リセット

  41

 田所六郎と佐野昭雄の一件をなんとか攻略して以来、哲郎の中学生活は極めて順調に進んでいた。
 収入の良い大企業へ入社し、多額の金銭を得て、窮地に苦しむ初恋の少女を救う必要もなくなったため、様々な面でゆとりが生まれていた。
 クラスメートと会話する機会も増え、ひとりきりで勉強をする生活とはとっくの昔にお別れ済みである。
 それでも、何度も繰り返してきた授業とテストの内容はしっかり記憶されているため、哲郎の成績は常に学年でトップだった。
 教師からの受けは相変わらず良く、近隣の学校にまで名前が知られるぐらいの秀才になっていた。
 わき目もふらずにただひたすら勉強していたのが、ここへきて哲郎の評価を押し上げている。過去をやり直せるスイッチのおかげとはいえ、なんだか変な気分でもあった。
 とはいえ、難しく考えるほどに袋小路へ入り込む問題だけに、深く追求しないように途中で頭の中を切り替える。
 ここから先の未来は、まだ哲朗が一度も経験していない未知の領域になる。平穏な道が続いているだけなら心配は不要だが、資金持ち逃げなんて事件も時には起こったりする。油断は禁物だった。
 田所六郎といえば、あれから姿を見かけていない。水町玲子の父親に聞いても、同じ答えが返ってくる。まだ警察に拘留されているか、もしくは人前に姿を現せない状況になっているのか。詳細は不明だが、厄介事が持ち運ばれなくても済むので喜ばしいことだ。
 資金持ち逃げを決行しようとしたもうひとりの犯人、佐野昭雄は警察に逮捕されて刑の確定を待つ身になっている。しばらくは社会へ戻ってこれないはずだ。仮に帰ってこれたとしても、水町家へは顔を出せるわけがなかった。
 もし来たとしても、全力で追い払われた挙句に、塩をまかれるのがオチである。一時の誘惑に負けてしまったがゆえに、佐野昭雄というひとりの男は己の人生を台無しにしたのだ。
 紛れもない事実ではあるが、同情の余地はまったくなかった。すべては佐野昭雄の自業自得であり、最初から義を重んじて社長――つまりは水町玲子の父親を裏切ろうとしなければ、それなりに満たされた人生を送られていたはずだった。
 それを振り切ってまで、己の欲望に生きるのを決めたのは、他ならぬ佐野昭雄自身である。自らが転落した境遇を苦に、誰かを恨むのは完全に筋違いだ。
 人の振り見て我が振り直せ――。哲郎は心の片隅に、その言葉を置いておく。自分は決して、佐野昭雄みたいにはならない。
 とにもかくにも直近の憂いがなくなったおかげで、哲郎は初めて心から中学校生活を楽しんでいた。唯一の気がかりといえば、恋人の親友の巻原桜子があまり学校へこなくなっていることだ。
 哲朗が水町家へ降りかかった災難を勇者のごとく解決したのを聞きつけ、ついこの間、巻原桜子の方から話しかけてきた。
 その時から欠席が目立つようになっていたので、なにか問題があったのか、おもいって尋ねてみたが、返ってきた答えは「ノー」だった。
 好きで休んでいるだけ。学校では、本当に学びたいことは教えてくれない。そんな言葉を並べて、恋人の親友は笑みを浮かべていた。
 恐らくは学校を無断で休んで、東京などへ遊びに行っているのだろう。なにかよからぬ事態に巻き込まれていないか心配にはなるものの、哲郎にしても己の人生だけで手一杯だったりする。
 最近では会話をする機会も少なくなってきているらしく、水町玲子も友人の身を案じていた。けれど、あくまで巻原桜子の人生。他人があまりしつこく口を出すのも違う気がする。
 哲郎も水町玲子も同じ結論へ達し、とりあえずは巻原桜子を遠目から見守ることに決めていた。

 たまに学校へ来る巻原桜子はどんどん垢抜けていて、よく担任から職員室から呼び出されるようになった。
 クラスの友人たちには「テレビに出るのが夢なんだ」と公言するようになり、休み時間には東京の情報を自ら発信する。
 それほど田舎ではなくとも、決して都会とはいえない。そんな地方に住んでいる中学生にとって、巻原桜子がもたらしてくれる情報は何よりの刺激だった。
 自然と巻原桜子を中心にした輪ができ、その中には少なからず男子生徒も混ざっている。
 極稀に哲郎も話しかけられたりするが、東京の話題なら嫌というほど知っているので、今さら興味も惹かれない。
 自分から知識をひけらかした日には、どうしてそこまで知ってるのかとツッコみが入るのは確実なので、そうしたグループとは距離をとるのが一番だった。
 一時は疎遠になったと思われた貝塚美智子も、最近ではよく巻原桜子と行動を共にするようになっている。
 バッグに詰め込んで持ってきた私服に、休み時間になるとわざわざ着替えて即興のファッションショーを開催したりする。
 そうしてさらに仲間を集めては、休日に揃って東京へ行ったりする。この点は以前とあまり変わらなかったが、頻度はずっと増えているみたいだった。
 途中で親にバレて怒られたり、教師に注意されたりして、途中でグループから抜ける人間が増えても、リーダーになっている巻原桜子は何ひとつ気にしていなかった。
 新しい時代への古い世代の反抗は当たり前で、その程度で挫折する者に用はない。そう言いたげに、冷酷に切り捨てていった。
 最終的に巻原桜子と行動を共にする生徒の数は激減した。代わりに一緒に東京へ行って、輝かしい未来を手に入れるんだという野望を持った人間だけが残った。
 言葉にすれば少数精鋭となるのかもしれないが、指導する立場の教師にすればいい迷惑だった。
 この時代は哲朗が六十を超えていた未来とは違い、体罰にもそれほど厳しくなかった。なので、教師たちは巻原桜子へ徹底的に目をつけた。
 学業に不要な物を持ち込んでるとわかれば容赦なく没収し、体罰もそれとなく加えていた。にもかかわらず、巻原桜子は決して自分の考えを改めなかった。
 最後には教師たちの方が根負けし、三年生になった頃には半ば放置状態になっていた。
 あんな連中に関わっていれば、まともな高校に進学できないぞ。グループに近づく生徒たちを脅し、巻原桜子を孤立化させる作戦を選んだ。
 それが功を奏し、グループは拡大化の様子を見せず、巻原桜子とそれに従うわずか数人だけが学校内で異端児扱いされていた。
 当人たちも別に不満は覚えてないみたいで、むしろ放っておかれるのを心地よく覚えてるみたいだった。
 そんな日常を教えるたび、水町玲子は図書館や自宅の部屋で表情を曇らせた。親友の行く末を案じているのだが、当人へ何かを言ったりすることはなくなっていた。
 親友である水町玲子が生活態度を注意したところで、巻原桜子の反感を買って終わりだったのである。
 自分と水町玲子は生きている世界が違う。そんなわけのわからない発言を繰り返し、自らを大物ぶって見せる。
 何度も人生をやり直しては、大人になっている哲郎には滑稽なだけだったが、現時点でそこらを指摘しても、余計に相手女性を苛立たせて終わるのは明らかだった。
 反抗期というべきか、それとも思春期になるのか。この年齢の少年や少女には、上から目線の叱責などはタブーも同然である。
 加えて巻原桜子の両親は娘に何も言わず、個人の意思を尊重するとかの理由で自由にさせているみたいだった。
 ゆえに「高校には行かない」と巻原桜子が宣言しても、家庭内で紛争などは一切起きなかったらしい。これは哲朗が、恋人の少女から教えてもらった情報だった。

 哲朗が普通の中学生として暮らしていた時代。進学をしない選択をする生徒は珍しくなかった。
 この頃は中卒の労働力が金の卵ともてはやされ、働き口にはさほど困らなかったのである。
 家庭の事情でそうせざるをえない生徒もいれば、一刻も早く自立したいという理由で就職を希望する人間もいた。
 他の皆と同じように通えなくても高校には行きたいと、日中に働いて夜間に通う者も存在する。
 まさしく十人十色。中学校卒業後の進路に関しては、まさに人それぞれだった。
 哲郎はもちろん進学であり、同じ高校を恋人の少女――水町玲子も受験する予定になっている。
 結構な進学校なので、今から入学後のことも考えて一緒に勉強をしている。
 ずっと哲朗が勉強に付き合ってきた成果か、水町玲子の学力は相当に上昇していた。受験する予定の高校にも、問題なく入れるレベルである。
 水町玲子の両親も大いに喜び、家庭教師の役割をすべて哲郎に任せきっていた。
 最初のうちは申し訳なさそうにして、こちらの成績が下がらないか心配していたものの、毎日玲子に勉強を教えていながらも、中学校での学力テストでは常にトップだと知って、最近ではすっかり安心しきっている。
 特例として玲子の門限が過ぎても、水町家内でなら一緒にいるのを許されていた。遅くなったりすれば夕食をご馳走になったり、泊めてもらったりもする。
 それでも間違いひとつ起こさないのだから、水町玲子の両親の哲郎への信頼度は上昇する一方だった。
 逆に自宅へ戻れば、哲郎の母親の機嫌が悪い。水町家へ入り浸り状態になっているのを、あまり好ましく思ってないのだろう。
 だが父親の梶谷哲也が何も注意せずに黙認しているため、母親の小百合も哲郎に注意できないでいた。
 成績が落ちたりすれば話も変わってくるのだろうが、相も変わらず順位は学年トップを維持したままで、総合点数に至っては以前よりも良くなっている。
 やることはしっかりやっているのだから、その他は哲郎の自由にすればいい。それが父親である梶谷哲也の考えみたいだった。
 昔はこのような状況を放任主義だと思ったりしたものだが、今では哲郎を信じて、こちらの自主性に任せてくれる父親をありがたく思っていた。
 おかげで勉強をするのがメインとはいえ、中学生ながら夜遅くまで大好きな女性と一緒にいられる。数々の苦難を経て現在の状況を手に入れた哲郎には、これだけで充分に満足できた。
 あとは現在の幸せを、どうやって維持していくかにかかっている。普通なら、それが一番難しいのだが、哲郎には反則技とも呼べる手段があった。
 見知らぬ老婆を助けた際に受け取ったスイッチ。過去へ戻って人生をリセットできるのはもとより、極限の不幸を浴びても、定められた直近の分岐点へ戻るだけで済む。まさに魔法のアイテムだった。
 苦しんでる他の人々には若干の後ろめたさもあるが、せっかく手に入れたのだからフル活用して、己の幸せを掴むつもりだった。
「まだまだ、これからだ」
 学校帰り。最愛の恋人と待ち合わせしている場所を目指して歩きながら、哲郎は誰にとはなく呟いた。
 ずっと後悔していた告白ができた。そのあとに訪れた最大の危機も乗り越えた。これからもきっとなんとかなる。根拠のない自信を胸に、哲郎は歩き続ける。
「哲郎君ー」
 前方から聞こえてくる耳に心地よい声。顔を上げると、大好きな女の子が元気良く手を振る姿が飛び込んでくる。
 交際を継続しながらも、わずかに残っていたよそよそしさは、田所六郎と佐野昭雄の一件以来、綺麗さっぱりなくなっていた。
 並大抵ではない苦労をさせられたけれど、あれが哲郎と水町玲子の仲を深めるために避けては通れない試練だったのだ。現在ではそう考えるようになっていた。
「ごめん。待たせたかな」
 そう言いながら、哲郎は満面の笑みを浮かべる水町玲子へ駆け寄っていくのだった。


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