リセット

  63

 何の予兆もなく、いきなり扉が開いた。大きな音が響き、丸見えになった廊下にはひとりの男性教員が立っていた。哲郎の記憶が確かならば、修学旅行中の風紀を担当している。
 せっかく哲郎と水町玲子以外にも、カップルらしき組み合わせができてきたところだったのに、盛り上がりは一気は消滅させられた。
 怒りの形相を浮かべる教員を前にして、誰もがこれからの自分の行く末を心配している。ここまで勉学を頑張って、進学校でそれなりの地位を築いてきたのに、下手をすればすべて失ってしまうのだ。
 もっとも哲郎だけは、わりと余裕を持っていた。何か裏技があるわけではなく、他の班員たちとの人生経験の差である。
 地元では有名な進学校であるがゆえに、不祥事を表沙汰にしたいと考えるはずがなかった。教員たちにとっては、預かっている生徒たちと同様に学校の名前も大事なのだ。
 男女交互に並んで座り、親密な雰囲気を全開にして、お菓子を食べてジュースを飲んでいる。この光景を見れば、生徒たちが何をしていたのかなど一目瞭然だった。
「お前たち、もう消灯の時間は過ぎているぞ。一体何をしているんだ」
 普通なら怒鳴られて当然なのに、男性教員は前面に押し出している怒りとは裏腹に、声のトーンを低くする。それだけで、哲郎は相手の考えていることをある程度理解する。
 水町玲子を始めとしたメンバーが、恐怖と不安で顔を引きつらせている中で、いけしゃあしゃあと哲郎が口を開く。
「修学旅行というのもあり、仲の良い人間で集まって勉強会を開いていました」
 堂々とした態度で、真っ直ぐに男性教員と視線をぶつける。瞬く間に膨れ上がる緊張感に、場にいる哲郎以外の生徒たちが硬直する。
 床に参考書どころか、お菓子とジュースしか置かれていない状況下で、哲郎は勉強していると断言したのだ。
 誰の目にも嘘なのは明らかで、下手な言い訳をするなという怒鳴り声が部屋に響くのを全員が覚悟していた。
 もちろん哲郎だけは別である。不祥事なんぞはごめんの教員の心情を考慮すれば、先ほどのが一番喜ばれる理由だと判断した。
「勉強熱心なのは結構だが、もう消灯時間は過ぎているぞ」
「それは気付きませんでした。近い将来に大学受験もありますから、皆、熱が入りすぎてしまったみたいです」
 あくまでも一歩も退かない哲郎から視線を外した男性教員が、素早く廊下を見渡した。
 そのあとで意味ありげにニヤリとする。恐らくは、他の部屋の学生たちが様子を見ているかどうか確認したのだ。
 そして結果は、哲郎たちにとって最高のものだった。誰も見てないのであれば、不問にしたところで大騒ぎにはならない。
「常に実力テストで学年トップの男が言うと、説得力があるな。この場は納得してやるが、騒ぎにだけはしてくれるなよ」
「わかっています。先生の手を煩わせるような真似はしないと約束しますよ」
「まったく、お前という奴は。時折、本当に高校生かと疑いたくなるな」
 苦笑する男性教員の言葉にドキリとする。相手の発言は、ある意味で真実だったからだ。
 純粋な高校生である仲間たちとは違い、累計すると百年は超える人生経験が哲郎にはあった。
 この手の大人の会話に慣れているのもそのためだ。相手の意図を理解し、暗黙の了解で水面下で握手をする。
 高校生と認識している哲郎が、いともあっさりと最善の対応をやってのけたため、男性教員も驚きを隠せなかったのである。
「褒め言葉として、受け取っておきます」
「そうしてくれ。他の教員にも話はしておくが、ほどほどにしておけよ。まあ、梶谷がいれば心配ないだろうがな」
 そう言うと、突然の乱入者だった男性教員は、静かにドアを閉めて哲郎たちの部屋から去っていった。
 これでひと安心だと、哲郎は恋人の少女を相手に肩をすくめてみせる。この場にお酒や煙草がなかったのも幸いし、見事に危機を乗り切った。
 他の班員たちにも笑顔が戻り、水町玲子は惚れ直したとばかりに、再び哲郎に寄り添ってくる。

「危なかったね。梶谷君がいてくれて、良かった」
 男性教員の乱入という嵐が去ったあとで、水町玲子と同じ班の女性が安堵した様子で呟いた。
 他の面々も同じ感想を抱いているみたいで、次々と頷いては哲郎に尊敬の眼差しを向けてくる。
 男性陣からは頼りになる兄貴分的な存在として慕われ、女性陣からは率直な憧れを捧げられる。人生を何度も繰り返してきたが、このような展開は初めてだった。
 まるでハーレムみたいな状態だが、哲郎は決して浮かれたりはしなかった。他の女性などに目もくれない。想っているのは、あくまで水町玲子ひとりだけだ。
「半ば先生に公認されたようなものだから、もう心配はいらないと思うけど、できるだけ小さな声でお喋りをしよう」
 いつの間にやら二つの班のリーダー的存在になってしまった哲郎の言葉に、場にいる全員が素直に承諾の返事をする。
 部屋の電気を薄明かりにしつつ、こうして哲郎たちは夜更けまで修学旅行ならではの男女間の会話を楽しんだのだった。
 翌日の朝。各部屋から眠たげな生徒たちが、気性時間に合わせて廊下へ出てくる。中でもとりわけ睡魔に襲われているのは、哲郎と水町玲子が所属しているそれぞれの班の仲間たちに違いなかった。
 他のクラスメートより睡眠時間が少なかったはずなので、当然といえば当然なのだが、誰しもが眠気が顔に出ないように必死で我慢していた。
 哲郎の部屋に集まってお喋り会を開いていたのは、引率している教員のほとんどが知っていた。それだけに、朝寝坊などをしたりすると、他の学生よりも大きな批判を浴びるはめになる。
 だが決して不利益ばかりではない。上手い具合に、哲郎の班の男性陣と水町玲子の班の女性陣によって幾つかのカップルが誕生していた。
 初めて恋人ができた者もいるらしく、そういった人間は男女を問わずに、昨夜から持続中の興奮によって、朝から目を爛々と輝かせている。
 昨日の夕食と同様に、班毎にまとまってバイキング形式の朝食をとる。ここでも哲郎と水町玲子は待ち合わせをして、近くの席に座った。
 班員同士も仲良く会話をしながら、交友を深める。幾度も人生を繰り返しておきながら、これまで哲郎は修学旅行というイベントに一切の良い想い出を持っていなかった。
 といっても、悪い記憶ばかりでもない。要するに可もなく不可もなく、ただ通り抜けるだけの出来事でしかなかったのである。
 それが今回は、こんなにも深くて濃い内容になっている。水町家の没落を回避い、大恩ある母親をも最大の不幸から救った。
 長年、複数の人生にわたって哲郎の前に立ち塞がってきた憂いという名の壁は崩壊し、現れた道の先にはこれまで見えなかった広大な景色が広がっている。
 その気になれば、どこまでも行けそうなくらい素晴らしい環境に、哲郎自身わずかに舞い上がり気味だった。
 だからこそ昨夜みたいに、堂々と教師と言い合ったりもできたのだ。歩んできた膨大な日々の積み重ねにより、哲郎は確固たる自信を獲得するに至った。
 それが人間として、男性としての魅力を形成している。物事に絶対はないが、想像どおりだと半ば確信めいたものを持っていた。
「今日は、午後から自由行動の時間があるね」
「ああ。もちろん、一緒に行動するんだろ」
「ええ。せっかくの機会だもの。でも、良かった。哲郎君から、そう言ってくれて」
 不思議なもので、笑顔で会話をしていると、知らず知らずのうちに周囲の人間もにこにこしているケースが多かった。
 他の班はどうか知らないが、とにかく哲郎と水町玲子の班員は全員が幸せそうな顔をしていた。

 朝食が終わり、ホテルの前で点呼をとって、各クラス毎に借り切っているバスに乗り込む。
 席順は事前に決められている。当然のごとく、哲郎たちと水町玲子の班員は近場にそれぞれの場所を獲得していた。
 昨夜の興奮の名残もあり、会話が必然的に弾む。あまりうるさくなりすぎないように注意をしながら、各々が好きな相手との好きな話題を楽しんでいる。
 哲郎も恋人の少女と隣り合って座りながら、バスガイドの説明に耳を傾けていた。旅行という名前が付着しているとはいえ、あくまでも目的は学習なのだ。
 修学旅行から地元の高校へ戻ってすぐに、哲郎はこの期間に見回った寺院等に関しての問題集が出されるのを知っていた。
 あまりおおっぴらに教えすぎると、生徒たちはもとより、教員たちからも「どうして、お前が知っているんだ」とクレームがつくのは想像に難くなかった。
 いかに教師たちの信頼が厚い哲郎といえど、抜き打ちの問題集の情報まで事細かに与えられたりはしない。その点は、他の生徒たちと変わりなかった。
 そんな哲郎が問題集の存在を知っている理由は至極簡単。繰り返してきた人生の中で、何度もこなしているからだ。
 完璧ではないにしろ、どのような問題が出されているのかも、ある程度は記憶していた。従って、哲郎だけは別に再度勉強しなくとも、悪い点をとる心配はない。
 だが真面目な態度を、教員に見せておいて損はない。昨夜も見回りの男性教師に、男女混合の集会を目撃されたばかりだ。評価の上昇は、最終的に自分の身を守ることに繋がる。
 常に学年トップの哲郎が真面目にバスガイドの話を聞き、ノートに内容をメモしているのを見て、他の生徒たちもひとりまたひとりと、同じような行動をとり始める。
 その様子を見ていた担任教師が、我がクラスの生徒たちは優秀だとでも言いたげに目を細める。
「哲郎君は勉強家だね。ガイドさんの説明も、きちんと自分の知識にしようとするのだもの」
 皮肉ではなく、単純な感想として、水町玲子がそのような台詞を口にした。瞳には尊敬の感情が宿っており、それだけでも哲郎を誇らしくさせてくれる。
「別にそういうわけでもないよ。でも、修学旅行の目的は学習だ。だとしたら、旅行後に成果を調べる何らかの課題が出ても不思議じゃないだろ」
 哲郎に言われて初めて気付いたとばかりに、聞き耳を立てていた複数の同級生が驚きを露にする。
 これまでどこか他人事みたいに哲郎のメモぶりを見ていた連中も、慌てて自分のノートを取り出して懸命に記入を開始する。
 先に書き始めていた仲の良い友人から見せてもらったりしながら、着実に白紙だったノートを埋めていく。
「まさか……でも……あ、あの、先生……?」
 遠慮気味に水町玲子が質問すると、担任の男性教師はすっとぼけた感じで「俺は何も知らないぞ」と回答した。
 旅行後の課題の存在を肯定はしなかったが、否定もしていない。どちらともとれる発言内容を考慮すれば、教員が何かを隠しているのは簡単に推測できた。
 成績優秀者の哲郎には及ばなくとも、地元で有名な進学校に在籍できている時点で、同級生たちは同年代の者の中でも上位クラスの知能レベルを所持している。
 テストの点数だけで単純に頭が良いとかは断言できないが、とりあえずの参考になるのも確かだった。
 そうした連中が、担任の男性教諭の意味ありげな態度から、何も感じないわけがなかった。すぐに目の色を変えて、バスガイドの説明に集中する。
「……まったく。梶谷の存在は、ありがたいのか教師泣かせなのか、よくわからないな」
 担当する学級に在籍する生徒たちの一生懸命さを眺めながら、男性教師は苦笑交じりにそう呟いた。


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