リセット

  78

 よく同棲をすれば、相手の嫌な部分が目に付くようになると言う。けれど哲郎の場合は違った。
 パートナーがどう思ってるかは不明だが、水町玲子のどのような点でも全力で愛せる自信があった。
 もっとも人生経験を他者より多く積んでいる分だけ、包容力があるのかもしれない。おかげで同棲開始からしばらく経っても、喧嘩はただの一度もなかった。
 ストレス発散のためには、お互いに全力で喧嘩するのもひとつの方法だと、どこかで聞いた覚えがある。詳細は忘れたが、そうなのだろうかと思って、水町玲子へ我慢してることはないか聞いてみた。
 返ってきたのは「ないわよ」というひと言だった。ほとんど笑顔を絶やさない恋人の女性は、常に哲郎の味方になってくれる。
 いまだ大勢の人間を敵に回した経験はないけれど、絶体絶命の窮地だとしても、哲郎の隣に水町玲子がいてくれるのはわかりきっていた。
 一心同体とまではいかないが、それに近いものがあると哲郎は勝手に理解していた。もちろん相手に確かめたりはしない。聞かなくとも、肯定の返事を貰えると確信しているからだ。
 大学生活にも慣れ、アルバイトも順調にこなしている。問題があれば地元へ戻り、水町玲子の実家の工場を手伝う。そのあとは哲郎の実家で寝泊りし、多少ではあるが親孝行を実施する。
 順調すぎるくらいに人生を消化しており、ここまで楽しいものだったのかと思ってもいた。肉体的疲労は確かにあるが、充実感のおかげでさほど気にならない。どうやら哲郎は、意外と丈夫な肉体を所持しているみたいだった。
 水町玲子との仲にも問題はなく、仲の良い同棲生活を送られている。となると、次のステップに進んでもよいのではないかという考えが哲郎の頭の中に浮かんでくる。
 哲郎と水町玲子の交際は、すでに互いの両親ともに知っている。それどころか、同棲を後押ししてくれたくらいである。
 周りの祝福を得られる状況にあり、将来の就職先も決まっているも同然。無意識にニヤけそうになるのを堪えながら、哲郎は日常を送る。
 大学生としての夏が過ぎ、秋が来て、冬を迎える。夏には忙しい日々の合間に、海水浴を楽しんだりした。恋人女性の水着姿が、頭上で燦々と輝く太陽よりも眩しかったのを、今もなお記憶している。
 秋は二人で手を繋いで紅葉を見に行った。水町玲子がお弁当を作り、心地良いけれども少しだけ切ない秋風に包まれながら頬張った。
 冬も本番を迎えると雪が降り、地元ほど積もらなくとも、肌を刺すような寒さに見舞われた。その分だけ二人の身体は密着し、お互いの体温で冷気を吹き飛ばした。
 そんな日々を送るうちに、哲郎はもっと二人の関係を進ませたいと、ますます願うようになった。
 正月も近くなれば、二人揃って地元に帰省するつもりでいる。その前に、何らかの意思を最愛の女性に見せておきたかった。
 告白こそ自分の力で行ったが、同棲に関しては恋人の父親の意向に助けられた部分が多い。このままでも十分に幸せだが、よりはっきりとした形にしたいと考えた。
 そこで哲郎は迫りつつあるクリスマスに、一大作戦を決行することに決めた。数十年先の未来と違って、今はまだ恋愛色の強いイベントではなかった。
 というより、まだ世間一般に強く認知されておらず、イベントと言えるかどうかも微妙な日ではある。だからこそ、余計な邪魔が入らないチャンスだったりもする。
 別にクリスマスにかこつける必要はない。実際に意義ある内容を送った記憶は、複数の人生においてもあまりなかった。ただ、なんとなく決行しやすそうな気がしただけだ。
 一種のげんかつぎみたいなもので、軽くでも背中を押してくれるのなら何でもよかった。とにかく決めた以上は、実行しようと決意する。
 水町玲子と別行動する日を選び、哲郎は賑やかな繁華街へ足を向ける。

「おかえりなさい」
 同じアルバイト先で働いているので、大学が終わったあとは恋人に知られないように単独行動をするのは不可能だった。
 そのため、特別な事情がない限り、哲郎が水町玲子を自宅で出迎えるような展開にはならない。最近ではすっかり慣れたが、当初は寂しく思ったりもした。
 けれど考えてみたら、哲郎が社会人になれば現在と同じ状況になるに決まっていた。その点を水町玲子も理解しているのだろう。哲郎が遅く帰ってきても、叱責したりはしなかった。
 二十歳を超えて成人になれば、飲み会などのイベントにも参加する必要が出てくる。元来、哲郎はそのようなキャラではないのだが、仕事が絡めばすべて断るわけにもいかなくなる。
 ここから浮気を疑われたりするケースもありそうなので、その点だけは気をつけなければと、今から肝に銘じている。
「た、ただいま……」
 普通どおりにしようと思っていたのだが、帰宅時の段階から声を上擦らせるという愚行を演じてしまった。
 基本的に哲郎より鈍感でないだけに、出迎えてくれた最愛の女性は不思議そうに「どうしたの」と声をかけてきた。
「い、いや……何でもない……」
 声が裏返りそうになるのを修正しきれず、仕舞いには挙動不審さ溢れるリアクションまで披露してしまう。長い付き合いだけに、この時点で水町玲子は哲郎が何かを隠していると見抜いていた。
 あえて言葉にこそしないが、明らかに不審そうな視線で哲郎を射抜いてくる。黙っているのもよからぬ誤解を招きそうだが、今はまだ心の準備ができていない。
 いつもどおりの日常を終えて、ひと段落したところで話を切り出そうと思っていたのに、帰宅直後からこの有様である。ただでさえペースアップしていた鼓動が、さらに加速を強めていた。
 強い動悸が逐一、哲郎に自身の心臓の動きを伝えてくれる。余計に緊張を招き、ひとつひとつの動作がよりぎこちなくなる。
「本当にどうかしたの、哲郎君。何か変よ」
「心配しなくても大丈夫だよ。体調も問題ないし、俺はとても元気さ」
 初対面の人間なら「それはよかった」と言ってくれるかもしれないが、普段から哲郎の隣にいる機会の多い女性には嘘が簡単に露見する。
 怪しみながらも核心をついてこないのは、まだこの時代には男尊女卑の名残みたいなのがあるからだった。
 女性は男性の半歩下がってついてくるのが美徳とされ、亭主関白が1番だという風潮がまだまだ根強い。未来を生きてきた哲郎は違うが、大学の同級生でもそのような思考の男性は意外に多かった。
 理想は理想で、現実は現実。誰もが年齢を重ねれば、割り切れるようになる。結婚生活だけではなく、仕事に関してもそうだ。切なさと引き換えに、人間は成長を手に入れる。
 その切なさを何度も味わっているからこそ、哲郎は人間として大きくなれたのかもしれない。けれどそれは、人生をやり直せるスイッチを手に入れたおかげだ。
 人によっては何十年とあるはずなのに、成長するたびに気付くのは人生の短さだった。ゆえに今を懸命に生き抜こうとする。だがその結論へ辿り着くためには、結構な長い時間を要する。
「それなら……いいのだけれど……」
 哲郎があれこれ考えているうちに、水町玲子もまた自分の頭の中で何かしらの考えをまとめたみたいだった。証拠に何か言いたそうではあるものの、黙って口をつぐんでくれた。
 全部が全部そうだとは言わないが、大抵は夫の浮気に気付いても、無言で知らないふりをする妻の方が多いこの時代。恋人の女性もまた、あれこれと執拗に追及してきたりはしない。
 その代わり、あとでどんな仕打ちを受けるかわからない。もちろんこれは不義理を働いていた場合の話で、哲郎にはまったく関係ないが、過去や現在それに未来に関わらず女性の執念はかくも恐ろしいものだったりする。

 水町玲子が作ってくれた夕食を、ありがたく哲郎は平らげていた。お腹は膨れたが、気持ちは満足していない。
 食欲は十分に満たされたし、今日の味付けも最高で不満はまったくなかった。なのに何故、もやもやした気分を引きずっているかといえば、すべて哲郎に原因があった。
 言わなければならない言葉と、渡さなければならない物があるのに、いつまで経ってもきっかけを掴めない。帰宅時から恋人女性に怪しまれていたが、それは今でも続いている。
 早く喋ってしまえばいいのだろうが、元来、哲郎は度胸のある人間ではない。繰り返しの人生で鍛えられたとはいえ、そうそう簡単に本質は変わらないものだ。
 だからといって、このまま黙っていても何の解決にもならない。重々承知しているのだが、自分でも、もどかしくなるくらいに決心がつかなかった。
 そのうちに二人で銭湯へ行く時間になり、アパートを出る。その間もぎこちない空気が両者を包んでおり、打破できないまま入浴を済ませた。
 普段どおりに出入口で待ち合わせをして、来た時と同様に二人で一緒に帰る。大抵は哲郎が先にお風呂から上がっているが、気を利かせた番台の老婆がいつも水町玲子が着替え終わった時を教えてくれる。
 おかげでどちらかひとりが、寒空の下で長々と待つという事態を防げている。闇夜に湯気が漂う帰り道でも、なかなか会話が弾まない。それもこれも、哲郎の微妙な態度のせいだった。
 同棲相手の女性は怒っているというより、あまりにも変な哲郎を心配している。明らかに好ましくない展開だったが、それでもなお、似たようなやりとりを繰り返すだけで会話が終わる。
 アパートの部屋へ戻れば、翌日の大学の課題を一緒に済ませる。これも普段どおりなのだが、案の定と言うべきか、哲郎は集中力を欠いてしまっていた。
 夜も更けて、段々と眠る時間が近づいてくる。なのに哲郎は部屋着にならず、アルバイト先から帰宅したままの服装をしている。
 ますます怪しむ水町玲子が、再び「どうしたの」と尋ねてくる。きちんと言うべき台詞は頭の中にあるのに、素直に口外へ出せないでいる。
 万が一、断られたらどうしよう。そのようなネガティブな思考がグルグル回り、決心を鈍らせている。
 しかしここで哲郎はふと、これまで何度も自分を助けてくれていたスイッチの存在を思い出す。他の人にしてみたら卑怯としか思えないだろうが、駄目だったのならもう一度やり直せばいいのである。
 そう考えると急に気分が楽になり、哲郎は正面から愛する女性の目を見つめた。
 急に雰囲気が変わったのを察した水町玲子が、先ほどとは違う声のトーンで「ど、どうしたの」と聞いてくる。
「玲子……俺、君が好きなんだ。改めて言うと、凄く照れるけど……」
「え……う、うん。嬉しいよ。私も哲郎君が大好きだから……」
 二人の視線が空中で複雑に絡み合ってから離れる。哲郎が新たな動きを見せたからだ。
 ずっと大事に着ていた上衣のポケットに手を入れ、小さな箱を大事そうに取り出す。これは水町玲子と別行動をしている時に、繁華街で購入してきたものだった。
 怪訝そうに見ていた水町玲子だったが、すぐに中身に察しがついたらしく、これまで哲郎が見てきた中で一番顔を赤くした。
 何かを言いたそうにしているが、余計な発言をせずに、哲郎の次の言葉を黙って待っている。
「ずっと一緒に居てほしい……。でも、まだ学生の身だ」
 哲郎が並べる言葉の数々を吟味するように、静かに水町玲子は耳を傾けてくれている。表情は真剣そのものだが、現在では顔どころか耳まで真っ赤になっている。
 それは哲郎も同じはずだった。鏡で見て確認したわけではないが、尋常じゃないくらい汗をかいている現状から容易に推測できる。
「だから、まずは俺と婚約をしてくれないか。もちろん、大学卒業後の結婚が前提になる。答えがはいなら、これを受け取ってほしい」
 哲郎が震える指先で小さな箱を開けると、そこには貯金を切り崩して購入した指輪が綺麗に輝いていた。

 続く


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