リセット

  82

「えへへ……なにか……照れるね……」
 地元での騒がしいけれど嬉しい日々を終えて、所属する大学のある土地へ戻ってきた直後に、水町玲子が呟いた台詞だった。
 先日は別々の家で眠ったのだが、今日からはまた同じアパートで生活する。部屋に帰っても、婚約者の頬は赤いままだ。
「内々ではあるけれど、恋人じゃなくて婚約者なんだよね……」
 そう言った水町玲子の顔全体が赤くなる。極度に照れてるのはわかるが、見ている哲郎まで赤面してしまう。そうだよと応じる声が裏返りそうになり、危うく笑われそうになる。
 思えば長かった。哲郎はひとりで、これまでの道のりを考えてみる。たくさんの苦労はしたけれど、自らの望んだものだったので、決して逃れたいとは思わなかった。
 そうして今日まで辿り着いている。原因があれば結果がある。頑張ったからこそ、幸せな現在に繋がっているのだ。
 仮に今が幸せでなくとも、正当な努力をすれば必ず報われる。それが今の哲郎の持論になりつつあった。
「ほんの少し前までは、一緒に小学校とかに通っていたのにね……」
 感慨深そうに水町玲子が呟く。哲郎と同様に、過去の出来事をひとつひとつ思い返しているみたいだった。
「あの頃はあの頃で、意外と楽しかったけどね」
「うん。私もそうだよ。大好きな哲郎君と、一緒に歩んでこれたもの。中学生時代は少し心配だったけどね」
 悪戯っぽく笑って、水町玲子が舌を出す。計算したわけでなく、地で行っているからこそ素直に可愛いと感じるのだろう。
 もっとも異性の哲郎に受けがよくても、同性にはどうなのかわからない。下手をしたら、嫌われる可能性もある。
 しかし水町玲子は、その辺はうまく使い分けていた。先ほどのような仕草を見せるのは、大抵が哲郎と二人きりの時だ。
 大勢で集まっている場合は、優しくて気立ての良い女性になっている。わざと演じている様子はなく、自然とそうするべきだというのが身についているように見えた。
「どうして心配だったの」
「だって、通っていた中学校が別々だったじゃない。哲郎君、小さい頃から女性に人気が高かったもの」
「それを言うなら、俺の方だ。誰かに玲子を取られるんじゃないかと、ずっとドキドキしてたからね」
 水町玲子は自分を喜ばせるために気を遣ってくれたと思っているみたいだが、実際にそうだったので、哲郎はまったく嘘をついていない。
 過ぎ去ってきた人生のひとつを思い返せば、心配していたとおりの事態になったケースもある。あの時は膨大なショックで、愕然としたものだった。
 婚約まで辿り着いて余裕ができた現在では、あのまま人生を進めていたら、水町玲子は幸せになれていただろうかなんて考えたりもできる。
 とはいえ検証してみようなどとは思わない。哲郎が現在の人生に十分満足しているし、最愛の女性を手放したいなんて願望は微塵もなかった。
 しばらく無言だったが、ふと水町玲子が哲郎の顔を見て「うふふ」と笑った。あまりに嬉しそうだったので、思わず「どうしたの」と聞いてしまう。
「もうすぐ婚約をして……大学を卒業したら、哲郎君と正式な夫婦になるのね。新婚生活を想像していたら、急に楽しくなってきたの」
 新婚生活――。これまでの哲郎の人生にはなかった、ずいぶんと甘い響きを含む言葉だ。耳にしただけで心が躍り、頭の中で声にしてみるとたまらない気持ちになる。
「楽しみだね」
「ああ。でも……意外に、今とたいして変わらないかもしれないぞ。もう同棲はしてるんだしな」
「もう……夢のない台詞ね。それでも構わないの。私にとっては、哲郎君と同じ苗字になるのが夢だったから……」
 右手と左手の指を唇の前で交差させて、はにかむ姿がこれまた愛らしかった。数十年先の未来では、夫婦別姓が良いと叫ぶ女性が多い中、嬉しい発言でもある。
 もちろん夫婦別姓が悪いわけではない。それぞれに色々な意見があって当然だ。しかしながら哲郎もまた、最愛の女性が自らの梶谷姓を名乗ってくれるのが何より嬉しかった。

 正式な婚約の日取りが決まるまで、哲郎は勉学とアルバイトの両立に励んでいた。通常の学業はもちろん、暇があれば工場経営のノウハウを学んだ。
 お正月には水町玲子とともに帰省をし、それぞれの家で過ごした。家族水入らずの時間を作ったあとで、互いの家にお邪魔をする。
 高校時代からアルバイトとして出入りをしていただけに哲郎は水町家に慣れているが、玲子の場合は違う。たまに遊びに来た経験がある程度で、じっくり会話をしたり食事をしたりするのは初めてに近い。
 だからこそ余計に緊張し、何を問いかけられてもまともに話せないケースがほとんどだった。もっとも梶谷哲也はそれを怒ろうとせず、むしろ温かく見守っているような感じさえ受ける。
 口数が少ないのをでしゃばらない性格と捉え、好感を抱いたのかもしれない。詳細は不明だが、特に嫌われている様子はなかった。
 水町家と梶谷家でおせち料理やお雑煮を楽しみ、ゆっくりと年末年始を過ごして再び上京する。
 大学が始まるまではまだ時間があったものの、現在アルバイトとして働いている会社から、できるなら新年早々に出勤してほしいと要望されていた。
 母親の梶谷小百合は不満げだったが、父親の梶谷哲也は会社に必要とされてるのは素晴らしいことだと哲郎を褒めてくれた。
 そうなれば梶谷小百合は何も言えず、哲郎は失意の母親に謝罪をしながら電車に乗って上京先へ帰ることになった。
 水町玲子も同じ会社でアルバイトをしているが、こちらには出勤の要請がなかったので、もう少し自宅でのんびりしていることになった。
 本当は結婚する男性を支えるのが妻の仕事だと、一緒に帰ると言ってくれたのだが、他ならぬ哲郎が実家で少しは羽を休めなさいと勧めた。
 アパートへ戻ってくれば、炊事や洗濯などの哲郎の世話を一手に引き受けなければならない。その前に精気を養ってほしいと気遣ったのである。
 数十年先の未来なら「当たり前でしょう」と女性陣に言われるかもしれないが、この時代はまだそこまで達していない。夫となるべき男性をひとりで帰したとなれば、どのような陰口を叩かれるかわからないのだ。
 だからこそ哲郎が強い口調で命令したとアピールし、実家でゆっくりする機会を提供した。最初は複雑そうな表情をしていた水町玲子も、最終的には「ありがとう」と好意を素直に受け取ってくれた。
 そして哲郎の出発する日。梶谷小百合だけではなく、水町玲子も見送りに来てくれた。本当なら大学が休みの間は羽を伸ばしていてよいのだが、数日後にはアパートへ戻る予定になっていた。
 あまりしつこく実家で休むのを勧めると、どうして一緒にいたくないのと問われる事態になりかねない。心配もほどほどが一番だというのを、これまでの人生で十分に学んでいた。
 電車に乗り込み、出発の合図を聞きながら、窓から流れていく景色を眺める。ホームを出ようとしたその瞬間、哲郎の視界は不意にひとりの人物を捉えていた。
 高橋和夫である。子供の頃はお調子者で、よく女子をからかったりしていたのを今でも覚えている。けれどそれは最初の人生の話であり、現在でも当てはまっているかどうかは不明だった。
 どうしてここに高橋和夫がいるのか。けれどその疑問を解消するどころか、置き去りにして電車は真っ直ぐに進んでいく。動揺を抱えた哲郎を乗せて、走り続ける。

 その日の夜。自宅であるアパートに帰っていた哲郎は、迷った末に水町玲子の家へ電話をかけていた。我ながら女々しいと思ったが、どうしても気になって仕方なかったのだ。
 アパートには共用の電話が入口付近にあり、誰もがそこで電話をかけることになる。事前に管理人に申告しなければならず、きっちりと使用時間を調べられる。
 使用し終わったあとに、通話時間に基づく料金を請求される。多少相場より割高な感じがしなくもないので、どうしても利用したい時以外は控えていた。
 けれど今回はそうも言っていられないので、管理人に頼んで電話の使用許可を貰っている。すぐに電話は繋がり、丁度よく水町玲子が出てくれた。
「玲子か、俺だよ。哲郎だ」
 管理人がじっと見てる前で恋人女性と会話するのは多少気恥ずかしいが、内々で婚約者に決まっている水町玲子が相手だけに、とりあえずは堂々としていて問題はなかった。
 受話器の向こうからは「あれ、哲郎君」と不思議そうな声が返ってくる。
 どうかしたのといつもどおりの調子で尋ねてくる水町玲子の声を聞いてるうちに、やはり高橋和夫の件を聞くのはみっともないのではと思い始める。
 明確な理由はなくとも、声が聞きたかったからで十分、相手女性に好印象を与えられる。
 片手で受話器を持ちながら悩みぬいた末、最終的に哲郎は疑問を解消しようと決めた。
「今日、駅を出発する時に、高橋和夫を見たんだけどさ」
 哲郎がそう切り出すと、即座に水町玲子が「ああ」と少し高い声を上げた。
「高橋和夫君のことなんだけどね。実は私、今日会ったの」
 水町玲子の告白に、哲郎の心臓が極限まで跳ね上がる。一瞬にして息が苦しくなり、尋常じゃない動悸に襲われる。
 大丈夫だと自分に言い聞かせながら、婚約者となった最愛の女性が続ける言葉を待つ。
「それこそ、哲郎君を駅で見送ったあとだったんだけど、いきなり高橋和夫君が私の前に現れたの」
 この時点で多少は安堵する。水町玲子は高橋和夫と密会していたわけではなく、偶然駅で出くわしたにすぎなかった。
「久しぶりねとお話してるうちに、喫茶店へ誘われたんだけど……哲郎君、高橋和夫君に私とお茶するようにお願いした?」
「え? そんな話していないし、初耳だよ」
 まったく予測していなかった質問に動揺し、若干声を裏返らせながら答えた。すると水町玲子は「良かった」と安堵した。
「高橋和夫君にそう言われたんだけど、それなら哲郎君は私に話してくれるはずだからと断ってしまったの。知らない人ではないし、一緒に喫茶店へ行ってあげればよかったのかな」
 電話向こうで首を傾げてそうな水町玲子に、哲郎は「その必要はないよ」とはっきり告げた。
 高橋和夫がどのような魂胆を持っていたにしろ、水町玲子と哲郎の仲を壊すつもりなら看過できない。それなりの対処をする必要があった。
「そうだよね。私も嘘をつかれたのがわかったから、誘いを断ったの。それに、哲郎君と内々に婚約をしたことも伝えたわ」
「そうか……ありがとう。玲子にはだいぶ気を遣わせてしまったね。それで高橋和夫は何て言ってたの?」
「最初は黙っていたけれど、最後にはおめでとうと祝福してくれたわ。あとは何もなく、普通に立ち去ったから、どこへ行ったかまではわからないの。ごめんなさい」
「そこまでわかれば大丈夫だよ。むしろ追ったりしなくてよかった。それにしても、やっぱり玲子は人気があるんだね」
 本音を漏らした哲郎に対して「そんなことはないよ」と応じた水町玲子だったが、急に声の調子が少しだけ変わった。何か隠していることがありそうとかではなく、悪戯を考えついた子供みたいな感じだ。
「哲郎君……もしかして、嫉妬をしていたのかしら」
 照れ隠しに何でもないと電話を切るのは簡単だし、実際に最初の人生であれば、そのように行動していたはずだ。
 けれど現在の哲郎は様々な経験を経て、十分な成長を果たしている。多少は相手の気持ちも理解わかっているつもりだった。
「もちろんだよ。だって玲子は、俺にとって世界で一番大切な女性だからね」
「え? あ、あの、その……」
 直球すぎる哲郎の回答に、悪戯を仕掛けた水町玲子の方が逆に戸惑ってしまった。
 そんな婚約者の慌てた様子を電話口で楽しみながら、最後に哲郎は「おやすみなさい」と告げた。時刻はすでに夜なので、何事もなければあとは睡眠まで連絡をとったりはしなくなる。
「うん……おやすみなさい。私も哲郎くんが、世界で一番大切だよ」
 恐らくは実家で赤面してるであろう水町玲子の言葉は、このまま電話を切ると思っていた哲郎への不意打ちとなった。
 今度はこちらが慌ててるうちに電話が切られた。素直にやられたと哲郎はため息をついた。きっと今頃、最愛の女性はしてやったりとばかりに舌でも出していることだろう。

 続く


面白かったら一言感想頂けると嬉しいです。



小説トップページ ・ 目次へ ・ 前へ ・ 次へ