとして、途中で二本のピタリと止めた。
 背中を見送ろうとしていた哲朗が「どうしたの」と尋ねると、せっかく元どおりになっていた顔色を、再び水町玲子が鮮やかなくらいに紅く染めた。
 ますます何があったのかと心配する哲郎へ、バックで輝いている朝日よりずっと眩しい笑顔を見せてきた。
「私もね、哲郎君としたいと思ってるよ。結婚」
 そう言ったあと、少しだけ照れ臭そうにハニかむ。虚を突かれた哲朗がリアクションをするより早く、水町玲子は再び背中を向けていた。
 なんともいえない余韻だけを残して、あとは振り返りもせずに学校のある方向へ走っていく。哲朗がハッと我に返ったのは、水町玲子の背中が完全に見えなくなってからだった。
 あまりに爽やかすぎる宣言に心を奪われ、柄にもなく道端でポーっとしてしまっていた。
 今さらになって動機がし始め、苦しいくらいに呼吸が荒くなる。最後の最後で食らったもの凄いカウンターで、もはやノックアウト寸前である。
「やられた……今日は、まともに授業を受けられるかな」
 何度も同じ授業を経験しているので、今さら一日や二日内容を聞き逃したところで大きな影響は出ないが、なんとなく心ここにあらずで受けるのは気がひける。
 最初に始業時間までに調子を戻せればいいが、うまくコントロールする自信はなかった。
「まあ、いいか」
 朝らしく明るい町の中で空を見上げながら、哲郎は心の中に溜まった様々な感情をたったひと言にして吐き出した。
 昨日から着っぱなしの学生服を少しだけ整え、自らもまた所属している中学校へ向かうべく足を動かし始めた。


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