リセット

  47

「アルバイト?」
 哲郎の母親こと梶谷小百合が、眉をひそめる。
 水町家で高校入学のお祝いをしてもらったあと、自宅へ戻った哲郎は小百合へ席上で誘われたアルバイトの話をした。
 いきなり水町家の工場で働くと言われて「あら、そうなの」と返す親はいない。普通はそこまでの前段階を経ていくうちに、事情を知って応援してくれるようになる。
 今回のケースでは母親が知らないところで、勝手に事が進んでいる。良い気分がしなくても、ある意味で当然だった。
 すでに父親の梶谷哲也も勤務している会社から戻っているので、承諾を得るために事情を説明しにいこうと考えていた。
 けれどその前に小百合が哲也を居間へ呼び、哲郎からされたばかりの話を伝え始めた。一体どうなるのかとドキドキしてると、説明を聞き終えた父親がこちらを向いた。
「お前の意思で、働きたいと思ったのか」
 父親の問いかけに、迷わず哲郎は「そうだ」と頷く。すると、意外にもあっさりアルバイトの許可をくれた。
 いまいち納得していなかった母親は何か言いたそうだったが、一家の主が承諾した以上、あれこれ言えずに口を閉じている。
 なにはともあれ、哲郎が水町家の工場で働くのに支障はなくなった。恋人の少女も喜んでくれるだろうと思えば、心も躍る。
 だがその一方で、高校生である事実を忘れるわけにはいかない。いつの時代も学生の本分は勉強である。成績を急激に落とすようなことがあれば、即座に哲郎はアルバイトを止めろと言われるはずだった。
 文武両道とは少しニュアンスが違うものの、文学と仕事を見事に両立してみせる必要があった。
 とはいえ昼間に本格的に仕事をして、夜に学校へ通う生徒たちとは基本的に違う。放課後の数時間程度を工場で過ごすだけなので、それほどの苦労を強いられる可能性は低い。
 普通の高校生なら初めての仕事に戸惑い、授業中には疲れて居眠りする場合もあるかもしれない。しかしこと哲郎に限っていえば、すでに正社員として社会を経験している。
 工場での勤務経験はなくとも、働くという行為がどういうものかは身をもって知っている。これは同世代の他の人間と比べて、ずっと有利な点だった。
 他者より有利な点が多いからといって、必ずしも幸せになれるわけではない。それは哲郎自身が人生を繰り返し、実感していた。
 就寝するために居間を退出する父親を見届けてから、母親の小百合は「充分に気をつけなさいよ」と心配そうに忠告してくれた。
 子供の身を案じるのは親として当たり前なため、邪険にはせず、素直に受け入れてお礼の言葉を返す。そうしてるうちに、ようやく小百合も哲郎のアルバイトに納得してくれた。
 高校へ入学したその日に、アルバイトを決めてきたのだ。本来なら、もっと揉めてもおかしくはなかった。そういう意味では、哲郎の家庭環境は他と比べても恵まれてるといえた。
 両親への感謝を忘れないようにしつつ、すでに夜も遅くなってきていたので、哲郎は自室へ戻った。
 ドアを閉めて勉強机に向かうと、引き出しから例のスイッチを取り出した。机の上に乗せて、マジマジと観察する。
 何十回。いや、何百回とこのスイッチの仕組みを解明しようと試みた。けれど考えれば考えるほどに、袋小路へ迷い込む。もはやオーパーツとでも称するしかない類の道具だった。
 壮大に考えれば、果たして人の子が使ってもよいものなのかと不安になる。しかしせっかくあるのだから、使わなければ損になる。このように思うのは、やはり哲朗が人間だからだろう。
 欲深いと言われようが哲郎には、水町玲子という女性の存在を諦められなかったのである。

 翌日の学校では、哲郎と玲子の関係がこれ以上ないくらい噂になっていた。同じ中学校へ通っていた学生まで、質問責めを受けているみたいだった。
 どうせ恋人関係は露見しているのだからと、哲郎と水町玲子は途中で待ち合わせて、仲良く一緒に登校していた。
 昨日は手を繋いで下校しているところを、大多数の人間に目撃されている。今さら隠す必要などなかったのである。
 遠巻きに「噂って本当だったんだ」という名前も知らない女学生の呟きが聞こえてくる。信じられないといった響くを含む物言いにカチンとして、本当で悪いかと言い返しそうになる。
 もちろん、実際にそんな真似をしたりしない。過去へ戻れるスイッチがなければ、好きな女性にも告白できないような臆病者なのだ。面と向かって、他人に文句を言えるはずがなかった。
 例外があるとすれば、頭に血が上っている時ぐらいだろう。カッカしていればさすがの哲郎も、怒りで恐怖を忘れる。田所六郎なんかとやりあったのが、いい例だった。
 校内へ入って廊下を歩きながらも、哲郎たちは手を繋いだままだった。この時代では極めて珍しい光景だが、未来では確実にバカップルと呼ばれている状態だ。
 まさか自分がこのような状況になるとは、ひとり寂しく六十余年を過ごしていた頃には考えられなかった。
「本当に仲が良いんだね」
 教室へ入るなり、女性のクラスメートが水町玲子へ声をかけた。この時点でようやく手を離し、哲郎たちはそれぞれの席に荷物を置く。
 入学前に用意していた教科書を机の中に入れ、授業の準備を整える。あとは担任教師を待つだけだったが、時間に余裕を持って登校していたので、しばらくは自由に行動できる。
 もっと見目麗しい最愛の女性の周囲には、早くも人だかりができている。邪魔するのも悪いと考え、哲郎はひとり廊下に出て、窓からボーっと校庭の様子を眺めてみる。
 緑豊かな敷地内。広大なグラウンドの中央で、朝から元気に複数の生徒たちが走り回っている。部活動の朝練かどうかは不明だが、ご苦労なことだった。
 肉体派でない哲郎は、今回も身体を動かす必要のない文科系の部活へ入るつもりだった。本当はどこにも所属したくないのだが、大体の学校では部活が必須なので選ばざるをえないのである。
 水町玲子を救えなかった人生では、部活でも堂々と勉強できるものを適当に選んだ。けれど今回は少しばかり事情が違う。恋人の意見も取り入れ、できるなら同じところへ所属するつもりだった。
 恋人は哲郎と違い、小学校の頃から運動が得意だった。中学生になると、様々な運動部から勧誘を受けたみたいだが、結局は手芸部に所属した。これは本人から聞いた話だ。
 放課後に哲郎と会う時間を確保するためだったかどうかはわからないが、去年の冬には手編みの手袋をプレゼントしてもらった。
 当人は三年間やってみたけど、編み物はあまり上達しなかったと照れ笑いを浮かべていたが、哲郎には何よりのプレゼントだった。春になり気温が上昇してきたからは、部屋の棚に大切に飾ってある。
「おい。確かお前……梶谷だったな」
 中学生活の思い出に浸っていると、廊下でひとりの屈強な大人に声をかけられた。上は白いタンクトップで下はジャージ。見るからに、教育指導ですと外見で表明していた。
 以前の人生でも同じ高校に通っていた哲郎は、目の前に現れた教師を知っていた。男子、女子を分け隔てなく指導するため、周囲からは女好きなんて批評もあったりした。
 しかしその実はセクハラ教師などではなく、情に厚く面倒見が良い男性なのである。ともすれば虐められやすそうな哲郎を、勉強を頑張ってるからという理由で卒業まで守ってくれたのが、他ならぬこの教員だった。
 野球部の監督もしており、在校生からも恐れられてるがゆえに、面と向かって反抗する人間はおらず、学校内は平和が保たれている。
 けれど哲郎は知っている。当人はそんな状況を、ほんの少しばかり物足りなく思っているのだ。実際に過去の人生で、本人から教えてもらったので間違いなかった。

 まだ名前も知らないはずなのに、いきなり名字を呼ばれた哲郎は男性教師に指導室へ連れ込まれた。中央に机があり、備えつけられている椅子へ座るように言われる。
 内容も知らないままに拒否しても仕方ないので、とりあえずは話だけでも聞こうと、相手の指示へ素直に従った。
「もうすぐホームルームが始まるだろうから、手短に済ませるぞ。お前、校内で不純異性交遊をしてるというのは本当か」
 未来ならともかく、哲朗が現在存在している時代では、おおっぴらに交際を宣言する学生は珍しかった。
 学生の本文は勉強であり、色恋沙汰がしたいのなら卒業してからにしろ。他には、健全な精神は健全な肉体に宿るなどと言われて、好きでもない筋肉トレーニングを強要されたりする。
 数十年後には体罰と問題になっても、この時代では当たり前の指導なのである。もっとも、だからといって男子も女子も超奥手だったわけではない。皆、隠れて交際をしていた。
 ある程度は教師も黙認していたが、県内有数の進学校であるがゆえに、あまり堂々とイチャイチャされて、他の学生に影響が出ては困る。これが相手教師の本音のはずだった。
 風紀がだらけて、進学率が落ちれば、保護者に何を言われるかわからない。あげくの果てには、それらが原因で寄付金の額が激減する可能性もある。そうすると、高校としてはかなりの痛手だった。
 すでに多数の目撃者が存在する以上、誤魔化そうとしても、男らしくないと相手の怒りを買うだけである。繰り返してきた人生において、何度となく対峙している教師だけにある程度の正確は理解していた。
「交際しているのは事実です。けれど、不純だとは思っていません」
 大きな声を出すのは苦手だが、あえて頑張って普段より音量を上げて相手の質問に応じる。
 なよなよとした小さな声を出した日には、これまた男らしく腹に力を入れろと、余計な叱責を招くだけだった。
 当初は面倒に感じたものだが、傾向さえ出揃ってしまえば、対策はいくらでも可能になる。むしろ、思考が単純な分だけ、何を考えてるかわからない人間よりは組し易かった。
「堂々と認めたのは立派だが、お前は高校生になったばかりだろう。そんなことで、勉強についていけると思っているのか」
「はい。大丈夫です。学年でもトップクラスの成績を収めてみせます」
 怒気を込めた相手の言葉や視線を正面から受け止め、何事もなかったかのように挑発的な言葉を返した。
 こういったケースでは、少しでも下がったり、弱味を見せたら途端に不利になる。数々の修羅場を切り抜けてきた経験が、哲郎の本能に緊迫した場面での対応を嫌というくらい学習させていた。
「たいした自信だな。では、できなかった場合はどうする」
「退学でも構いません。それくらいの自信がなければ、あんなに堂々とした真似はしません」
 相手が普通の教師なら、ここまで言われれば「屁理屈を言うな!」と声を荒げる。哲朗が逆の立場だったとしても、そのような対応をする可能性が高かった。
 だが目の前にいる屈強な三十代の男性教諭は違う。体育会系の人間らしく豪快に笑い、哲郎の肩をバンバンと叩いてきた。
「俺を前にして、そこまで言えるのはたいしたもんだ。お前の度胸に免じて、その勝負に乗ってやろう。近々行なわれる新入生の実力を見る歓迎テストで、学年で十位以内に入ったら、今回の件はお咎めなしだ。だが、できなかったら、わかってるな」
「もちろんです。約束は守ります。俺も男ですから」
「ハッハッハ! ますます気に入った。いいだろう。お前がこの勝負に勝ったら、俺が味方になってやる。それでいいな」
「ありがとうございます」
 こうして哲郎は、近々行なわれる予定らしい学力テストにして、教育指導担当の男性教師と勝負をすることになった。


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