リセット
81
「このたびはお日柄も素晴らしく、このような機会を作っていただけましたことを、この上なく喜ばしく感じております」
「……時刻はすでに夜になっており、機会を作ったのはこちら側ではないはずだが……」
超がつくぐらい丁寧な水町玲子の言葉に、哲郎の父親の梶谷哲也が戸惑い気味に言葉を返す。
このような展開を想像していたのだが、今回ばかりは案ずるよりも産むが易しという形容がピッタリ当てはまった。
梶谷宅へ着く前までは緊張しまくっていた水町玲子が、突然にプレッシャーから解放されたわけではない。むしろ逆だった。
哲郎の両親を前にして、さらに緊張の度合いを強くした恋人女性は手土産を持ったまま、全身を硬直させてしまったのである。
本人は明るい笑顔を作っているつもりなのだろうが、表情は微塵も変わっていない。不自然な無表情というわけのわからない状態で、哲郎の父親や母親と向き合っている。
自分から話すと決意していた水町玲子だったが、どうやら誓いは果たせそうもない。そこで哲郎から話を切り出した。
恋人女性から怒られるかと思いきや、助かったとばかりに隣で哲郎が話すたびにうんうんと頷いている。
「なるほど……学生の身分でありながら、婚約か……」
ひととおり話を聞き終えた梶谷哲也が二人――とりわけ哲郎を見ながら呟いた。学生の身分でありながらというところが、父親の心情を表している。
自分の子供がまだ勉強を必要とする状況下で、年頃の女性と結婚の約束をしたと言われたら、哲郎ならば確実に眉をしかめる。
子供の願いを叶えてやりたいと思いながらも、きっと「まだ早いのではないか」と言うだろう。だからこそ、自分の父親が決して現状を歓迎していないと判断できる。
激怒されないだけマシかと考える哲郎に、父親ではなく母親から想定していた台詞が飛んできた。
「まだ大学にも入ったばかりなのだから、もう少しよく考えてからでもよいのではないかしら」
もっともな意見である。神妙に梶谷小百合の言葉を聞く哲郎の隣で、水町玲子は極度の緊張からかわいそうなくらい顔を蒼白くしていた。
なんとか認めてもらうためにも、哲郎が頑張らなければならない。そう思った矢先に、今度は父親の梶谷哲也が口を開いた。
てっきり母親の援軍をするものとばかり思っていたが、口にしたのはこれまた予想外な台詞だった。
「哲郎もその点を理解しているからこそ、結婚ではなく婚約という形を選んだのだろう。私が考えている以上に、よく考えているのはわかる」
「あ、ありがとうございます」
お辞儀をした哲郎のすぐ横で、水町玲子は殿様にかしこまるように額を床につけている。明らかに普段とは様子が異なっており、恋人女性のこのような姿を見るのは、初めてと言ってもいいくらいだった。
誰の目にも緊張しすぎなのがわかり、水町家での時の哲郎と同じような状態になっている。もしかしたら、今日の水町玲子の方が酷いかもしれない。
だからといって、誰も水町玲子を責められない。婚約の報告をするために、相手の両親に会っている状況で、緊張しない人間の方がどうかしている。
わかっているからこそ、梶谷哲也も息子である哲郎にばかり質問してきたりするのだろう。両親に認めてもらいたいと気合を入れていた水町玲子には気の毒かもしれないが、むしろ好都合ではあった。
「それに哲郎は、昔からきちんと学業や仕事も疎かにしていない。多少の不安は覚えるものの、反対するまでは至らないのが私の正直な判断だ」
まだ成人もしていない男女が婚約を済ませるというのだから、保護者は誰であっても不安になる。梶谷哲也の言葉は十分に理解できた。
「わかっています。社会は広くて大きい。まだ学生の身分であるのも重々承知しています。しかし、私には水町玲子さん以外の女性は考えられないのです」
余計な言葉は無用と理解した哲郎は、自分の気持ちのすべてを父親である梶谷哲也へぶつけた。
「……幸せなことなのかもしれなんな」
両の瞼を閉じて、哲郎の気持ちを受け止めてくれた梶谷哲也がふとそんな呟きを漏らした。
場にいる誰もがきょとんとする中、目を開いた父親の梶谷哲也が哲郎に笑いかけてきた。こんなことは初めてだった。
最初の人生でこのような出来事があったならば、もしかしてひっくり返っていたかもしれない。けれど現在の哲郎は、父親が本当は義理人情に厚い男性なのを知っていた。
「思えば哲郎は小学生の頃から、水町さんと交際していたのだったな。当時は子供のままごと遊びみたいなものだと認知していたが、よもや婚約まで順調に進んでくるとはな」
傍目には順調そのものだろうが、当事者である哲郎にとっては波乱万丈の道のりだった。友人に寝取られてみたり、騙されて一家が離散したり、それらすべてを気合と根性それに例のスイッチで乗り切ってきた。
不意にそれぞれの情景が脳裏に浮かんできて、哲郎は涙を流した。その姿を見ていた母親が貰い泣きをし、父親は見守るように目を細めた。
「見えない苦労もたくさんあっただろう。しかし、それでも哲郎はここまできた。もちろん、隣にいる女性の支えも大きかったに違いない」
ここで初めて話の矛先を向けられた水町玲子は、慌てた様子で「いえ、私なんて……」と謙遜の言葉を連発する。
真面目な顔つきの梶谷小百合の隣で、梶谷哲也がおかしそうに微笑む。哲郎にはほとんど見せてくれたことのない顔だった。
「君に自覚はないかもしれないが、哲郎にとっては力の源だったはずだ。違うか?」
視線を向けられると同時に問われた哲郎は、躊躇いなく顔を頷かせた。梶谷哲也の指摘は寸分違わずに正しかった。
水町玲子という女性がいなければ、哲郎は平凡な人生に満足して最後を迎えただろう。良いか悪いかは別にしても、確実に今とは違う人生を歩んでいた。
実際に最初の人生では、女性とほぼ縁のない生活を送っていた。それでもいいと思っていたが、ひょんなことから過去をやり直せるスイッチを手に入れた。
半信半疑で使ってみた結果、哲郎は小学生時代まで戻っていた。そこからすべてが始まったのだ。
「間違いありません。先ほども申し上げたとおり、私には水町玲子さん以外の女性は考えられません。すなわち、彼女がすべてということです」
きっぱり断言した哲郎を、梶谷哲也はどこか頼もしそうに見ていた。ひょっとしたら、息子の成長を喜んでいるのかもしれない。父親の気持ちは父親にしかわからないが、そんな気がしていた。
感動した水町玲子が「哲郎君……」と名前を呼ぶ中、改めて梶谷哲也は「幸せだな」と口にしてきた。
「一生をかけて愛せる女性を、幼い頃から見つけられていたのだ。これを幸せと言わなかったら、何を幸せと呼べばいいのかわからなくなる」
幸せの形は人の数ほど存在するけれど、確かに父親の言うとおりだと哲郎は思った。
考えてみれば哲郎の人生には、最初から水町玲子という絶対的なヒロインがいた。これは素晴らしく幸運なことだ。
「そう思います。だからこそ、今回の決断に至りました」
改めて同棲の報告をすると、今度はしっかりと梶谷哲也は頷いてくれた。了承の返事なのは水町玲子にもわかったらしく、笑顔を浮かべて胸を撫で下ろしていた。
ようやく笑みを浮かべられるまでになった恋人女性と一緒に、哲郎は父親の梶谷哲也へ「ありがとうございます」とお礼を言う。
すでに水町家には承諾を貰っているので、これで哲郎と水町玲子は晴れて婚約できることになった。
恋人から婚約者へ。長年交際してきた水町玲子の顔を見つめながら、哲郎はひとり感慨に耽る。
そんな哲郎をからかうように声をかけてきたのは、水町玲子の父親だった。
婚約の了承を哲郎の両親に貰ってすぐ、水町玲子は実家に報告した。直後に両家の顔合わせとなったのである。
とはいえきちんとした形式のものではなく、婚約を目出度いなと祝う食事会みたいなものだった。
明日には哲郎も水町玲子も上京先へ戻らなければならないため、急遽席が設けられた。正式な結納は後日、取り次ぎ役の仲人を決めて執り行うことになった。
恐らくは大学が春休みに入る頃になるだろう。なので今は内々に婚約を決めた段階になる。それでもこの日を夢見てきた哲郎には、十分に感慨深い出来事になった。
知り合いの食堂を借り切っての会食は、和やかというより宴会気味になっている。水町玲子の父親が、普段はほとんど飲まないお酒に酔ってるのが証拠だった。
元々、互いに顔見知りなので顔合わせみたいな雰囲気はない。寡黙な梶谷哲也の舌も、今夜ばかりは若干滑らかになっている。
母親どうしはなにやらぎこちない感じもするが、すぐに打ち解けるだろうとあまり気にしていない。大切なのは、哲郎と玲子の気持ちだ。
二人ともにお互いを好きあっており、一緒になるのをそれぞれの両親が認めてくれた。あとは正式な結納を行って、婚約を成立させるだけである。
今から待ちきれないが、それまでに決めることは山ほどある。仲人さんに結納の品などが筆頭だ。もっともこれは家の面子もあるので、父親の梶谷哲郎と相談して決めることになる。
仲人に関しては両家の父親同士で決める可能性が高い。本来なら縁談を取り決めてくれた人にお願いするべきなのだが、哲郎たちの場合はお見合いなどを一切経験していない。この時代ではまだ珍しい恋愛結婚になる。
なので結納や結婚式にだけ仲人をお願いする形になる。だからこそ両家とも、それなりに仲の良い人間に頼むはずだった。
数十年先の未来なら婚儀に関するしきたりや取り決めもずいぶん自由化されているが、この時代ではまだまだ厳しかったりする。
互いの身分が違いすぎて、などというドラマみたいなケースもさほど多くないながらも存在している。そんな中、心から好き合ってる者同士一緒になれる。これほどの幸せはなかった。
これもすべて哲郎の地道な努力が実を結んだというべきかもしれない。娘婿が恩人ではなく、ただの一般家庭の息子だったなら、ひょっとして実家が工場主体とはいえ会社を経営している一人娘を嫁に出さなかったかもしれない。
あくまでも憶測にすぎないが、現在みたいにとんとん拍子に進んだかは疑問である。なにせこの場に至るまで、哲郎は水町家の窮地を救っただけでなく、発展にまで尽力していた。
そのおかげもあり、水町家の両親に可愛がられ、早くから娘の結婚相手に相応しいという評価を貰っていた。本当なら婿が欲しいはずなのに、哲郎が相手であればという理由で同棲も婚約も認められた。
これが最初の人生だったのであれば、途中でどこかに躓いていたはずだ。実際に小学生時代の告白の時点で失敗していた。
過去をやり直せるスイッチの影響力を実感すると同時に、この上ないありがたさを感じる。あとで改めて、感謝の言葉を告げるのもいいかもしれない。
相手は装置なので人間の言葉を理解できるとは思えないが、それくらいしても罰は当たらないだろうし、むしろ当たり前のような感じもする。
「どうした、哲郎君。まさか、ここへきて、玲子と一緒に生活するのが怖くなってきたかな」
「え。お、お父さん……それは一体、どのような意味でしょうか」
父親に対して丁寧な言葉を使ってはいるものの、水町玲子の目はかつてないほど鋭く、そして厳しかった。
普段なら「なんだ、その生意気な態度は」と怒るのかもしれないが、今日ばかりは父娘間でも完全な無礼講になっていた。
そこへ飛び込みで混ざりながら、哲郎は「そうかもしれませんね」と冗談を口にして笑う。
おかげで水町玲子が頬を膨らませてしまったが、場をさらに和ませてくれたので、まあいいかと考える。
結局この日は、かなり夜遅くまで顔合わせという名の宴会が続けられたのだった。
続く
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