リセット

  49

「では、これからテストの答案用紙を返します」
 その日の放課後にはすでに採点が終了し、提出していた答案用紙が返ってきた。教室内の生徒たちの様子は悲喜こもごもで、それぞれの得点が素直に表情へ現れている。
 水町玲子も緊張しながら教卓まで行って答案を受け取っていたが、自分の席で点数を確認するなり、にっこりと微笑んだ。どうやら結構な成績を収めたみたいである。
 出席番号順に呼ばれて、全教科の答案用紙を返されるので、水町玲子の前に哲郎はすでに自分のを受け取っている。結果は自己採点どおりだった。
 名前が書かれている横に数字の百が記入された答案が、五枚ほど哲郎の机の上に並んでいる。誰にも教えていないが、完璧な出来である。
 全員に答案が渡ったところで、担任教師が「テストで上位だった者は、廊下に名前が張り出されているはずですよ」と、哲郎以外のクラスメートには衝撃的な発言をした。
 哲郎ひとりがとりたてて驚かなかったのは、今回に限らず、この学校ではテストのたびに成績上位者を紹介するのを知っていたからである。
 帰りのホームルームが終わり、退室が認められると、学級にいた生徒たちは我先にと廊下へ飛び出した。
 水町玲子もすぐに哲郎の側へやってきて、廊下へ上位者の名前を見に行こうと誘ってきた。断る理由もないので、一緒に教室を出る。
 人だかりができていたので、廊下のどこへ張り出されているのかはすぐにわかった。哲朗がゆっくりその場へ近づいているのがわかると、周囲の人間が歓声を上げた。
 隣を歩いている水町玲子が吃驚している中、次から次に哲郎へ賛辞の言葉があちこちから飛んでくる。
 廊下の上側に張り出された大きな白い紙。墨で書かれた順位表をよく見れば、一番右の一位の下に梶谷哲郎という名前が記入されていた。
 学年だけでも大体五百人程度はいるが、その中の成績上位五十人が名前と点数を張り出されている。哲郎のあとにも名前は続いているものの、誰もが一位の点数に目を奪われていた。
 五百点――。哲郎の名前の下には、確かにそう書かれている。今回のテストは五教科だったのを考えれば、各テストで何点とったのかなんて、計算をする必要もなかった。
 満点かよ……。誰かの呟きが、どこからか哲郎の耳にまで届いてくる。だからといって、別に優越感へ浸ったりはしない。そもそもハンデをもらってるような状況下で、誰かと勝負しようなんて気になれるはずもないのだ。
 二位以下には結構な点差がついており、哲朗が単独でトップだった。自分のことのようにはしゃいでる水町玲子を見てると、なんだか微笑ましく思えてくる。
 最愛の恋人と喜びを分かち合おうとしたところで、背後から哲郎は誰かに呼ばれた。野太い声だったので、振り向く前に相手が男性だと判明する。
 立っていたのは教育指導の男性教諭で、相変わらず肉体のマッチョさを誇示するかのごとく、白いタンクトップを着用していた。
 だいぶ暖かくなってきたとはいえ、季節はまだ春になったばかり。四月の風は、長袖を着ていても若干の肌寒さを覚える。
 それなのにタンクトップ一枚で平然としているのだから、一般の人間とは肉体の構造が少し異なっているのだろう。
「勝負はお前の勝ちだな。たいした奴だ。しかし、あまりおおっぴらにはしてくれるなよ。擁護する俺が大変になる」
 それだけ言うと男性教諭はニヤリとして、哲郎の前から去っていった。相手が高校生であろうとも、きちっと男の約束を守ろうとしてくれるのは実に潔かった。その点だけは尊敬できる。
 もっとも、そういう性格の教師だとわかっていたからこそ、あえて指導室で挑発的な勝負を持ちかけたのである。今回は最上の結果を得たが、次も同じような展開なるとは限らない。
 調子に乗るなと一喝される可能性が高いので、再び学力テストの順位などで賭けを持ちかけるのは止めるべきだ。水町玲子との件はこれで解決になるので、哲郎はそうした思いを一層強くする。

 他のクラスの人間にまで褒め称えられるのが妙に気恥ずかしく、足早に哲郎は下校していた。もちろん、恋人の少女も一緒である。
「ねえ、哲郎君。先生が言っていた勝負って、一体何の話?」
 恋人が言っているのは、教育指導の男性教諭とのやりとりである、哲郎の隣にいただけあり、騒がしかった現場でも、しっかりと相手男性の言葉が聞こえていたのだ。
 抜き打ちの実力テストはすでに終了したし、物事は無事に解決している。今さら隠し立てする必要もないと考え、哲郎はこれまでの一件をすべて水町玲子へ教えた。
「そんなことがあったのね。ごめんなさい。私のせいで、哲郎君に余計な迷惑をかけてしまったね」
 珍しくシュンする恋人を慰めるために、あえて明るい声で哲郎は「大丈夫だよ」と応じる。
「抜き打ちだったとしても、上位に入る自信はあったし、何より、俺も学校で玲子と仲良くしていたかったからね」
 そう言うと、暗かった相手少女の表情が即座にパッと輝いた。心から嬉しそうにしており、これまた珍しく水町玲子から哲郎の手を握ってきた。
「本当に哲郎君って頼りになるね。私なんて、せっかく勉強を教えてもらっていたのに、結局、五十位以内にも入れなかったもの」
 そうは言うものの、水町玲子の総合得点は、平均で八十点を超える合計四百十二点だった。この成績でも五十位以内に入られないのだから、さすがに県内有数の進学校である。
「それだけ点数を取れていれば充分だよ。玲子は飲み込みも早いから、きっとすぐに上位の仲間入りができるはずさ」
「哲郎君にそう言ってもらえると、自信になるな。ね、今日も私のお家に寄っていってくれるんでしょう」
 校則で帰宅時の買い食い等は禁止されているため、下手に寄り道をするわけにもいかない。市外を見回っている教師に目撃されたら、それこそ大変な事態になる。
 とはいうものの、そこまで厳しくしているのは、あくまで進学校の名前を汚す行為を、生徒たちにさせないようにするためだ。誰かの家で保護者同伴で勉強していたとなれば、さすがに強いお咎めは受けないはずだった。
「そうだね。アルバイトの件もあるし、お邪魔させてもらおうかな」
 抜き打ちの実力テストの一件で、待ったをかけていたが、そろそろアルバイトも始めたいと考えていた。
 水町玲子の父親も願っており、一緒に夕飯の席を囲んだ際には、それとなく催促されたくらいだった。
 思えば最近はあまり自宅で夕飯を食べていないが、もう高校生にもなったのだからと、予想外に父親の梶谷哲也が母親の小百合をなだめていてくれるみたいだった。
 最初の人生ではあまり好意を抱いてなかった父親が、幾度も過去をやり直すたびに頼りがいが出てくる。普段は寡黙なだけで、心の中ではしっかりと哲郎のことを考えてくれているのだ。
 父親という存在に改めて感謝しつつも、哲郎は玲子と一緒に水町家へ到着する。いつものように「お邪魔します」と言いながら玄関で、脱いだ靴をきちんと揃える。
 そのあとで一度工場の事務所へ顔を出し、水町玲子の両親へ挨拶をする。当初は緊張したものだが、今では日課みたいになっていた。
「あら、哲郎君。いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
 玲子の父親は工場へ出ているらしく、事務所に残っていた母親が笑顔でそう言ってくれた。
 お礼を言ったあとで、哲郎は玲子の部屋へ向かう。すっかり見慣れた景色の中で二人並んで床へ座り、勉強をしながら雑談などに花を咲かせる。
 未来と違って学生の遊び場が少ないだけに、こうしてお喋りをするのが最近では一番の楽しみになっていた。

 この日の夕飯時に、哲朗がアルバイトをしたい旨を告げると、水町玲子の父親はおおいに喜んだ。
「ようやくテストも終わったみたいだね。玲子から聞いたんだが、哲郎君は全教科で満点だったそうじゃないか」
「私も聞きました。凄いわね、哲郎君。でも、玲子の点数を、まだ教えてもらってないのは何故かしら」
 横目で愛娘をチラリと見はしたものの、怒ってる様子はない。どちらかといえば、からかってるような感じだった。
 母親の指摘にギクリとしながらも、恋人の少女は若干焦りながら反論する。
「哲郎君には全然敵わなかったけれど、私だって四百十二点も取ってます。上位五十人の中には入られなかったけれど……まだまだこれからなの」
 進学校ともなれば、各中学から優秀な人間ばかりが集まってくる。その中でトップクラスの成績を獲得するのは至難の業だった。
 哲郎だって最初から、成績上位者の常連だったわけではない。必死に勉強し続けて、三年生になった頃にようやく五十人の中に名前が載るようになった。
 高校や大学を繰り返し卒業しているうちに学力はどんどん上昇し、現在の哲郎の知識を形成している。
 水町玲子を救うために偉くなろうとした人生では、それこそ寝る間を惜しんで勉強した。あまりに机へ向かいすぎて、血尿が出るのではないかと危惧したくらいだ。
 過去をやり直すという裏技を使用できる状況でこそあるが、ここまでの道は決して平坦ではなかった。充分に苦労しているからこそ、称賛も喜びもある。
「玲子も充分、凄いじゃないか。これも、哲郎君に勉強を見てもらっているおかげだな」
「いいえ。僕はそんなにたいしたことはしてません。全部、玲子さんの実力ですよ」
 恋人の父親の言葉に謙遜しつつも、内心で浮かれないように哲郎は自分の気を引き締める。
 人生というのは、途中で何が起こるかわからない。これまでに哲朗が、嫌というくらいに経験してきた。
「本当に哲郎君はよくできた子供だね。親御さんが羨ましい」
「あら。それは、私では物足りないということですか」
「玲子は私の自慢の娘だよ。なんといっても、男を見る目が凄いからな」
「褒められている気がしませんけど、褒め言葉として受け取っておきます」
 男尊女卑の名残があるこの時代。家族間であっても、このように父と娘が気軽に冗談を言い合うのは、それなりに珍しくもあった。
 仲が良い証拠であり、思わず微笑まずにはいられないホームドラマの一ページのようにも思える。ふと、哲郎は奇妙な懐かしさを感じた。
 不幸になる一方だけだった恋人を救うために行動し、迷惑はかけても親孝行などは一切してこなかった。
 過去の人生の記憶が他者にあるわけではないので、謝っても通じないし、気にしているようなこともないだろう。それでも、一抹の心苦しさを覚える。
「哲郎君。どうかしたの」
「いや……何でもないよ」
 これからは自分も、少しは両親を大切にしよう。心の中で決意をしながらも、水町家の面々を白けさせるのは失礼だと、哲郎は再び会話を楽しむ。
 会話の中で、仕事を覚えるためにも、早めにアルバイトに入ってほしいと改めてお願いされる。
 そこで哲郎は翌日の放課後から、水町家の工場でアルバイトするのを決める。バイト料はあまり期待していなかったが、もし出たら、両親にそのお金で何かプレゼントするつもりだった。
 立派な親孝行とまではいかなくとも、哲郎を産んで育ててくれた父と母が、少しでも喜んでくれる顔が見たかった。
 これから大変になるが、望む幸せを得るために、全力を尽くすつもりだった。勉強もアルバイトもきっちりこなしてみせる。哲郎はひとり決意を新たにする。


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