リセット

  79

 美しい以外に表現できない指輪を前に、水町玲子の時間のみが停止したみたいだった。
 目の前で宝石のごとく輝く物体から視線を動かせず、目どころか心まで奪われている。
 どのくらいの時間が経過しただろうか。ようやく恋人の女性が顔を上げ、哲郎を正面から見つめてきた。
「て、哲郎君……これって……」
 最愛の女性の唇が震え、声は擦れている。購入する際に哲郎も心臓をバクバクさせていたが、それより上の興奮と緊張を味わってるみたいだった。
 素直に愛の言葉を囁ければいいのだが、生憎と何回もの人生を繰り返しても、そこまでのプレイボーイにはなりきれない。どんなに経験を積んだとしても、根本はやはり梶谷哲郎というひとりの人間なのだ。
 そして梶谷哲郎は、すぐ側に居る女性を誰より愛している。想いをそのまま口にすればいいだけだ。わかっているのに、すんなり実行できないのがなんとももどかしかった。
 だからといって、いつまでも無言でいいはずがない。世界でもっとも愛している女性は、哲郎からの言葉をずっと待っているのだ。
「それは……その……なんだろ……あの、こ、婚約指輪……だよ」
 真っ赤になっているであろう鼻の頭を、人差し指でポリポリ掻く。先ほどはすんなり「婚約してほしい」と言えたのに、指輪を渡したあとの台詞は見事なまでにどもりまくりだった。
 どうしてこんなに差が出るのかと自分自身でも不思議だったが、仕方ないと割り切って水町玲子のリアクションを待つ。返事が「はい」なら、指輪を受け取ってくれるはずだ。
 たった数秒程度のはずなのに、まるで永遠に感じられる。気が遠くなりそうになった頃、どこからか聞き覚えのある優しい声が降り注いできた。
 声の主は確認するまでもなく、目の前に座っている水町玲子だった。頬を桜色に染めながら、薄っすらと瞳に涙を溜めている。
 どうしたのと尋ねる哲郎に、恋人の女性は微笑んで「嬉しいのよ」と言ってくれる。そのあとでゆっくりと、小さな箱から指輪を取り出した。
「ありがたく……頂戴させていただきます」
 満面の笑みとともに、待ち焦がれた返答が哲郎のもとへ届けられた。悪い意味でのサプライズはなく、順調極まりない展開を見せている。
 ありがとうと細い肩を抱きしめる哲郎に、水町玲子は嬉しそうにしながらも、まずはこれをと指輪を手渡してきた。
 意味がわからずに戸惑う哲郎に対して、仕方ないなといった感じで恋人の女性が意図を説明してくれる。
「哲郎君に、私の左手薬指に指輪をはめてほしいの」
「あ、ああ……わかった」
 緊張で震える指先をなんとか動かして、哲郎は白魚のような水町玲子の左手薬指に指輪を装着させた。
 哲郎がそっと指を離すと、手を大きく開いた水町玲子が甲側から自信の左手を見る。薬指には、間違いなく婚約指輪がはめられていた。
 ただでさえ綺麗な水町玲子の指先を、美しい輝きがグレードアップさせている。言葉もなく見つめる表情は、いつになく幸せに満ちていた。
「嬉しい……哲郎君、本当にありがとう。ふつつか者ですが、これからもよろしくお願いします」
 指輪から視線を離した水町玲子が、部屋の床に三つ指をついて頭を下げてくる。哲郎も慌てて応じ「こちらこそ」と言葉を返した。
 嬉しいのはもちろんだが、どちらかといえば安堵の方が大きかった。もしかしたら、明日以降に実感がわきだすのかもしれない。それはそれで楽しみだった。
「あとで社長にも報告しないとな」
「そうね。哲郎君が今度お父さんに呼ばれた時は、やっと私も一緒に行けそう」
 悪戯っぽく笑う水町玲子に、哲郎は「困ったな」と苦笑する。
「大丈夫よ。今度からは置いていかれても、この子が一緒にいてくれるもの」
 そう言って水町玲子は左手を上げる。電球の光を浴びて、指輪はさらに輝きを増していた。

 週末になり、哲郎と水町玲子は、久しぶりに二人で一緒に地元へ戻ってきていた。
 もちろん婚約の報告をすると同時に、水町工場の社長に頼まれた仕事をこなすためである。
 哲郎は仕事がメインになるが、水町玲子は婚約の報告がメインになる。首尾よい結果を得られて、すでに数日が経過しているものの、未だに恋人の女性は感激した様子を見せてくれる。
 暇さえあれば左手薬指にはまっている指輪を眺め、機嫌良さそうに微笑んでいる。哲郎に対しても常に優しく、料理も心なしか最近は豪華さを増していた。
 現金なものだと苦笑したりはしない。哲郎との婚約で最愛の女性がここまで喜んでくれるのだから、男冥利に尽きる。それに水町玲子の指輪を眺める姿を見るのも好きだった。
「あれ。今回は玲子も一緒に来たのか。哲郎君に迷惑はかけていないだろうね」
 電車が駅へ到着するなり、休憩もとらずに哲郎たちは水町家の工場へやってきていた。
 事務所には社長である水町玲子の父親がおり、二人揃っている姿を見つけるなり、先ほどの台詞を口にした。
「迷惑はかけていません。哲郎君も了承してくれたので、ついてきたのですもの」
 言葉遣いは普段と変わりないが、にこやかさ溢れる態度から、社長も自分の娘が上機嫌なのを察していた。
 最近になって一緒に暮らし始めた哲郎と違い、向こうは家族なので、玲子が生まれた日から十数年にわたって同居している。
 それだけに絆も強いし、何があっても見捨てられなくなる。情の薄い厚いは関係なしに、当然だと哲郎も思っていた。
 哲郎だって実家に戻れば、大事にしている両親が待っている。今夜は帰られるかどうかわからないが、帰省してるうちに顔は見せていくつもりだった。
「そうか。ならいいんだ。せっかく来たんだ。ゆっくりしていけばいい」
 何か問題を起こして帰ってきたわけでもないので、水町玲子の父親は優しい態度で娘の玲子を迎え入れてくれている。
 可愛い我が子も哲郎と一緒に帰ってきたのを、誰かから聞いた水町玲子の母親も慌てた様子で事務所へやってきた。
 恐らくは仕事がひと段落していたので、自宅で洗い物などをしていたのだろう。最近では経理の仕事をしてる以外では、あまり事務所で見かけなくなっていた。
「玲子も来たのね。道中、大事はなかった?」
「ええ、大丈夫です。何かあっても、隣に哲郎君がいてくれるので、心配はいりません」
 水町玲子が胸を張ってそう言うと「それもそうだな」と社長こと恋人の父親が愉快そうに笑った。
 すぐに社長の妻である水町玲子の母親も「そうですね」と同調する。信頼されているのはありがたいかぎりだが、そこまで過大評価されるとどうにもくすぐったくなる。
「もちろん、夕食は食べていくのでしょう?」
 母親に尋ねられた水町玲子は「はい」と頷いた。嬉しそうにして「腕によりをかけて、料理をするわね」という言葉が返ってくる。
 それを聞いた社長も「今夜はご馳走だな」と、ひと際大きな喜びを見せる。なんやかんや言っていても、やはり自分たちの子供の顔が見られるのは嬉しいのだろう。
 幸せのお裾分けを貰えたのか、気付けば哲郎もほんわかした気分になっていた。忙しい日々も悪くはないが、穏やかで平和な日々も違った魅力がある。
 黙ってやりとりを見ていた哲郎だったが、服の裾を婚約者となった水町玲子に数回引っ張られた。
 何を意図しての行動なのかはすぐに理解できた。水町玲子を伴って帰省したのは、仕事のためだけではない。重要な報告をする必要があった。
「あの……家族水入らずの夕食の席に、私も同席してよろしいでしょうか。お二人にお話があります」
 改まった口調で切り出した哲郎の雰囲気がいつもと違うので、よほど大事な案件なのだろうと向こうも察してくれた。
 とりわけ水町玲子の父親は真剣な顔つきになって「わかった」と頷いてくれる。

 仕事も滞りなく終わり、本来なら自宅に帰る時間だが、哲郎は水町家の食卓へ久しぶりに混ざっていた。
 高校生の頃は頻繁に加わっていたが、卒業して上京すると、当たり前のように機会は激減した。
 寂しいとはあまり感じなかった。哲郎の側には、高校生時代と変わらずに最愛の女性がいてくれたからだ。
 その水町玲子と隣同士に座りながら、上座の社長を真っ直ぐに見ている。全員が真剣な表情をしており、現場は強い緊張感でピリピリしていた。
 このような雰囲気を味わうのは久しぶりで、早くも哲郎の喉はカラカラになっていた。
 水を飲んで喉を潤そうと考える冷静さも失っており、額には仕事をしている最中よりも多くの汗が浮かんでいる。
 水町玲子に婚約を申し込む際にも重度の緊張を味わい、若干の気まずさを生み出してしまった。
 だが当時と比べれば決定的な違いがある。現在の哲郎は孤独ではなく、水町玲子というこの上なく心強い味方を得ている。
 当人からの承諾は、すでに得られている。ゆえにあとは報告をするだけだった。けれど鋭い眼光を前に、情けなくも哲郎の身が竦む。
 相手方の両親に気に入られてるのはわかっているのに、ここまで重圧を受けるのだから、普通に結婚を申し込みにいく男性の心情はいかほどになるのだろう。
 考え事をして現実から逃れようとしてるのに気づき、哲郎は慌てて心の中にある勇気を集合させる。ここが一世一代の勝負どころだ。
「大事な話があるそうだけど、何なのかな」
 緊張の面持ちの哲郎を気遣ってくれたのか、わざわざ社長――水町玲子の父親から声をかけてくれた。
 本来ならすらすらと婚約の事実を申し出て、許可を貰わなければならないのに、なんとも情けない姿だった。
 しかし哲郎は自分を元から格好良い人間だとは思っていない。だからこそ泥臭くても、愚鈍に突き進む、これまでの人生もそうやって過ごしてきた。
 大好きな女性を一途に思い、脇目も振らずにここまできたのだ。今さら恐れるものはないと、正面から恋人の父親の目を見る。
「はい。先日、お嬢さん――玲子さんに婚約をしてほしいとお願いしました。そのご報告を……したいと、このような席を設けて頂いた次第です」
 決して失礼にならないように考慮しながら、哲郎は水町玲子との婚約を伝えた。
 すぐ隣に座っていた水町玲子が左手の薬指で光る指輪を見せ、了承した旨を告げてくれる。
 すると玲子の父親はすっと目を細めた。学生の身分でまだ早いのではないか。同棲は認めたが、そこまでは許可した覚えはない。様々な怒声が、哲郎の頭の中を走り回る。
 一体どのように怒られるのかと思っている哲郎の目の前で、いきなり水町玲子の父親は豪快に笑い出した。
 予想外すぎた反応に哲郎は戸惑い、愛想笑いするのも忘れて、ひたすら目をぱちくりさせる。何が起こっているのか、いまいち理解できていなかった。
 そんな哲郎を見て、おかしそうに水町玲子の母親が夫である社長に「哲郎君が驚いていますよ」と言ってくれた。笑いながらの台詞だったので、叱っているという様子ではない。むしろ面白いものを紹介してるようなニュアンスだった。
「ああ、すまない。驚かせてしまったか。いや、あまりにも真面目な顔つきで大事な話だというものでな。何事かとビクビクしていたんだよ」
 笑顔のままで社長がそんなことを言う。すぐに玲子の母親も同意した。
「お父さんね、玲子が愛想を尽かされたと思っていたのよ。それで哲郎君を思いとどまらせるにはどうしたらいいのか、ずっと考えていたみたいなの」
 母親の暴露に、娘である水町玲子が驚きの声を上げる。そんな母娘のやりとりを尻目に、真面目な顔つきに戻った社長が口を開く。
「前にも言ったとが、私は哲郎君を非常に気に入っている。娘の、玲子の夫にしたいくらいだ。こんな幸せな報告なら、いくらでも大歓迎だよ」

 続く


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