リセット

  85

 新生活が始まった。大学時代のスタートもそれなりに心躍ったが、今回はその比でなかった。
 結婚式を終えた数日後に、哲郎と水町玲子は一緒に役所へ婚姻届を提出しに出かけた。
 これにより水町玲子の姓は梶谷へ変わり、正式な夫婦と国に認められた。一緒に暮らすのは大学生活と変わらないが、この事実だけでも心境はおおいに変わる。
 当初は水町家へ住もうと考えていたが、玲子が嫁に来たのだからという理由で、梶谷家で一緒に暮らすことになった。
 もっともあくまで当分の間に限られる。立派なマンションなどが極端に少ないこの時代、賃貸生活をするよりは自分たちで家を建てようと考えた。
 哲郎の就職先は水町家の工場のため、都会の一等地を購入するような大量の資金は必要としなかった。
 それでも結構な金額はかかるので、これまでの貯金をつぎ込んでもすぐにとはいかない。そこでしばらくはどちらかの家で暮らそうという案がでた。
 結局は梶谷家へ落ち着いたものの、一日の半分以上は会社にいるので、どちらで生活しているかはわからないような状態だった。
 とはいえ父親の梶谷哲也も同様の状況であり、母親の梶谷小百合はある程度、慣れているみたいだった。
 高校生時代にアルバイトをし、大学時代も週末などによく帰省して仕事を行った。おかげで現在の業務内容も、きちんと把握できている。
 大学卒業後、地元で就職するなり、哲郎は責任のある立場を任された。次期社長も同然なのだから当たり前で、昔から知っている古参の社員も納得してくれた。
 大学時代に上京先の会社でアルバイトしていた経験も手伝って、哲郎は以前よりもずっと機敏に業務をこなせるようになっていた。
 加えて的確な判断と、豊富な金融知識も所持している。何より学歴が素晴らしいため、交渉先の会社からも決して見下されたりしなかった。
 一方で妻の梶谷玲子も同じ大学を卒業しており、首席の哲郎ほどではないにしろかなりの成績上位者だったはずである。
 有名大学を卒業した二人が地方の工場へ就職するのだから、同地域の他会社の役員たちは心底羨ましがっていた。
 交友関係は加速度的に広がり、市長などとの面識もできた。小さな町だったのもあり、哲郎は瞬く間に立派な青年として評価されるようになった。
 工場の業務を含めてかなりの権限を得た哲郎を、経理と総務を兼任する妻の梶谷玲子が支えてくれる。
 元々軌道に乗っていたのもあり、水町家の工場はますます発展していく。仮に哲郎が社長になったとしても、簡単に社名を変えられない規模にまで成長しようとしていた。
 夫婦生活も順調……といきたかったのだが、仕事がメインになっているため、なかなかゆっくりする機会を設けられなかった。
 事務系を担当している玲子は哲郎よりもひと足先に退社し、梶谷の実家で食事を作って待ってくれている。
 これまで家事は梶谷小百合ひとりが担当していたが、玲子が嫁入りしてからはなるべく二人で行うようになっていた。
 同棲中もずっと玲子の手料理を食べていた哲郎に食への不満はなく、父親の梶谷哲也もさして文句を言わずに作ってもらった料理を平らげた。
 家事があるからとなかなか一緒に食卓を囲めなくなっている母親が心配ではあったものの、すぐに現在の生活にも慣れるだろうと問題していなかった。
 嫁入りした玲子も哲郎の両親へ積極的に話しかけ、なんとか打ち解けようと頑張ってくれている。
 最初のうちはすれ違いや誤解があるかもしれないものの、そのうちにきっとスムーズに生活できるようになる。楽観的すぎるかもしれないが、哲郎はそう考えていた。
 食事が終われば風呂に入り、少しゆっくりしたあと哲郎の部屋で夫婦一緒に就寝する。
 実家住まいではなにかと恥ずかしさもあるだろうからと、本格的な子作りは自分たちの家を建ててからと決めていた。
 眠る前に「おやすみ」と告げて、軽く唇を重ねるくらいのスキンシップしかとれなくとも、哲郎は十分に幸せだった。

 仕事はひとりで黙々とする方が、気疲れもなくて良い。哲郎が最初の人生で抱いていた指針は、脆くも崩れ去っていた。
 気心が知れた仲間や先輩に囲まれながら、やりがいのある仕事を任せられる。得られた充実感は、想像していたよりもずっと多かった。
 繰り返してきた人生において、責任のある立場になった経験もある。けれど現在とはことごとく事情が違っていた。
 周りとはあまり話をせず、自分の仕事だけを淡々とこなす。業務評価はそれなりにあるけれど、付き合い難い人物――時には変人と呼ばれたりもした。
 日々の糧を経て、生きていられるだけでもある程度の幸福感を獲得できた。人生なんてこんなものだと、自分なりに満足もしていた。
 けれど当時の哲郎は、言わば井の中の蛙だったと気づく。世界はこんなにも広くて、色彩豊かだったのだ。
 たったひとりの少女が、哲郎の人生を大きく変えてくれた。それもこれもすべて、最初の一歩を踏み出す勇気があるかどうかだった。
 何度も人生をやり直せたからこそ、その事実に気づけたというのがなんとも皮肉だ。例のスイッチがなければ、不幸ではないにしろ、六十余年を過ごしてきたように残りの日々を送っていた。
 だけども今は違う。愛する者の幸せを願い、会社と仲間のために働く。そうすることによって、自分自身の幸せへ繋がってくる。
「今日もご苦労さん」
 社長である旧姓水町玲子の父親は、社長でありながら主に工場で勤務するようになっていた。
 取引先を相手の商談でふんぞり返っていてもよさそうなのに、一般の社員に混じってせっせと汗をかいている。
 一方で数々の会社と商談を行っているのが、他ならぬ哲郎だった。言わば社長業を任せられているも同然なのである。
 次期社長同然なのに加えて、交渉能力が高い哲郎を前面に押し出したのは社長の指示だった。
 当人は会社を立ち上げた古参の社員たちと、笑いあいながら働いているのが一番の幸せのように話している。
 奥さんで副社長を務めている玲子の母親は、そんな夫を懐かしそうに眺めながら「昔に戻ったみたい」とよく感想を漏らしている。
 いずれは哲郎が社長になったら、自分もまた娘の玲子に副社長の座を譲るつもりなのだと、いつか話してくれた。
 決して大きな会社ではないものの、トップに近い立場にいる哲郎を両親は誇らしげにしていると思っていた。
 けれど父親の梶田哲也は、哲郎が好きで選んだ仕事なら何でもいいと言った。突き放してるようにも感じられるが、言葉の裏にはやりたいようにやれというメッセージが込められている。
 若い頃は気づかずに反発し、壮絶な親子喧嘩に発展するものだが、他者よりとにかく人生経験の多い哲郎はそうした配慮にも気付けるようになっていた。
 母親の梶谷小百合とは最近、会話をする機会が減っているような気がする。家に戻れば話しかけてはくれるのだが、哲郎が忙しくて応じてあげる余裕がなかった。
 少し時間ができても、自分の部屋で妻になった玲子との会話に費やす。それが当たり前の形だと勝手に判断していた。
「哲郎はいつも忙しいのね」
 ある日、母親がポツリと呟いた。その時は「ごめんな」としか言えず、梶谷小百合も「いいのよ」と返してくれた。
 代わりに丁度その場に居合わせた父親が、責任ある立場にいるのだから、忙しいのは当たり前だと哲郎をフォローした。
 当時はまだまだ男性が前線で働く機会が多かったので、哲郎の現状を家族内で誰よりも理解していた。
 家主の言葉には重みがあり、梶谷小百合もそうですよねと納得せざるをえなかった。
 いつか両親にもきちんと親孝行をしなければ。そう思ってはいたが、機会をなかなか得られないままに時間ばかりが過ぎていく。

 忙しい日々を送るうちに時間ばかりが経過していく。着実に貯金もできて、夫婦仲も順調。ただひとつ気がかりなのは、子供ができていないことだった。
 そんなふうに現状認識をしていた哲郎にある日、突然に難題が降りかかってきた。予定よりも早く、愛妻が家を建てないかと提案してきた。
「そうだな……確かに自分たちの家を建てようとは、前々から決めていたしな。でも、もう少し待てないのか」
 妻の実家の工場は、哲郎がきちんと就職したおかげで、ますます経営規模が大きくなっていた。
 地元でも有数の企業に成長し、国内だけでなく国外からも仕事を得られている。それもこれも哲郎の力が大きく、すでにまともな休みはなかなかとられない状態になっていた。
 自宅へ帰らずに、仕事場で泊まる機会も増えていた。妻も一緒にと言ってくれたが、実家の両親を心配させたくないのもあり、きちんと梶谷家へ帰らせていた。
 本来なら水町家は玲子の生まれ育った家であるため、ひとつの逆転現象みたいになっていた。とはいえ元々哲郎は気に入られていたので、たいした不便も感じていない。
 梶谷家でも玲子をきちんと迎え入れてくれていたので、何の心配もなく哲郎は仕事に集中していた。
 実際に企業の中枢に関わった経験が乏しく、自分の実力で会社を大きく成長させていくのは初めてだった。
 人付き合いの拙さが改善されてきたのもあり、哲郎は現在の仕事にかなりのやりがいを見出していた。
 それがひいては水町家の――愛妻である玲子のためになると信じて疑わなかった。だからこそ、パートナーからの大切なサインをことごとく見逃してしまった。
 今回も久しぶりに哲郎は梶谷家へ戻っており、きちんと休めそうな数少ない機会だった。
 話を聞いてあげるべきだとわかっていたが、連日の仕事浸りによる疲労で休みたいという思いが強かった。
「ごめんなさい、我侭を言って。でも、できるだけお義父さんやお義母さんに迷惑をかけたくないの」
「それはわかるけど、どうしたんだ。もしかして、迷惑だとか言われたのか? それなら俺が親父やお袋と話をするけど……」
「え、ち、違うの。そうじゃないの……本当よ。ごめんなさい。私が急に変なことを言い出すから、あなたを困らせてしまったわね」
 深々と頭を下げて謝罪したあと、愛妻はこの話題は終わりと会話を打ち切った。
 哲郎が突けようとしても「大丈夫」と微笑むだけなため、素直に玲子の言葉を受け取っておく。きっと周囲でも結婚する人間が増えてきたので、一戸建てを持ちたくなったのだろう。
 そう判断した哲郎は「何かあったら、また話して」と告げて、布団へ入る。ゆっくりと睡眠をとって、明日の仕事へ備えなければならない。
「……おやすみなさい」
 一緒の布団で眠る愛妻が、寂しそうな声を出したため、哲郎は慌てて隣にいる玲子を見た。
 けれどその顔は反対側へ向けられており、どのような表情をしているかは確認できなかった。
 もっときちんと話そうと思ったけれど、布団に入ったせいで哲郎は強烈な睡魔に襲われた。
 結局この夜はそのまま眠り、次の日の朝は忙しなく会社へ出発してしまったため、再度妻の玲子と会話をする機会は得られなかった。
 会社でも別々に仕事をしているので、言葉を交わす場面は簡単に作られない。加えて業務にとりかかれば、一生懸命になるので頭からその案件が離れてしまう。
 そうこうしてるうちにまたもや日々は流れ、哲郎にとって運命の日を迎えることになる。

 続く


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