リセット

  66

 この世界にあってはならないようなスイッチの力を使い、哲郎は何度も己の人生をリセットしてきた。
 失敗してはやり直しを繰り返して、先日、ようやく一定の成果を得た。
 本来なら一緒に来られるはずのない水町玲子とともに、所属する高校の修学旅行に参加したのだ。
 そこで、これまでの人生にはなかった輝かしい想い出を作った。哲郎の努力はもちろんだが、すべては正体不明の老婆から貰った例のスイッチのおかげだった。
 例のスイッチについて考え出すと、とてもじゃないが時間が足りなくなる。本来なら色々と考察すべきなのだろうが、とりあえず哲郎は今もその仕事を放置している。
 それ以上に、新しく生まれ変わったも同然な自分の人生を歩むので忙しいのである。
 修学旅行も無事に全行程を終了し、哲郎たちは自分たちの地元へ戻っていた。見慣れた風景に懐かしさと安心を覚えると同時に、先日まで滞在していた都会との差にため息をつく。
 そんな友人たちの姿を眺めながら、哲郎は自分の初めての修学旅行について考える。歓喜も狼狽もなく、淡々と一行事としてこなした。
 思い出すほどの記憶もなく、自分が何をしたのかもよくわからない。誰が聞いても、哲郎の最初の人生における修学旅行を寂しいと評するだろう。
 だからこそ、特に好きでもなかった。そんな修学旅行の印象が今回で一変した。どこへ行くにしても、最愛の女性が隣にいるだけでこんなにも違うものなのかと未だに痛感している。
 ありがたいことに修学旅行の翌日は休校となっており、水町家の工場でのアルバイトも午後からになっていた。
 本当は休んでもいいと言われていたが、仕事の内容をだいぶ把握してきた昨今だけに、自分が休むとどれぐらいの弊害がでるかを哲郎は知っていた。
 なにせこの時代、パーソナルコンピューターというものを扱える人間は限られていた。これからワードプロセッサが主流の時代となり、家庭向けにパソコンが普及するのはそのあとになる。
 けれどそのような事情を知っている人間が、哲郎以外に存在するはずもなかった。積極的にパソコンの扱い方を覚えようとする人間もおらず、知っている人間に頼りきりとなるのも無理のない話だった。
 数十年後の未来とは違い、パソコンの大きさも性能も桁が違っている。それでも工場に取り入れるべきと提案したのは他ならぬ哲郎だった。
 工場に最新鋭のパソコンを導入することで、仕事効率がアップするのはわかっていた。加えて町工場ながら、大手の取引先にも一目置かれる。
 結果的に受注数は増加し、工場はより潤う。そこへバブルの波が押し寄せ、瞬く間に大成功を収める。哲郎の頭の中では、確かな未来が描かれていた。
「あら、おはよう。今日はゆっくりだったわね」
 起きて部屋から出てきた哲郎を見て、母親の梶谷小百合が笑顔で挨拶してくれる。
 昨夜は哲郎が修学旅行先で購入してきたお土産を、喜んで受け取ってくれた。名産のお菓子が大半だったが、普段あまり口にしないのでよほど嬉しかったのだろう。
 その場には父親の梶谷哲也も同席していたが、こちらはあまり表情を変えなかった。昔から、何を考えているのか読めなかった人物だけに、それで不満に思ったりはしない。
 一度目の人生を歩んでいた際には途中まで不満に思っていたが、わだかまりはすでに解消されている。大人になって話し合えたからこその結果だった。
 そこ一点だけとってみても、最初の人生も決して無駄ではなかったのだと思える。すべての人生に意味があり、哲郎はそのたびに人間として大きく成長できた。
 不完全な生き物であるがゆえに失敗を繰り返す。しかしどうにもならないので、後悔を引きずりながらも懸命に前を向いて歩く。それが人生というものだ。
 事実、哲郎もそうだった。だが何の因果か、他の人間にはない特権を手に入れた。恋人と母親の笑顔を守り、この場に立てている現在が何より幸せだった。

「学校は休みだし、アルバイトは午後からだしね。おかげで朝寝坊をしてしまったみたいだ」
 母親の笑顔につられるように、哲郎も笑みを浮かべながら言葉を返す。最近は忙しい日々を過ごしていたので、こうしてゆっくりできるのも久しぶりだった。
 仕方ないわねといった表情で、母親の梶谷小百合が朝食を用意してくれる。高度成長期へ突入し、哲郎の父親が勤務する会社も着実に大きくなっていた。
 それに伴い給料も増加。何不自由なく毎日の食事をとれるようになっていた。母親の梶谷小百合曰く、戦後すぐに比べると夢のようとの話だった。
 未来はもっと裕福な社会になるよ。できれば見知っている世界を教えてあげたかったが、そのような話を今したところで信用してもらえるはずもない。
 適当な会話をしたりせずに、用意された朝食を黙々と食べる。すでに正午近くなっているので、ほとんど昼食みたいなものだった。
 午後になれば水町家の工場へ出向き、アルバイトをする必要がある。しっかりと体力をつけて、これからの仕事に備える。
「今日くらいは、お仕事をお休みしてもよかったのではないの?」
 母親の梶谷小百合が、見るからに心配そうな表情で哲郎を気遣ってくれる。
 定期的に休日は貰っているのだが、繁盛して会社の忙しさも最高レベルに達している。他の従業員も休日返上で働いているのに、哲郎ひとりがまったりするわけにはいかなかった。
 まだ高校生なのだからと他の社員は言ってくれるが、哲郎は「自分が働きたいだけなので」と学校が休みの日曜日も朝から出勤していた。
 一度社会人を経験しているだけに、当たり前の行動といえばそれまでなのだが、この時代の哲郎はいまだ学生の身分だった。
 就職しても学生気分が抜けない若者が多い昨今、すでに社会人としての自覚が芽生えていると周囲の評価は急上昇。ますます工場の次期社長と認識されるようになる。
 自分が成長させてきた工場を易々と渡すものか。水町玲子の父親にいつかそう怒鳴られるとばかり思っていたが、ここでも哲郎の予想は裏切られる。
 一緒に夕食をとれば上機嫌で「うちの会社は数十年後まで安泰だな。なにせ、哲郎君がいてくれる」と次の社長にする気マンマンの態度を示す。
 それは水町玲子との結婚を示すのだが、恋人の少女の家族は誰ひとりとして哲郎を排除しようとはしなかった。
 むしろ家族の一員に加わってもらえて光栄だとばかりに、色々とよくしてくれる。いくら勉強が理由とはいえ、年頃の娘と同じ部屋で二人きりにさせるのだから、どれほど信用されているのかがわかる。
「大丈夫だよ。それに朝から出られるのを、向こうが気遣って午後の出勤にしてくれたんだ」
「それならいいのだけれど……でも、身体を壊したりしたら、元も子もないわよ」
 中学校を卒業すると同時に上京して就職するこの時代。まだ学生なのだから、急いで仕事をする必要がないなどとは、誰ひとりとして言わなかった。
 戦後の貧困時代から脱却し、いよいよ本格的な経済成長を遂げようとしているだけに、誰もが元の生活には戻りたくないと必死に働いている。
「心配しないで。きちんと休息はとっているから」
 母親へ心配をかけないようにしながらも、あくまで仕事を休むつもりがないのを遠回しに告げる。
 さすがの梶谷小百合も諦め、哲郎の好きにさせるべく、あとはもう余計な発言をしてこなくなる。
 普通の学生なら、勉学とアルバイトを両立させるのはかなり厳しい。けれど哲郎には、これまで繰り返してきた人生で積み重ねた知識がある。
 実質的にアルバイトへ集中できる環境が整っている。あとは睡眠時間をしっかりとれば、若さが助けてくれる。哲郎は半ばそう確信していた。

「おはようございます」
 すでに正午になっているが、出勤時は常にこの挨拶をする。時間がどうとは関係なく、決まりごとみたいなものだった。
 すぐに聞きなれた声が「おはようございます」と返ってくる。恋人の少女こと水町玲子である。
 常に時間前行動をする哲郎に影響されたのか、彼女もまた本来の出勤時間より早く勤務場所である事務所へ来るようになっていた。
 これが哲郎に少しでも会いたいからという理由だったら、幸せすぎてその日は仕事が手につかなくなるかもしれない。
 小学校以来の付き合いではあるが、哲郎の水町玲子への想いは僅かも色褪せていなかった。
 修学旅行から帰ってきてまだ日が浅いのもあり、お互いの身を案じつつ、とりとめのない会話をする。
 数分程度楽しんだところで、タイムカードを押して出勤の印を刻む。その後、仕事着に着替えて工場へ向かう。
 ここでも挨拶はやはり「おはようございます」だった。年上の同僚たちが哲郎の姿を確認すると、次々に言葉をかけてくれる。
 人間関係は極めて良好で、余分なストレスを抱え込む心配もなかった。逆に様々な知識を持っている哲郎を、誰もが一目置いてくれていた。
 アルバイトに従事した最初の頃は簡単な作業しか任せてもらえなかったが、今ではパソコンを扱った重要な仕事を担当している。
 哲郎がいないと不自由がでるレベルになっており、休んだりすれば所長――つまりは水町玲子の父親が担当するが、効率はグッと落ちる。
 若いだけにまだ娘の水町玲子の方がパソコンを扱えるので、総務から引っ張られることもあるくらいだ。だからこそ、より哲郎は重宝される。
 最初の人生で信用金庫に勤めてからこれまで、誰かにこんなにも期待をされるのは初めての経験だった。
 戸惑いはあるが、決して不愉快ではない。むしろ、期待する相手をもっと喜ばせてやろうと気合が入る。
 自分がこんなにも活動的な人間であるのを、今回の人生で哲郎は初めて知った。それもこれも、すべては愛する少女と幸運をもたらしてくれた例のスイッチのおかげだった。
 午後3時になれば15分の休憩が入り、おやつが支給される。これだけでも、いかに水町工場が好景気かわかる。
 時代は高度成長期からバブルへ向かって快進撃を続ける。街は浮かれ、夜も眠らなくなる。
 東京は人で溢れかえり、取引をする地方にも好景気の波が押し寄せる。すべてはここからだった。
 工場で勤務するのは初めての経験であっても、信用金庫で働いていた知識などは決して無駄にならない。なにせ町工場が主な取引先にするのが、他ならぬ信用金庫だからだ。
 好成績をおさめているだけに、水町工場には大手銀行による融資の話が数え切れなくなるくらい飛び込んでくる。
 とはいえ、迂闊に話に乗って不必要な拡張を行えば、後々にとんでもない負債を抱えるはめになる。
 哲郎だけは知っていた。戦後最高の好景気と言われるバブルは確実に崩壊する。そして後に、失われた十年というこれまた戦後最大の不況がやってくる。
 デフレスパイラルを巻き起こし、大手の証券会社ですら倒産する。その際に多くの町工場も甚大なダメージを受けて、崩壊を余儀なくされた。
 信用金庫の担当者として、哲郎はそのような会社の行く末を散々見てきた。ゆえに水町工場だけは、同じ道を決して歩ませないと強く決意していた。
 水町玲子もその家族も工場も、そして自分自身の家族でさえもすべて守る。強欲だと言われようが、哲郎は何ひとつ譲るつもりはなかった。

 続く


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