リセット
67
季節は巡る。雪が降り、桜が舞い、強い日差しを受けた木々が、色鮮やかに踊る。そしてまた世界が白く染まる。
見慣れた四季であっても、一年ごとに姿を少しずつ変える。誰もがこの一年の季節の移り変わりは、二度と体験できないと知っていた。
それだけに記憶の中へ出来る限り保存しようとする。例のスイッチを使った弊害があるのだとしたら、素直に四季を楽しめなくなる点かもしれない。振り続ける雪の中で、哲郎はそんなことを考えていた。
何度も人生をやり直しているからこそ、ここ十数年の間の各季節がどうだったのかを知っている。なので猛暑だろうと厳冬だろうと、当たり前の出来事になる。
他の人間が異常気象に驚くのを尻目に、哲郎は普段どおりの行動をする。他人に合わせて、演技をするのはどうにも苦手だった。
おかげで学校のクラスメートからは、クールな人間として評価されていた。本当はそれほどでもないのだが、言い訳をすると余計変な感じになりそうだったので、あえて言われるがままにしている。
そんな高校生活もあと数ヶ月で終了する。修学旅行から帰ってきたら、あとは勉強と仕事の毎日だった。
本来の人生では現世に存在しなくなっているはずの母親の笑顔に見送られながら家を出て、高校で勉強をしたあとは最愛の恋人の家でアルバイトに励む。
夜は水町玲子の部屋で少し語り合ったあと、途中の銭湯に寄って帰宅する。銭湯のお金はアルバイト代から支払っているので、両親は通うなと注意したりはしなかった。
学校での成績を一切落とさず、模試でもトップの成績をとる。加えて恋人の水町玲子の学力も、大学入試間近ではかなりのレベルに到達していた。
これもほぼ毎夜、哲郎が勉強を教えてきた成果だった。以上のこともあり、高校の教員どころか水町玲子の両親からの信頼までさらに厚くなる。
哲郎と水町玲子は揃って上京し、一流大学の受験をすることに決まっていた。合格すれば在籍している高校でも史上初の快挙となるため、学校の教員総出での応援が行われる。
特例として授業中であったとしても、独自の受験勉強を認められたくらいである。それほどまでに哲郎と、水町玲子への期待は高まっていた。
繰り返しの人生において、何度も入試を経験している哲郎とは違い、恋人の少女は初めての大学受験となる。しかも周囲からプレッシャーまで受けている。
さすがに受験が近づいてくるにつれ、少しだけナーバスになっていた。
「哲郎君は余裕だからいいよね。私……自信がない」
とある日。アルバイト終わりの夜に、すでに誰もいなくなった事務所で水町玲子が呟いた。
ここ最近、考え事ばかりをしていて、勉強に身が入ってないのは傍で見て知っていた。
ナーバスになっているのもわかっていたので、下手に原因を探ろうとせずに、向こうから悩みを打ち明けてくるまで哲郎は辛抱強く待っていた。
受験に関連したものであるのは予測できていたが、ここまで深刻だとは考えていなかった。己の甘さに内心で舌打ちをしつつも、顔に出さないように気をつける。
頭をよぎったのは「俺も余裕なんかないよ」という返しだった。しかし哲郎はあえて、その台詞を口にはしなかった。
「もちろん余裕さ。だから俺が教えてる玲子も、余裕で合格できるに決まっているだろ」
当たり前のように放出された哲郎の言葉に、恋人の少女が唖然とする。まさかこんな台詞が返ってくるとは夢にも思っていなかったのだろう。
「なに、それ。本当に凄い自信だね」
まだ憂いは完全に晴れていなさそうだが、それでも水町玲子は笑みを浮かべた。
もしかしたら呆れているのかもしれないが、下手な気休めを言うよりは、よほど効果があったみたいである。
「受験に失敗してもいいじゃないか。正直、俺は玲子と同じ大学に通えるならどこでもいいんだ」
「でも……」
「学校がほしいのは、合格したという事実だけさ。俺がどこの大学を選択しようが、文句はないだろ」
実際には数多くの文句がくるのはわかっていたが、哲郎の人生はあくまでも自分だけのもなのだ。誰かの言うとおりにして、後悔だけは絶対にしたくなかった。
三流と呼ばれる大学であったとしても、志さえあればどうにでもなる。哲郎にとっての優先順位は、常に恋人の少女が一番上なのである。
「……ありがとう」
涙ぐんで俯く水町玲子を、無言で抱き寄せる。冷たさを増していく事務所の中で、哲郎の体だけは反比例するように温かくなっていた。
やってきた大学入試の前日。自宅では母が玄関先まで見送ってくれた。従来の人生にはなかった、背中に注がれる温かな視線が何も嬉しく感じた。
大恩ある母親の梶谷小百合が存命だからこそ、味わえる瞬間である。もっとも父親の梶谷哲也だけは、何も変わらず普段どおりに出勤していた。
大事に挑む息子へ「頑張れ」のひと言もない。けれど今の哲郎は、それが余計なプレッシャーを与えないための気遣いだと理解できる。
何事も経験が成長させてくれる。その正しさを証明してくれるような感情だった。
東京の大学を受験することになっているので、本当なら数日前に上京して、都会の空気に慣れておくべきだ。重々承知しているが、簡単にそうできない事情もあった。
受験のために哲郎が数日留守にするだけでも、水町家の工場はおおわらわになる。加えて次にパソコンの理解度が深い玲子も同行しているのだ。
社長つまりは水町玲子の父親や母親が、主にパソコンの操作を担当することになる。事前にノートにやり方を書いてきたが、それを見ても両者ともとても不安そうにしていたのが記憶に新しい。
かといって受験の日をずらすのは不可能なため、哲郎と玲子はギリギリまで地元に残った上で東京へ向かうことに決めた。
事前準備の期間が短いのが不安ではあったものの、以前に哲郎と会話をしたおかげで水町玲子の精神状況もだいぶ落ち着いていた。
「なるようになるわよ。哲郎君と一緒なら、私は何があっても大丈夫よ」
貰った嬉しい台詞が、いつまでも感動とともに哲郎の胸の中に残っている。これまで何度も思い出しては、自身のモチベーションを上げてきた。
もうそろそろ水町家につく。哲郎が迎えに行き、駅まで向かうことになっていた。
「お、お父さん。そこまでしてくれなくても、私は大丈夫ですから」
見慣れた風景が近づいてくるにつれ、そんな声が風に乗って哲郎の耳に届いてきた。声の主は言わずと知れた恋人の少女こと、水町玲子だった。
どうしたのかと思いながらも、水町家の玄関前へ到着する。工場が軌道に乗っているのもあり、家は多少立派にリフォームされていた。
「あ、て、哲郎君。お、おはよう。それじゃあ、早速、行きましょうか」
やたらと出発を早めたがる恋人の少女を不審がっていると、哲郎より先に出発を制止する人物が現れた。水町玲子の父親だ。
「玲子も哲郎君も待ちなさい。明日の大学受験へ向けて、ただ今からエールを送り、出発を見送りたいと思う」
そう言うと、いきなり水町玲子の父親は「フレー、フレー」と硬派な応援団よろしく、大きな声で応援を開始した。
近所の人間にも事前に説明をしておいたらしく、ぞろぞろと応援中の水町玲子の父親の側に集まってくる。
あっという間に哲郎と水町玲子はたくさんの人々に囲まれ、エールを受けるしかない状況へ追い込まれていた。
恥ずかしがる水町玲子の隣で、哲郎はこのような時代もあったなと懐かしく思っていた。
ひとりきりの大学受験では決して得られなかった応援に、嬉しいような恥ずかしいような気分になる。だが不思議と嫌ではなかった。
「たまにはいいんじゃないのか」
赤面する水町玲子に耳打ちをしてみたが、それでも恋人の少女の恥ずかしさは打ち消せないみたいだった。
ひとしきりの応援を受けたあと、哲郎は水町玲子の父親と固い握手を交わした。もちろん、相手から求められたためだ。
――娘を、玲子を頼む。まるでお嫁にだす時みたいな台詞に、ますます娘の水町玲子は赤面していた。
場を和ませる軽い冗談ではなく、相手が本気だとわかったので、哲郎も真面目に「わかりました」と応じた。
その際は見られなかったが、恐らくはこれまでの人生で一番、水町玲子が照れていたのは聞くまでもなかった。
水町家を出発し、駅に到着した哲郎と水町玲子は、目的地へ向かう汽車に乗る。
哲郎が元々存在していた数十年先の未来とは違い、新幹線なんて便利な乗り物は存在しない。従って、何度も乗り継ぎをして上京する必要があった。
隣で緊張の面持ちをしている水町玲子を尻目に、哲郎は迷いなく行動する。人生を幾度もやり直しているおかげで、戸惑う場面は極端に減っていた。
恋人の少女は訝るどころか、そんな哲郎を頼もしく見つめていた。わざわざ尋ねなくとも、相手から向けられる視線が熱く語っている。
水町玲子の荷物も荷台に上げてから、哲郎は席に座る。他にも上京する若者がいるらしく、数多くの家族が見送りにやってきていた。
「家族が離れ離れになるのは、どこか……悲しいね」
見知らぬ誰かが見送られる光景を眺めながら、ポツリと水町玲子がそのような言葉を漏らした。
哲郎は曖昧に頷きながらも、恋人の少女が軽いホームシックにかかっているのかもしれないと判断する。
修学旅行などで家を空けたケースは存在するものの、今回は哲郎と二人だけである。心の片隅に寂しさが巣食っているのだろう。
「大丈夫さ。今、文明は凄い勢いで発展しているからね。もうすぐ気軽に上京したり、帰省したりできるようになるよ」
「そうなのかな。ふふ……でも、おかしいね。まるで哲郎君、自分の目で見てきたみたい」
水町玲子の指摘に、哲郎の心臓が跳ね上がる。危うく口から出そうになったのではないかと思うくらい、強烈な一発だった。
「もしかしたら……見てきたのかもしれないよ」
内心の動揺を隠しつつ、そのような言葉を返してみる。すると水町玲子は「素敵ね」と応じて、いつもの柔らかな微笑を浮かべた。
哲郎が所持しているスイッチの存在は、他の誰にも教えていない。喋ったところで、信用してもらえるわけがないからだ。
実際に使用して見せたとしても、次の瞬間には、哲郎は違う時代の自分に戻っている。証明するのは、不可能も同然なのである。
「あ、そろそろ出発するみたい」
水町玲子の言葉に哲郎が頷く。誰か知らない人間の見送りにきていた一行が、大きな声で「バンザーイ」と叫ぶ。恐らくは上京する者の幸多き未来を、そうして願っているのだろう。
大学入試が終わればすぐに帰ってくるため、哲郎たちの見送りには誰も来ていない。これが当たり前だと思っているので、別段寂しくはなかった。
動き出した汽車に揺られながら、哲郎と水町玲子はとりとめのない会話をする。
人生初めての大きな試験を控えている緊張のせいか、それとも家族のもとを一時的にでも離れて、二人きりで行動する高揚感によるものか。恋人の少女は、普段よりもずっと多弁になっていた。
相手からもたらされるひとつひとつの言葉を丁寧に受け止め、面倒がらずに応じながら、哲郎は窓際に座っている水町玲子の顔と流れ行く景色を交互に眺めていた。
続く
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