リセット
7
哲郎にとっては、とてつもなく重大な分岐点に思えた。
とはいえ、ここが過去へ通じる扉となるべき地点かどうか決めるのは、あくまでも例のスイッチだった。
いずれはやり直せるだろうとわかっていても、どうせなら楽しい人生を歩みたい。それが人間の性である。
従来の哲郎であれば「友達が待ってるから」と仕方なしに断り、空き地へ急ぐところだった。
だがこれは、いわば二度目の人生。普段と違う選択をするのも面白かった。
そこで哲郎は、水町玲子の申し出へ応じる決意をする。歩いた六十余年の道では、女性との親密な関わりはないも同然だった。
プレイボーイを気取る会社の同僚や部下を見ては、内心でこっそり羨ましがっていた。
それが人生を悲観とまではいかなくとも、味気のないものにしたのは確かだ。普通はそのままゴールとなるはずが、何がどう作用したのか、哲郎にはやり直すチャンスが与えられた。
ならば、この機会を有効利用しなければ、スイッチをくれた老婆にも申し訳ないというものだった。
「わかった。いいよ」
哲郎がそう言うと、水町玲子は驚いたように目を丸くした。
それほど大きくない町で、同じ小学校に通っている。誰が登校前にどんな行動をしてるかなんて情報は、クラスメート全員が共有してるようなものだった。
ゆえに水町玲子も、この先の空き地で哲郎が毎朝遊んでるのを知っていた。それでも、駄目もとで誘ってくれた。
改めて考えると余計に嬉しくなり、いつになく哲郎のテンションも上がる。
「……いいの?」
遠慮気味に聞いてくる水町玲子へ、哲郎は「当たり前だよ」と返答する。
「だって私――いや、俺……僕たちは、付き合ってるんだろ。どうせなら、ちょっと遠回りして学校へ行こうよ」
スラスラと喋ってるように思えるが、その実、哲郎の心臓は緊張と興奮で、今にも爆発しそうな騒然さになっていた。
冷静さを保ってるようでいて、内心はパニックを起こしてるも同然。それを誤魔化すためにとった行動は、なんと相手に向かって手を伸ばすというものだった。
これでは、一緒に手を繋いで登校しましょうと言ってるようなものだ。昨日告白したばかりで、この展開は明らかに早すぎる。
思考回路がかろうじて働いた時には、すでに哲郎の行動は終了していた。
まさに勇み足。せっかく成功した告白も、これで水の泡になるのは想像に難くなかった。
絶望が濃い闇となって哲郎の視界を塞ぐ。だが状況を打破する光明は、意外なところからやってきた。
「……うんっ」
嬉しそうに返事をしたあとで、水町玲子が哲郎の手を握ってくれたのである。
驚いて相手の顔を見ると、照れ臭そうに目を逸らしてしまった。
「が、学校に行くんでしょ」
小さな呟きに何度も頷き、ぎこちなく哲郎は歩き出す。もちろん、恋しい女性との手は繋がれたままだ。時折、隣にいる水町玲子を見ると、記憶の中で薄れかけていた大好きな笑顔を見せてくれた。
改めてこの時代へ戻ってきてよかったと実感し、母親のではない女性の手の温もりに感動する。
「今頃、皆……梶谷君がどうして来ないのか、不思議がってるよね。もしかして、お家まで迎えに行ってたりして」
いつになく、悪戯っぽい笑顔で水町玲子が話しかけてくる。
これだけ機嫌のよさそうな姿は、哲郎の記憶の中には存在しない。小学校も卒業が間近に迫ってくると、どことなく落ち込むような様子が目立っていた。
今になって考えれば、例の校庭での一件が影響してるのは間違いなかった。
当時は最後まで告白できなかった。けれど二度目となった道で、哲郎は本来とは違う選択をした。その結果が、現在の登校風景である。
隣には小学生時代に大好きだった頃の水町玲子がいて、哲郎と手をずっと繋いでくれている。
それだけでかつて幾度も歩んだ道も、周囲へ広がっている景色も、何もかもが色鮮やかに見えた。
「だったら、正直に話すよ。水町玲子さんと、一緒に楽しく登校しましたってね」
哲郎の言葉がよほど意外だったのか、信じられないといった様子で「いいの?」と隣を歩く少女が問いかけてきた。
「いいも何も事実だからね。それに……何だか、本当に楽しいんだ」
長い人生において、こうした甘い経験できなかったせいだろうか。詳しい理由は、哲郎自身にもわからなかった。
明確な答えを得る必要もない。今が楽しければ、それで満足だった。
きっかけは偶然だったといえ、せっかく戻ってきたのだ。本来の世界で、できなかったことをする。それが一番の目的となる。
「うん……私も、楽しいよ」
手を繋いでいる少女が、はにかんだような笑顔を見せてくれる。
哲郎の頬が熱くなるのを感じ、目の前にいる水町玲子と同じく赤面してる絵が頭の中に浮かんできた。
これも青春の一ページに違いなく、まるで哲郎の人生がそっくり変わったような印象を受ける。
今までの哲郎だったら、ほぼ確実に口にしなかったような台詞の数々で、相手女性が喜んでくれている。
この事実が、新たな自身を授けてくれた。改めて、恐れる必要はないんだという思いが強くなる。
「でも……きっと、からかわれちゃうね。私たち」
「多分ね。もしかして、嫌なのかな?」
そうであるなら、学校へ着く直前に行動を別々にするなど、とれる対策はいくらでもあった。
だが水町玲子は、クラスメートの男児たちに冷やかされるのを嫌っていたわけではなかった。
「う、ううん……梶谷君が大丈夫なら、私は……」
そう言ってゆでだこみたいに真っ赤な顔を、水町玲子が俯かせる。
基本的に鈍い哲郎でも、相手の表情を見れば、照れてるのが一目瞭然だった。
隣にいる少女は、哲郎が友人達と気まずくならないか心配して、先ほどの台詞を発してくれたのである。
一度大人になっている哲郎ならいざ知らず、小学生の段階でこれだけの気配りができることに驚いた。
当時から大人びてるとは思っていたが、思考も同年代の児童に比べてずっと成長している。
ゆえに交際の有無についても、色々と考えたりするのだろう。若干言い方を悪くすれば、マセてるということになる。
そう意味では、現在の哲郎も充分すぎるほどのマセた子供だった。
この時代の人間に、未来からやってきましたと言っても信じてもらえるはずがなく、哲郎はあくまでも小学生でしかない。知識をひけらかすほどに、下手をすれば大人から反感を危険性もあった。
やはり、小学生らしく振舞ってるのが一番か。そう結論付けつつも、この年代ならではの交際を楽しもうとも決める。
「僕は大丈夫だけど、水町さんの方は? 女の子同士でも、からかわれたりしない?」
「いじめられる……っていうことはないと思うけど、一緒に登校してるところを見られれば、色々と言われるだろうな」
話している少女の表情は嫌がってるというより、むしろどこか自慢げだった。
大人になって得た知識がある哲郎だけに、この年頃では男児より女児の方が心身ともに発育してるのをわかっている。
しかも丁度、異性関係に興味を持ち始めた頃なのだろう。であるなら、誰と誰が付き合ってるというのは、恰好の話題になる。
加えて自分が中心にいるとなれば、誇らしげな気分になるのも、ある程度は理解できた。
その部分だけで考えると、水町玲子も意外とミーハーなのかもしれない。もっとも、仮に推測どおりだったとしても、哲郎にあれこれ言うつもりはなかった。
おかげで交際できたのであれば、むしろ女子の間で主流になっている話題と思考に感謝したいぐらいだった。
手を繋ぎながら色々と会話をしてるうちに、気づけば哲郎と水町玲子は所属している小学校へ到着していた。
手を離そうかどうか思案していると、横から「あーっ」という声が飛んできた。
声がした方へ視線を向けると、そこには水町玲子の友人の女児たちが数名立っていた。
いつも一緒にいる仲良しグループの面々で、水町玲子を見つけるなり満面の笑みを浮かべて近寄ってくる。
どちらからともなく哲郎と水町玲子は手を離していたが、側までやってきた女生徒のひとりが「照れなくていいよ」と言ってきた。
「二人が付き合うことになったのは玲子から聞いてるし、手を繋いでたとこもばっちり見てたからね」
秘密は知ってるとでも言わんばかりの態度に、並んでいる哲郎と水町玲子がほぼ同時に苦笑する。
目の前にいる女の子は巻原桜子と言って、グループのリーダー的存在だった。
何かとキャンキャンうるさく、おしゃべりな女性だったので、哲郎の記憶にも残っている。
巻原桜子とは中学も同じだったので、水町玲子よりもよく覚えていた。
けれど小学校を卒業してからは、ほとんど会話することもなかった。加えて向こうは中学生になったら、一気に垢抜けた。
電車に乗って友人たちと都会へ行ったりもして、当時の中学校に通う生徒たちの間では、未来で言うところのファッションリーダーみたいな存在だった。
奥手で女性とあまり会話をしなかった哲郎とは一気に接点がなくなり、交流は完全に途絶えた。
進学校へ進んだ哲郎とは違い、巻原桜子は卒業と同時に上京したはずである。
一説によればアイドルを目指していたみたいだが、その後どうなったかはまったく知らない。こういう時に、本来の人生で人付き合いが少なかったのが仇となる。
もっとも巻原桜子の人生へ、哲郎が積極的に関与するわけではないので、行く末を知ってなくても大きな問題が発生するとは考えにくかった。
「それにしても、意外なのは梶谷よね。こういうことには興味がないようだったのに……どういう心境の変化?」
当時は主流だったおかっぱ頭の巻原桜子が、下から哲郎の顔を覗き込むようにして尋ねてきた。
プレイボーイと呼ばれる人種ならうまく切り返すのだろうが、生憎と哲郎は朴念仁と形容されるのがピッタリの人生を歩んだ。したがって、女性との上手な会話のテクニックなど、何ひとつ所持してなかった。
昨日は、積もり積もっていた慕情が言葉を紡いでくれた。軌跡と呼んでも相違ない状況に、そうそう遭遇できるはずもなく、哲郎は言葉を詰まらせる。
すると隣にいる水町玲子が、すかさず助け舟を出してくれた。
「桜子ったら……梶谷君が困ってるじゃない」
「あら、そう? でも、まだ苗字で呼んでるのね」
相手の意図がわからず「それがどうしたの?」と水町玲子が尋ねれば、巻原桜子はより盛大なニヤけ顔を作った。
「恋人同士なら、お互いを名前で呼ぶのが当然じゃない。玲子……哲郎さん……みたいにね!」
この時代、まだテレビはあまりメジャーな存在になっていない。持ってるとしても、都会の上流階級ぐらいだろうか。少なくとも、哲郎の家にはなかった。
だからまだラジオのお世話になる機会も多く、こういった女の子を単純にドラマの観過ぎとバッサリ切り捨てられなかった。
あえて言うならラジオの聞きすぎ、もしくは妄想のしすぎといったところだろうか。とにもかくにも、悪乗りする巻原桜子の後ろでは、グループの女児たちが興奮してキャーキャー言っている。
「も、もうっ! からかわないでよ」
友人を叱責する水町玲子の顔は、この場にいる誰より真っ赤になっていた。
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