リセット

  48

 呼び出された理由と、指導室で交わされた約束の内容を知った水町玲子は、当たり前のように哲郎を心配した。
 近々、アルバイトもし、一応は部活動にも所属する。その中で、いきなり学年でトップレベルの成績を収めるなんて至難の業である。
 もちろん哲郎も、高すぎる難度を十分に理解している。だが、風紀を指導する男性との勝負には勝つ自信があった。
 今を生きているだけの水町玲子は知らなくて当然だが、哲郎はこれからの授業で行なわれる内容を知っている。おぼろげではあるものの、テストの問題についても同様だ。
 教科書を見て復習したりすれば、当時の記憶も蘇るはずだ。つまり哲郎は、他の人間では獲得しえないアドバンテージを最初から所持していることになる。
 従来は人並みでしかなかった頭の出来も、人生を繰り返すうちにエリートレベルにまで達していた。様々な知識や経験を得ている現在なら、狙えば官僚への道も歩めそうだった。
 しかし哲郎にそんな野望はない。あるとすれば、水町玲子との幸せな人生だけなのだ。まずはその第一歩として、明るくバラ色な高校生活を送るつもりでいる。
 ささやかな願望を叶えるためには教育指導の男性教諭との対立は避けられず、いつかは必ずこういう事態が発生していた。ならば、少しでも早いうちに片をつけるべきだ。
 朝のホームルームでは、担任教師から数日後に抜き打ちで実力テストを行なう旨だけが通告された。範囲も教科も明らかにされず、生徒たちの間には動揺が広がった。
 とはいえ、高い倍率を勝ち抜き、県内有数の進学校へ合格したエリートたち。すぐに気を取り直し、これから始まる授業へ向けて集中力を高めている。
 入学式の翌日ともなれば、前日みたいなお気楽な雰囲気はほとんどなくなっていた。ホームルーム後、いよいよ本格的な授業がスタートするのもあり、誰もが緊張の面持ちをしている。
 進学校へ最初に入学した時、自分も確かこうだったなと、哲郎は少しだけ懐かしい気分になる。
 恋人の少女も全身から緊張感を放出している中、哲郎ひとりがリラックスしきった状態で授業を受ける。
 ホームルーム後、最初の科目は数学で、担当の痩せた男性教師が教室へ入ってきた。針金みたいに細長い体型をしており、七三にびしっと分けた髪型が特徴的だ。
 インテリっぽい眼鏡をかけており、どことなく神経質な印象を受ける。一見すると物腰は柔らかだが、実際の性格はそうでないのを哲郎だけはすでに知っている。
 陰湿な面を持ち合わせている教員で、ちまちまとしたねちっこい嫌がらせなんかを仕掛けたりする。なので学生からの人気は、とことんなかった。
 けれど知識だけは一流であり、教え方もそれなりに上手だったりする。だからこそ、生徒の評判が悪くとも学校側は手放せないのだろう。
 そんな男性教師の耳にも、哲郎と水町玲子の一件は耳に入ってるみたいだった。しかも教育指導とのやりとりも知っているのか、やけにこちらをちらちら見てくる。
「では、梶谷君。この問題を黒板の前まで来て、解いていただけますかな」
 教科書を使用した授業は明日からという名目で、今日は挨拶代わりの簡単な問題を生徒たちに解かせていく内容に変わっていた。
 確かに中学時代に習った公式の応用みたいな問題ばかりで、他の面々は何事もなく黒板に答えを書き込んで「正解」のふた言を貰っていた。
 状況が一変したのは、哲郎に解答の順番が回ってきた時だった。明らかに、クラスメートたちとは問題のレベルが違っていた。
 哲郎の記憶が確かであれば、数学教師が出題したのは大学になってから習う問題だった。普通に高校まで進学してきた生徒には、解けるはずがない。
 どうやら哲郎に恥をかかせた上で、教育指導とのやりとりも公表して、クラスでの立場を限りなく悪いものにしようと考えているのだろう。
 目立ちすぎたがために、出る杭は打たれるパターンで嫌がらせを受けているのか。それとも水町玲子という美少女と、哲朗が交際している事実を許容できないのか。どちらにしろ、数学教師に気に入られてないのだけは確かだった。

 教室中がザワめきに包まれる中、恋人の少女が心配そうにこちらを見つめている。さすがにやりすぎだなんて声も聞こえるが、数学を担当する男性教師は一切取り合おうとしない。
「静かにしてください。梶谷君が、集中して問題を解けなくなります」
 途中で「冗談ですよ」と笑いながら、問題を訂正するつもりがないのがこの台詞で判明する。どうあっても、哲郎の立場を惨めなものにしたいらしい。だが、相手の狙いは盛大な失敗に終わる。
 これが最初の人生であったなら、お手上げ状態で相手教師の狙いどおりの展開になっただろう。哲郎は数学教師に頭が上がらなくなり、でかい口を叩くだけの男と酷評される。
 惨めな高校生活の中で自信を失い、情けなくなる一方の彼氏に愛想を尽かして恋人の少女も側から去っていく。堕落した男はいらないと、水町家でのアルバイトも解雇され、夢にまで思い描いた人生設計は脆くも崩れ去る。
 想像するだけで胸が痛くなるが、現在の哲郎は相手の仕掛けた罠に屈するだけの存在ではない。何回もやり直してきた人生の中で、きっちりと大学も卒業している。
 真面目に勉強していたおかげで知識も頭の中に残っており、それは人生をやり直している最中の現在でも意地されていた。つまり哲郎にとって、大学で習うはずの問題は難解になりえなかった。
 目で恋人の少女に大丈夫だと合図して、席からスっと立ち上がる。あまりに自信満々なため、逆に哲郎へ視線が集中する。嫌がらせを仕掛けてきた担当教師の余裕も、おかげで少しだけ崩れた。
 わざと靴音を鳴らしながら黒板の前まで進み出ると、チョークを手にして答えを書きんでいく。黒板にチョークがぶつかる音が小気味よく教室内へ響き、場にいる生徒たちからザワめきを奪う。
 誰もが哲郎の書く答えに注目しており、陰険な男性教師でさえも目が離せなくなっている。自身が黒板へ提示した大学生レベルの問題が、高校生になったばかりの人間にすらすらと解かれている。
 途中で相手の男性教師は気づいたはずだ。果たして、どちらが恥をかかされる結果になるのか。けれど、今さら「問題を解く必要はない」と哲郎のチョークを持つ手の動きを制止させられない。
 別に喧嘩を売る相手を間違えたわけではない。いかに予習好きな学生であっても、高校へ入学してすぐに大学の勉強をしているはずがない。しかも、数学教師による問題は大学三年生くらいのレベルだ。
 公式を含む答えをすべて黒板へ書き終えたあとで、哲郎は「どうですか」と数学教師へ答え合わせを求める。本当は聞くまでもなかったが、学生たちの前で敗北を宣言してもらう必要があった。
 次も余計な嫌がらせを仕掛けてきても、充分に跳ね返す。今回の一件は、哲郎からの強烈なメッセージになったはずだった。
「せ、正解……です。よく……勉強していますね」
「ありがとうございます」
 徹底して相手に立場をなくさせたいのであれば、ここで問題が大学生レベルだったと明言すればいい。それだけで哲郎はクラスの関係者に称賛され、数学を担当する教師は軽蔑される。
 相手教師もその点は重々承知しているはずで、哲朗が何を言い出すかとビクビクしてるようにも思える。だが、こちらからは何もしない。あえて、かろうじてながらも指導者としての尊厳を残させる。
 言葉にしてこそないが、これで黒板前で背中を小さくしている男性教師は哲郎に借りを作ったことになる。不本意であろうと、それが事実だった。
 このあと、席へ戻った哲郎に対して、数学教師が無謀な問題の解答を求めてくることはなかった。

 どうして水町玲子ほどの美少女が、哲郎みたいな冴えない男性と交際しているのか。高校の七不思議のひとつみたいに囁かれていた噂が、数学の時間を境にピタリと止んだ。
 誰かが数学の時間の問題を調べたらしく、大学レベルの難問を苦もなく解いた男性として、哲郎にも称賛と尊敬の視線が注がれるようになった。
 せっかく作ったと思っていた貸しが、いともあっさり役に立たなくなったが、別に有意義な返済方法が頭にあったわけでもないので、まあ、いいかという軽い感じで諦める。
 彼氏の哲朗が褒められまくってる現状に、恋人の水町玲子も悪い気はしていないだろう。そう思ってばかりいたが、最愛の少女の表情は若干だけど曇っている。
 あとで理由をこっそり聞いてみたところ、哲朗があまりに称賛されすぎて、他の女子の間で人気が出るのではないかと不安になったみたいだった。
 自分には水町玲子だけを繰り返し説明し、相手女性も安心するようになったとある日。いよいよ運命の抜き打ちテストの日が訪れた。
 いつ行なわれてもいいように、水町玲子の父親に事情を説明して、アルバイトに入るのをひとまず待ってもらっていた。
 恋人の少女も悪い点数は取りたくないという思いで、放課後になれば図書館などで一緒に勉強をした。その成果を試す時でもある。
 緊張気味の水町玲子に対して、やはり哲郎は通常と変わらない精神状態でテストに望んでいた。詳しい日程までは覚えていなかったが、実際に以前の人生で哲郎は抜き打ちのテストを経験している。
 本来ならいないはずの恋人がいたり、数学教師とのやりとりがあったりで、知っている過去とはだいぶ違っているのが不安の種ではあったが、想定していた日程付近で抜き打ちテストが実施された。
 それが今日である。ほとんどが中学時代に習ったところをベースにしたものだとわかっていたので、水町玲子との勉強も予習より復習を中心に行なってきた。
 抜かりはないと自分の中で気合を入れてから、哲郎は抜き打ちの実力テストへ挑む。不安要素があったものの、テストの内容や科目は記憶にあるのとほぼ同じだった。
 一教科につき四十分で、合計五教科のテストが行なわれた。文学、科学、数学、英語、社会の五つである。自己採点では充分にできたが、結果は答案用紙が返ってくるまでわからない。
 朝からテスト漬けの午前中が終わったあとの昼休み。教室の中で、哲郎は水町玲子と一緒に昼食をとっていた。
 基本的には二人で机をつけて食べるのだが、いつの頃からか周りに結構たくさんのクラスメートが集まるようになっていた。
 おかげでクラス全体で昼食をとっているような雰囲気になり、学年で一番仲の良い学級と評判になっている。目立った不良もでていないため、教師たちの間でも優秀なクラスだと評価されていた。
 高校にはパンなどを売っている購買もあるので、そこで購入している学生も多かった。県内有数の進学校へ通えるだけあって、生徒たちは比較的裕福な生まれの者がほとんどだった。
 もっとも、中には家は貧乏ながらも、己の学力で奨学金制度を適用されて通っている生徒もいる。そうした人間は休み時間を熱心に勉強し、将来は必ず人の上に立って、お金を稼ぐんだという野望に燃えている。
 以前の人生では、どちらかといえば哲郎もそのような類の人間に見られていた。しかし今は違う。周囲には笑顔が溢れ、他愛もない会話が交わされている。
 だが仲良くなりすぎるのは禁物だ。中学生時代に一度経験した悲劇がトラウマみたいになっており、ある一定のラインからは相手へ近づこうとしない。そうすれば、哲郎以外の誰かに奪われる心配もなくなる。
 目の前で美味しそうに母親の作ってくれたお弁当を頬張っている恋人を眺めながら、哲郎はそんなことを考えていた。


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