リセット

   6

 幸いにして現在の哲郎は、両親の情の深さを充分すぎるほど知っている。
 親孝行なら、これからいくらでもすればいいのだ。とはいえ、今の哲郎はまだ小学生。下手にそんな真似をしようものなら、どうかしたのかと不審がられる。
 とりあえずは普通に生活していき、重要な事態が発生したら、その都度に最善の対処をすればいい。一応の未来を知っている哲郎には、それができた。
 ここで哲郎は、ふと自分へ向けられている視線に気づく。考え事に没頭するあまり、箸が進んでいない哲郎を、母親の小百合が心配そうに見ていた。
 未だお米を食べるのに苦労する家がある中、哲郎の家庭ではおかわりも許可されてるぐらいだった。
 この頃はあまり何も考えてなかったが、改めて昔の時代へ戻ってくると、いかに哲郎が恵まれていたのかわかった。
 父親の梶谷哲也は、サラリーマンとして大手の家電メーカーの工場に勤務している。
 といっても部品を組み立ててるわけでなく、本社の採用社員として工場に派遣されてるという扱いだった。
 そのため工場内では幹部であり、給料も普通の作業員よりずっと高い。これも、哲郎が大人になって、ようやく知った出来事のひとつである。
 小学生の息子に、自分の立場や給料を居丈高に語る父親などそうそういるはずもなく、当時の哲郎は勤めている会社名程度しか知らなかった。
 ……おっと、いけない。心の中で、哲郎は自分自身を叱責した。
 昔を懐かしんで思い出に浸るあまり、大切な食事が疎かになってしまっている。
 母親の顔に浮かんでいる不安の色はより濃くなっており、先ほどからずっと、どうしたのか尋ねたそうにしていた。
 それをしないのは、一家の大黒柱である父親が、何も言葉を発しないからである。
 小百合はいわゆる専業主婦であり、この時代ではむしろ共働きの家庭の方が珍しかった。
 そのため食べさせてもらっているという考えが強く、決して父親の哲也の前で、でしゃばった真似をすることはなかった。
 子供の時は、優しい母と無関心な父という印象を抱いていた。
 何かあればすぐに心配してくれる小百合に対して、哲也は息子である哲郎へ一瞥もくれない。それが嫌だった。
 けれど一度成長している哲郎には、相応の洞察力も身につけている。
 幼少時はまったく気づけなかったが、よく観察してると、哲也が時折チラチラと哲郎の様子を窺ってるのがわかる。
 まともに目を合わせると気まずくなりそうなので、あえて気づかないふりをする。
 こうした気遣いも、本来なら六十をすぎてるがゆえのものだった。
 子供時代に比べると、やはり少しは成長していたのだな。感慨深く思うと同時に、そろそろ食事をきちんとしなければと手を動かし始める。
 しっかり茶碗と箸を持ち、漬物や煮物を美味しく頂く。若い頃なら物足りなく感じたかもしれないが、つい数時間前まで老人だっただけに、このぐらいで丁度よかった。
 これから徐々に食料の調達も楽になり、様々な食材が市場へ並ぶことになる。
 今のうちに節制しておくのも悪くないと考え、久しぶりの母親の手料理を満喫する。
 生きてるうちは、こうして食べさせてもらえるのが当たり前だった。いなくなって、初めて大切さがわかることもある。
 哲郎にとって、それこそが両親の存在だった。だからこそ、こうして同じ食卓を囲んでるだけで、不意に泣きたい気分になる。
 すっかり忘れてると思っていたのに、哲郎の舌はしっかりお袋の味を覚えていた。
 口の中に広がる我が家の味付けに、油断すると涙が溢れそうだった。
「……美味しいね」
 食事の間はほとんど会話をしないのが、我が家のしきたりみたいになっていた。
 哲郎自身の幼少時なのだから、痛いぐらいにわかっている。それでも、自然と口からそんな感想がこぼれた。

「……何を、当たり前のことを言ってるんだ。お前は」
 優しいながらも、食事時に限っては寡黙な哲也が、よもやそんな台詞を口にするとは夢にも思ってなかった。
 小百合も同様だったみたいで、夫である哲也を見ながら、頬をかすかに紅くさせている。
 哲郎の記憶にある小学生時代で、こんな光景は見たことがない。偶然の産物というべきなのか、とにかく哲郎も驚いた。
 けれど、同時に嬉しくもあった。やはり父は母を心から想っていたのだとわかって、急に二人が理想の夫婦像みたいに見えてくる。
「ごめんなさい」
 哲郎が発したのは謝罪の言葉だったが、鏡で確認しなくとも、自分が笑ってるのはわかっていた。
 それを見た母親も笑顔になり、以降は無言だったものの、とても温かい夕食の席となった。
 自分の分を食べ終わっても、ご馳走様でしたとはならない。あくまでも、父親の哲也を基準として物事が進行される。
 哲也が箸を置いて初めて、全員揃って食事を終了する。これも、梶谷家の決まりごとのひとつだった。
 哲郎が大きくなってから知ったのだが、哲也の意思で行なっていたわけではなかった。
 父親が小さい頃から、梶谷家ではそのように行なわれてきており、それが当たり前になっていたのである。
 祖父母が哲郎の小さい頃に他界するまで同居していたため、小百合も梶谷家の一員として取り決めに従っていた。
 今さら変えるのも気がひけるのか、現在でも梶谷家の決まりごとは、ほとんどが有効なままだった。
 基本的に男性が優位なため、子供とはいえ、息子の哲郎が食後の後片付けをすることはなかった。
 手伝おうにも、それほり先に母親の小百合がテキパキと片付けてしまうのだ。長年の習慣とは、恐ろしいものである。
 とはいえ、学校での給食ではそんな特権があるはずもないので、男性であればすべてやってもらえるという考えは、この頃にはすでになくなっていた。
 もちろん一応は六十余年生きている現在では、微塵もそんなふうに思っていない。本来の時代では男女平等の名の下に、女性の立場もこの頃に比べればずいぶんと向上していた。
 この時代の女性は、お世辞にも社会的立場が強いとは言えないので、そのような傾向になっていったのも理解できなくはなかった。
 だが中にはちょっと、それはどうなんだという女性優遇制度なんかもあったりする。何事も行き過ぎはよくない。それは規制などにも言える。
 もっとも現在進行形で小学生の哲郎が、偉そうに何かを語ったところで、煙たがられるだけである。
 子供たちは遊ぶのに夢中で、そんなことを話題にしても、誰ひとり食いついてこない。会話してる暇があるなら、外で野球なりしてる方が楽しいという男児ばかりだった。
 室内で遊ぶにも、テレビゲームはおろか、テレビ自体を持ってる家庭の方が極めて珍しかった。
 哲郎の家にもテレビはなく、夜になればさっさと眠って、早起きして学校へ出発する。
 そして授業が始まるまで、集まってきた仲間と校庭で遊ぶ。それが最大の楽しみだ。とにかく暇さえあれば、外で遊んでいた。
 そんな子供時代だったのだから、色恋沙汰より友達を選ぶのも当然の成り行きといえた。
 成長した知識と記憶を所持してなければ、過去へ戻ってもまったく同じ選択をしていたはずである。
「……そろそろ、寝るかな」
 父親のあとで、母が沸かしてくれたお風呂へ入り、濡れた髪をそのままに自室へ戻った頃には眠気に襲われた。
 いつもより早い気がしないでもないが、これまでの人生で体験したことのない種類の緊張を味わい、精神的に疲れたのかもしれない。経験上、こういう時は無理をしないに限る。
 そう決めると哲郎は、入浴してる間に母親が敷いてくれていた布団へ入るのだった。

 翌日の朝は、いつもより早く目覚めていた。
 早朝から出勤する父親に合わせて起床し、朝も家族全員で食事をするのが当たり前になっている。
 そのため顔を洗って食卓へつく頃には、母親の作った朝食が並べられていた。
 当時はこれが普通と思っていたが、今にして考えれば小百合が哲郎たちよりずっと早起きしていたのだとわかる。
 頭の下がる思いとはこのことだが、まだ子供の哲郎が労をねぎらうのも変な話である。
 ここは小学生の男児らしく、親の愛情に甘えて元気に朝食を平らげるのが最上のお礼となる。
 食事の後は、母親と一緒に玄関で父親の哲也が家を出るのを見送る。
 父親こそが家の大黒柱であり、倒れられたりしたら生活するのもままならなくなる。
 そういう歴史がないとわかってるのは哲郎だけで、母親の小百合はいつも夫の哲也が無事に帰って来るのを祈っている。
「次は哲郎の番ね」
 相変わらずの穏やかな笑みのままで、小百合がそう告げてきた。
 最初の授業が始まるまでは、まだ時間があるものの、毎日かなりの余裕をもって登校している。
 それもこれもすべて、友達と遊びたいがためだった。
「わかってるよ。いってきまーす」
 過去へ戻ってきて、たった一日だというのに、子供の頃の口調がずいぶんと戻ってきていた。
 甘えるような言葉も自然と出てくるあたり、哲郎もだいぶこの時代の自分に馴染んでいた。
 ランドセルを背負って、元気よく家を飛び出す。目指すのは、登校前に皆で集まる空き地だった。
 学校へ行く前に、全員のお小遣いで共同購入した漫画雑誌を見るのが日課になっていた。
 当時は哲郎が本来いた現代に比べると、まだまだ社会的に評価されてなかった。
 もっともこの頃から、見せたら子供の頭が悪くなるなど、様々な理由をつけて漫画を規制したがっている人が存在した。
 哲郎の両親は比較的寛大な方だったが、ほとんどの家庭では漫画を見るのは禁止されていた。
 だが見るなと言われれば、余計に見たくなるのが子供の性である。
 熱血スポーツの根性漫画を見れば全員で興奮し、ちょっとエッチなシーンがあれば、興味がなさそうなふりをしてチラ見をする。
 一度成長してしまうと他愛のない出来事だが、この頃はこれがすべてというぐらい夢中だった。
 そのあとで登校し、授業が始まるまで校庭を駆け回るのだ。野球なり、相撲なり、その時々の気分で遊びのメニューを決める。
 今日も友達同士で遊ぶために、哲郎は駆け出していた。一歩、一歩、足を動かすたびに、当時の記憶が鮮烈に蘇ってくる。
 本来の自分は六十を過ぎた老人というのも忘れ、哲郎は全速力で空き地への道を走る。
「……梶谷君」
「――え?」
 目的地まであと少しと迫ったところで、唐突に哲郎は誰かに呼ばれた。
 女性の声なのはわかったが、誰かまではすぐに判別できなかった。
 正面どころか、辺りを見回しても、それらしき人物はいない。空耳かと思い、再び歩を進めようとした哲郎を、またもや同様の声が引き止める。
「……こっち」
 少し遠慮気味に呟かれた声の名残りを辿って視線を移動させると、そこには路地にひとりひっそり佇む水町玲子がいた。
 この場所は、水町玲子の家から学校への通学路ではない。明らかに意図して、やってきたのは間違いなかった。
「水町さん? どうかしたんですか」
「フフッ……また、昨日みたいな大人びた口調になってるよ」
 口元に手を当てて笑う水町玲子を見ながら、哲郎は頭を掻きながら、内心で「しまったな」と呟いた。
 だいぶ小学生として違和感がなくなってきたかなと思っていたのに、初恋の女性を前にしただけでこの有様である。
 もっとも現在では、初恋は見事に成就している。昨日に告白して、見事に了承の返事を貰えていた。
「あの……ね。せっかくだから、一緒に……登校したいな。駄目だったら……いいんだけど……」


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