リセット

  42

「あった。あったよ、哲郎君」
 笑顔で飛び跳ねながら、感極まって、水町玲子が哲郎の手を握ってくる。
 繰り返す人生の中で何度も経験してきた受験と合格発表。初回を除けば、今回がもっとも緊張した。
 水町玲子が同じ高校を受験した初めての合格発表なのだ。試験を受けた高校の校庭に張り出された紙を前に、たくさんの人間が喜怒哀楽を露にしている。
 そんな中で哲郎は自分の番号があるかなど気にもとめずに、一心不乱になって恋人の少女の受験番号だけを探した。
 ほぼ同時に水町玲子の番号を見つけ、二人で喜べることになった。哲郎のもすぐに見つかり、仲良く揃っての合格を果たした。
「これで、高校からはまた一緒に通えるね」
 そう言って微笑む恋人の少女を見ているだけで、何故だか涙が溢れそうになる。
 まだ高校生という人生の前半部分なのだが、ここへくるまでが異様に長く感じられた。
 紆余曲折を経た末に辿り着いた現在。何気ない日常が、こんなにも幸せだったのかと思い知らされる。
 過去の出来事を回想しながら、感動に打ち震えている哲郎だったが、傍から見れば硬直して小刻みに震えている危ない男にしか映らない。
 案の定、不審がる水町玲子が「どうしたの」と哲郎に声をかけてきた。
「楽しい高校生活になりそうだなと思ってたら、ニヤニヤしそうになったから、一生懸命我慢してたよ。他の人に見られたら、変な人にされかねないからね」
「うふふ。それなら、大丈夫よ。ここには、たくさんの笑顔があるもの」
 水町玲子の言うとおりだった。中には同伴している保護者と、抱き合って喜んでいる人間もいる。
 まさにこの世の春とばかりに嬉しさを爆発させているが、そうした人々を横目に、肩を落としながら去っていく若人たちもいる。
 同じ高校を受験し、失敗した学生たちである。哲郎たちがこうやって喜べるのも、限られた枠内へ入るために、他の受験生を追い落としたからだ。
 受験というシステム自体、競争を目的としているのだから、それが当たり前だったりする。けれど、落ちた人間は犠牲になったも同然で、その上に哲郎たちの幸せがある。
 不幸があるから幸せもある。だとするならば、全員が公平に幸福を得るのは不可能なのか。哲学的な思考を頭の中で展開させながら、哲郎はひとり悩んでみる。
 どうしてこんなことを考えるのかといえば、ふと気になったからだ。哲郎は偶然に老婆より譲渡された特殊なスイッチで、何度も人生をリセットできるようになった。
 そのおかげで何度も人生をやり直しては、不幸へと続いていた道を強引に捻じ曲げた。結果として、哲郎は胸を張って幸せだと宣言できるくらいの現状を手に入れた。
 当初は便利なアイテムを得たぐらいの認識で、自らがスイッチを使う影響についてなど、気にも留めていなかった。
 気にするようになったのは、しょぼくれた姿で警察へ連行されていく佐野昭雄を見てからだった。
 善悪は別にして、哲朗が余計な干渉をしなければ、佐野昭雄は憧れの水町玲子の母親を手に入れてウハウハの人生を送るはずだった。
 田所六郎の支配からは逃れられないかもしれないが、相当に執着していた女性が手に入れば、それだけで満足する可能性が高い。
 一方の玲子の母親も、哲朗が辿ってきた人生のひとつでは、田所六郎の姦計にハマっていかがわしい店で働かされていたりもした。
 極限まで追い込まれて絶望状態になれば、人間の理性は少なからず狂う。夜逃げが露見しないように怯え、隠れて暮らすよりも、夫を裏切ってでも誰かの愛人になったほうがマシだと考える可能性も出てくる。
 さらにそれが夫や娘のためと言われれば、逆に喜んで玲子の母親は我が身を差し出すかもしれない。やり方はとても褒められたものではなくとも、こうして佐野昭雄は横恋慕していた女性を手に入れる。
 その後、どのようにして暮らしたのかは不明だが、女のために恩人を裏切った男なら、極貧生活であってもそれなりの喜びを見出していたに違いなかった。

 哲朗が過去をやり直したことにより、佐野昭雄が進むはずだった道は途中で消失した。代わりに現れたのが、警察の厄介になるという最悪なものだった。
 雇い主を裏切って資金を持ち逃げしようとしたのだから、自業自得には変わりなく、同情の余地はない。けれど、哲朗が幸せになるために、佐野昭雄の人生を台無しにしたのは確かである。
 もっとも今回の場合は救われた人間が多いので、決して哲郎の選択が間違っていたとは思わない。気にしているのは、どのような道を選んでも、過去に起きた出来事を変更する限り、少なからず他の人間に影響がでる点だった。
 哲郎個人の我侭としかいえない理由で、様々な人間の運命をもてあそぶように変えてしまっていいのか。考えるほどに、とてつもなく恐ろしいことをしてるのではないかと怖くなる。
「どうしたの、哲郎君。とても怖い顔をしてるよ」
 ひとり考え事に没頭している哲郎の手を、隣にいた恋人の少女がギュッと握ってきた。
 キラキラと輝く両の瞳は、何か困ったことがあるなら相談してほしいと無言で語っている。
「いや、なんでもないんだ。それより、これからどこか行く? 合格もしたし、少しくらいなら、勉強を休んでも文句は言われないはずだよ」
 あまり思い出したくなかった中学生活や高校生活を再度味わってまで、自分の隣にいてほしいと願った女性。夜に涙で枕を濡らすくらい恋焦がれた顔が、哲郎のすぐ前にある。
 迷いは不安は消えたわけでないけれど、今はこれでいい。無理やりにでも、哲郎は自分を納得させる。
「それも楽しそうだけど、まずは私のお家へ行こう。お母さんが首を長くして、受験の合否を待ってるはずだからね」
「なら、その前に俺の家にも寄っていいかな。一応、お袋にも伝えておきたいしね」
「あ、そうだね。うん、いいよ」
 笑顔のままで、快く水町玲子が頷いてくれる。念願の高校に合格したのがよほど嬉しいのか、いつもよりもずっとテンションが高いように思えた。
 周囲を見ても、自分の番号の存在を発見して叫ぶ学生がいるくらいなので、水町玲子みたいなリアクションをするのが当然なのかもしれない。
 最初の人生でも勉強一筋だった哲郎は、当時は母親の小百合と一緒に合格発表を見に来ていたはずだ。地域内で一番の進学校へ合格した息子を、母親が誇らしげに見つめていたのが思い出される。
 だが今回の人生で、合格発表の場へ共にいるのは恋人の少女――水町玲子だった。自分は一生、女性に縁がない。そう考えていた頃が、遥か昔に思えた。
「それじゃ、まずは哲郎君のお家へ行きましょう」
 強く握ったままの手を、水町玲子が元気よく引っ張る。ほんのちょっと慌て気味に「うわ」と声を上げた哲郎を悪戯っぽく笑っては、ちろっと舌を出す。独特の仕草がとても可愛らしくて、思わず目を細める。
 手を引かれるまま、駆け足になる哲郎は、先ほどまでとわずかに違う周囲の空気に気づいた。
 何かアクシデントでも発生したのかと思いきや、周りにいる合格発表を見に来た面々の視線の大半が、あろうことか自分へ注がれている。
 注目される理由について、深く悩む必要はなかった。こちらを見ている人間のほとんどが男性であり、水町玲子と哲郎を見ては小さなため息をつく。とても羨ましそうに、とても眩しそうに好奇と羨望に満ちた視線を向けてくる。
 まるで女性に縁のない人生を送っていた頃の哲朗が、そこかしこにいるみたいだった。つい先ほどまでリセットした場合に発生する因果関係に頭を悩ませていたはずが、気づけば優越感に浸りながら例のスイッチに心の中で感謝の言葉を並べていた。

「まあ、凄いじゃない。よく頑張ったわね」
 帰宅するなり、側へ寄ってきた母親の梶谷小百合へ、哲郎は無事に志望高校へ受かった事実を教えた。
 すぐに小百合は破顔一笑して、賛辞と労わりの言葉を送ってくれた。いつか見た光景が蘇り、ふと懐かしい気分になる。
 例のスイッチを使いまくってる哲郎だからこそ、何度も受験した。その度に合格し、母親に祝ってもらった。
 夜には哲郎の好物が数多く並び、この日ばかりは梶谷家の主役になる。けれど、初回の人生以外でのお祝い内容を詳しくは覚えていなかった。
 理由は単純明快。高校の合格など、目的へ向かうための単なる手段でしかなく、他に大きな目的があった。
 できる限り高い学歴を経て、有名な企業へ入社し、過去の経験を活かして一刻も早く偉くなる。高収入を得るようになったら、満を持して水町玲子を迎えに行く。
 そればかりが頭の中を支配していたため、他のことはほとんど頭から消え去っていた。そのせいで、何度も哲郎は己の母親を見捨てる選択をした。
 心が張り裂けそうな罪悪感に苛まされながらも、最愛の少女のために走り続けた。いまだかつてないくらい努力したものの、結果は無残のひと言で終わった。
 スイッチを使用するたびに、破滅と絶望にまとわりつかれるような気がして、いっそすべて諦めてしまおうと思った時もあった。
 しかし決して諦めずに、壊れそうな心を抱えて、ここまで走ってきた。今回こそは、心から両親の祝福も受け取れそうだ。
「お祝いに、今晩は哲郎の好きな献立にしましょうか」
 言われてから、哲郎は少しだけ考える。このあとすぐに水町家へ行く予定になっており、向こうでも玲子ともどもお祝いをしてもらえるだろう。
 そうなるとせっかく料理を作ってもらっても、哲郎の分だけ無駄になるケースも出てくる。
「ほら。いつまでも玄関でボーっとしていないで、早く部屋に荷物を置いてらっしゃい」
「いや。このままでいいよ。それに夕食も、あまり気にしないで」
 母親の手間を減らせればと、気を遣ったつもりだったのだが、哲郎の発言の直後に小百合の表情が固まった。
「このあと、すぐに玲子の家へ行くからさ。合格したことだけ、伝えに来ただけなんだ」
 そう言った哲郎の背後から、水町玲子がひょっこりと顔を出す。小百合と目が合うとすぐに頭を下げ、丁寧に挨拶をする。
「お久しぶりです。哲郎君のおかげで、私も同じ高校へ合格できました」
 哲郎と水町玲子が交際してるのは、すでに周知の事実になっている。両家の関係者だけでなく、近所の住民まで知ってる始末だった。
 当然のごとく小百合と玲子も何度か顔を合わせた経験があり、お互いの存在をよく知っている。
「あら、そうなの。それは良かったわね。でも、こんな日まで、水町さんのお宅にご迷惑をおかけするわけにもいかないでしょう。今日は早めに帰っていらっしゃいな」
「あ、いえ。家なら大丈夫です。お父さんもお母さんも、凄く哲郎君のことを気に入っていますから」
 穏やかな笑顔で言葉を返す水町玲子に対して、梶谷小百合にはどこかピリピリした空気が感じられる。
 とはいえ、母親と恋人の少女に敵対する理由は見当たらない。きっと気のせいだろうと判断する。
 この時の哲郎はとにかく水町玲子と一緒にいられる幸せを深く噛み締めており、言葉を変えればずっと浮かれ気味になっていた。
 第一に考えるのは常に水町玲子のことで、それ以外についてはあまり根深く考えないようにしていた。
「そういうわけだから、とりあえず行ってくるよ」
 最後にそう言い残すと、哲郎は水町玲子と一緒に梶谷家から外へ出た。
 この日、珍しく母親の「いってらっしゃい」という声が、家から遠ざかる哲郎の背中へ届いてこなかった。


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