リセット

  86

 その日、勤務してる会社の社長からのひと言で、唐突に哲郎は異変に気づかされた。
「玲子は今日、休みなのかな」
 昨夜も工場へ泊り込んでいた哲郎は、誰よりも早い時間から出社して、業務に励んでいた。
 当然事務所でタイムカードを押す時間には誰も来ておらず、いつものようにひとりで出勤前の準備を完了させている。
 それが日常になりつつあったので、哲郎がひとりで出勤してるからといって、誰かに怪しまれたりはしなかった。
 おかげで自分のリズムで仕事はできていたのだが、日常の些細な変化を見逃す事態を招いてしまった。
「……出勤して……ないんですか?」
「ああ、どうやらそうみたいだ」
 嫁に出した娘が来てないからといって、社長は哲郎を怒鳴りつけたりしない。泊り込みで毎日頑張っているのを知ってるからだ。
「哲郎君は昨日も泊り込みだったみたいだな。それなら、事情はわからないか……。まあ、玲子も立派な大人なんだから、こちらからあれこれ言う必要もないだろう」
 社長は哲郎に仕事の邪魔をしてすまなかったと告げ、自分の持ち場へ戻っていく。すぐに事務所で確認してみようかとも考えたが、まだまだやるべきことが残っている。
 本来ならば電話をかけるべきなのかもしれないが、差し迫った仕事を放置してはいけない。とりあえずは目の前の業務に集中し、今日はきちんと家に帰ろうと決める。
 今日ばかりは残業をせずに帰宅しようと思っていたが、責任ある立場を任されているだけに、自分の都合だけで行動するわけにはいかなかった。
 やっと仕事がひと段落して、帰宅できた頃にはすでに日付が変わろうとしていた。
「あら、哲郎。今日は帰ってこられたのね」
 いまだ同居している実家へ帰ってきた哲郎を、満面の笑みで母親の梶谷小百合が出迎えてくれる。
 すぐに食事を用意してくれると言うが、ありがとうとお礼を返してる場合ではなかった。
「玲子って、具合でも悪いのかな」
「え、そんなことはないと思うわよ」
 ずいぶんと梶谷小百合の態度が素っ気無い。不思議に思いながらも、玲子が今日、会社を無断欠勤したことを教える。
「そうだったのね。哲郎が頑張ってるのに、支援しないなんて至らないお嫁さんね」
「それは言いすぎじゃないかな。ところで玲子は? 家にいるんだよね」
 少しだけ罰の悪そうな顔をする――などということもなく、しれっと梶谷小百合は「知らないわよ」と返してきた。
 同じ家に住んでいながら、知らないというのも変な話だ。哲郎は慌てて大事な奥さんの姿を探してみるが、梶谷家のどこにも姿はなかった。
 部屋は妙にきちんと片付けられていて、生活感もあまりない。もっとも仕事で忙しい哲郎が、あまり家に帰ってこないので当然かもしれなかった。
 それでも水町から梶谷へ姓を変えた玲子が暮らしているのだから、少しくらいは生活の名残が感じられてもよさそうなものである。
「どうして玲子はいないんだ。どこへ行ったか、知ってるのかい」
「そんなことよりも、夜食ができたわよ。軽めでいいわよね」
 何故か楽しそうにしている梶谷小百合へ「母さん!」と声を荒げ、玲子の現状を教えるように詰め寄った。
「ほ、本当に知らないのよ。朝に出勤すると出かけて、それきりですもの」
 母親の言葉に嫌な予感を覚えた哲郎はすぐに玄関へ向かうと、靴を履いて家を飛び出した。
 どこにいるか見当がついているわけでもないが、とにかく走り回って愛妻の無事な姿を確認しようとする。
「玲子、どこだっ」
 ご近所に恥ずかしいなどとは思わず、誰かがいそうな場所へ到着すると、必ず声をかけた。
 1時間は探し回っていたが、一向に玲子を見つけられない。実家へ戻ったのであれば、哲郎が退社するまでの間に何か情報が入っている。
 となればやはり、梶谷家と水町家以外の場所にいる可能性が高かった。一度、自宅へ戻ろうかと考えたが、哲郎の脳裏にふとある場所が浮かんできた。
 いるかどうかはわからないけれど、とにかくそこへ行ってみようと、疲れも忘れて哲郎は再び走り出した。

 息を切らして到着したのは、思い出の小学校。母校であり、ここで哲郎は水町玲子という少女と知り合った。
 最初の人生では告白も出来ず、その後、連絡もとれずに初恋は儚く散った。けれど数十年の年月を経て、予想もしていなかった機会に恵まれた。
 奇妙な老婆を助けた縁で、これまた奇妙なスイッチを貰った。過去をやり直せるスイッチと言われても、一切信じられなかった。
 そんな哲郎が実際にスイッチを使ってみると、この小学校の校庭へ戻ってきていた。小学生の自分になり、隣には初恋の少女が立っていた。
「ここだったのか……」
 今も記憶に残る風景が見える場所で、寂しそうに妻の玲子がひとりで立っていた。
 肌寒い夜風に晒されながら、肩を抱いている姿を見れば、最初から行方不明になるような真似をしようと考えてなかったのがわかる。
「……あなた」
 初めて人生をやり直せた瞬間から、気がつけばかなりの年月が経過している。今の時代だけでも二十年以上になる。
 これまでの人生をすべて含めれば、三桁に達するのではないかというくらいだ。それほどの経験があっても、今回みたいな不測の事態を招くケースが多々存在した。
 最初は梶谷君と水町さんと呼び合っていたのに、今では玲子にあなたへ変わっている。哲郎は順調に歳を重ねてきたつもりだったが、もしかしたらパートナーは違ったのかもしれない。
「……懐かしいな。ここで、俺が玲子に告白したんだ。小学生の頃に」
 愛妻の隣まで行き、着ていた上着を脱ぐ。変なことをしようという意図はなく、単純に寒そうにしている玲子へかけてあげるだけだった。
 少し迷っていたが妻は最終的に「ありがとう」と哲郎の上着を受け入れた。肩からかけて、風を防いでいる。
「本当に……懐かしいね。もしかしたら、単純にはしゃいでいられたあの頃が一番楽しかったかもしれない」
「あの頃か……。今は違うのかい?」
 尋ねた哲郎と目を合わせず、望んでいた今も幸せという回答は口にしてくれなかった。
「……何があったんだ」
 どのような反応も見逃すまいと妻の一挙手一投足に注目していると、玲子は哲郎の前でフッと軽く微笑んだ。
「哲郎君、質問ばかりだね」
 そう言う愛妻になんて返したらよいかわからず、今度は哲郎が口をつぐむ形になる。
「それだけ……私を見てくれていなかったのよね……」
 寂しそうに呟かれた台詞が、棘のように哲郎の胸へ突き刺さった。急に息苦しくなり、動悸が酷くなる。
「俺は……」
「わかってる。私の家のことだもの。一生懸命にお仕事をしてくれていたのよね。でも、少しだけでいいから、私のことも気にしてほしかったな……」
 瞳に滲む涙を見て、これまで玲子が人知れず我慢を重ねてきたのだと、この場に至って哲郎は初めて知った。完全に夫失格だった。
 大好きな女性を守ると嫁にまでしていながら、この体たらくである。確かに仕事が忙しかったのはあるが、言い訳にしかならない。その気になれば、夫婦の時間は作れたはずだ。
 このままでは玲子を失うかもしれない。悪夢のごとき展開が現実になりつつあるのを悟った哲郎は、全身に汗を浮かべながら妻の気持ちを立て直そうと必死になる。
「これからは、きちんと家へ帰るようにする。もう寂しい思いはさせないから、一緒に帰ろう」
「……それは……少し、考えさせてほしいの」
 すぐに頷くのではなくて、玲子はとてつもなく衝撃的な回答を哲郎へぶつけてきた。

 一瞬、妻が何を言っているのか、哲郎には理解できなかった。
 満面の笑みでとはいかないだろうが、見つけたらすぐに一緒に帰ってくれると思い込んでいた。
 長年かけて積み上げてきた絆は簡単に崩れるはずもなく、問題があってもともに乗り越えていける。
 抱いていた確信が、こんなにも脆かったのだと初めて知った。愕然とした人間が言葉を発するのは難しく、間抜けにも哲郎は小学校の校庭でポカンと口を開けている。
 受けている衝撃の度合いが、表情から相手へ伝わったのだろう。目の前に立っている愛妻は、心から申し訳なさそうにしている。
 どれくらいの時間が過ぎたのか。立ち尽くすという言葉の意味を痛いほど知ったあとで、ようやく哲郎は妻の玲子へ新たに声をかけられた。
「どう……いう、意味……かな」
 言葉と言葉の間にある不自然な沈黙が、哲郎の動揺ぶりを如実に物語っている。
 通り抜けていく夜風がやけに冷たく感じられるのに、身体は妙に熱かった。
 息苦しさが増し、頭がクラクラする。まるで眩暈でもしてるみたいに、世界が揺れる。
 一体何が起きているのだろう。目の前の現実を正しく理解できず、哲郎の頭は混乱する一方だった。
「もう、俺のことは……愛してないのか」
 無言を貫く愛妻に、再度の質問をする。今度も答えてくれないのかと思いきや、玲子は静かに口を開いた。
「哲郎君のことは好きよ……でも……昔ほど、素直に愛してるとは言えないかもしれない」
 遠まわしな表現ではあったけれど、玲子の愛情が哲郎から離れていってるのを知るには十分だった。
「俺が……ほったらかしにしてたから?」
 理由をはっきり教えてほしいのだが、言い難いのだろう。またもや玲子はだんまりになる。
 よく雰囲気や態度で察してほしいと言われるが、本当にそれだけで理解できるのなら、言語の意味と必要性がなくなる。
 一方で愛の言葉などは、直接言ってほしいと要求される。態度だけでは不安だと、自ら白状してるようなものだ。
 明らかに矛盾しているにもかかわらず、女性もしくは男性もだが、それを平然とパートナーへ求めるのが多いように感じられた。
 かくいう哲郎もその中のひとりだ。一生懸命働いているのだから、夫婦の時間が減っても我慢してくれるだろう。勝手な判断で行動し、深刻な事態を発生させた。
 このままでは完全に妻の心を失ってしまう。そうなるよりはとプライドを投げ捨て、哲郎はおもいきり頭を下げた。
 土下座とまではいかなかったが、誠心誠意の謝罪をまずは行なった。いきなりの行動に驚いた玲子が目を丸くする。
「俺が未熟だから、玲子に寂しい思いをさせた。でも、決して大事じゃなくなったとか、そういう理由ではないんだ。これからは勝手な思い込みで行動するのを止めて、きちんと夫婦の時間を大切にする。だから、許してほしい」
「あ、あなた……」
「本来なら最初からすべきだったんだろう。悔やんでも悔やみきれないよ。けれど……だからこそ! もう一度チャンスをくれるのなら、今度は玲子の不安もきちんと聞いて、夫婦として生きていきたい」
 きちんとした日本語になってない部分もあるかもしれないが、それはそれで構わなかった。下手に取り繕うよりも、自分の気持ちを素直にぶつけるのが一番だと考えた。
 真正面からの特攻作戦みたいなものだったが、結果的に幸いした。綺麗な台詞を送るよりも、時として直球過ぎる言葉が相手の心に届いたりする。
「頭を上げて、あなた。悪いのは……私もだわ。頑張って仕事をしてくれているのに、留守もきちんと守れないなんて、妻失格よね」
「そんなことはない。俺が至らなかっただけだ。結婚式できちんと守ると、玲子のご両親にも約束したのに情けないよ」
「ううん、もういいの。結局、私は拗ねていただけなのかもしれない。だからあなたの――哲郎君の愛情が信じられなくなった。私も未熟だったんだわ」
「……そうか。でも、仕方ないさ。他の先輩方に比べて、俺たちはまだ若いんだ。その分、これからも成長していける」
「そうね、そのとおりだわ。ねえ、あなた。こんな我侭な女でよかったら、また一緒に夫婦生活を送ってくれますか」
 いまだ涙の痕が残る顔に、やっと笑みが浮かんだ。哲郎が愛して止まない女性の微笑みだった。
 伸ばされた手をしっかり握り、哲郎は「もちろん」と即答する。雨降って地固まるではないけれど、これからはもっと仲良くやっていけそうな気がした。

 続く


面白かったら一言感想頂けると嬉しいです。



小説トップページ ・ 目次へ ・ 前へ ・ 次へ