リセット
88
いくら嫁入りして母娘関係になったとはいえ、あくまで義理。厳密に言えば、哲郎と婚姻関係を結ばなかったら、玲子と梶谷小百合は今も他人のままなのだ。
哲郎と玲子みたいに長い時間をかけて愛を育み、信頼関係を構築してきたわけではない。考えてみればお互いに、いきなり他人を母や娘と呼ばなくてはならなくなったのである。
戸惑って当然だし、何の問題もなく順調に進む方が珍しいとも言える。にもかかわらず、家のことを放置してきたのだから、やはり哲郎の責任は重い。
「あなたに余計な気苦労を背負わせたくないので、私ひとりでなんとかしたかったのだけれど……ごめんなさい」
何度も謝らせてしまうあたり、よほどの重圧を知らず知らずのうちに、玲子へ押し付けてしまっていたのだろう。悔やんでも悔やみきれないが、まだ挽回はできる。
「謝る必要はないよ。それに謝らなければならないとしたら、俺の方だ。とにかく、この問題は任せてくれないか」
男性なら誰だって、自分の母親と妻との板ばさみは避けたがる。けれど哲郎は率先して、問題を引き受けると提案した。
申し訳ないけど、そちらでなんとかしてほしいと頼まれると思っていたのだろう。妻の玲子は意外そうな顔をしていた。
「そんな……! あなたが忙しいのは、妻として理解しているつもりです。それなのに、余計な気苦労を背負わせるような真似はできません」
数十年先の未来では男女平等と叫ばれる機会も増えているが、この時代ではそもいかない。加えて田舎となれば、まだまだ昔の習慣や名残が色濃く存在している。
夫の留守を守るのが女性の務めであり、仕事に集中できない環境を作ろうものなら、親戚中から非難される結果にもつながりかねない。だからこそ、今のうちに手を打つ必要もある。
だが玲子ひとりでは無理だと理解している。現に妻は妻で、哲郎に説明してくれた以上の頑張りをひとりでしてくれていたに決まっている。
母親と不仲を起こした妻を問答無用で叱責するのではなく、まずはこれまでの苦労を労う。この時代の男性なら、大半がしないであろう行動を実践した。
この時代では珍しい対処法だけに玲子は感激し、薄っすらと瞳に涙を浮かべた。まさか自分の努力を評価してもらえるとは、想像もしていなかったに違いない。
なにはともあれ、狙ったわけではないが、現時点で玲子の哲郎への信頼度はある程度回復させられた。あとはうまく事態を収拾できれば、なんとか今回の苦難も乗り越えられるはずだ。
「本当のところを聞かせてくれ。玲子は俺の母を嫌いなのか? 言いにくいだろうけど、はっきり教えてほしい。俺は常に君の味方だから」
言い難いのは重々承知している上で、あえて哲郎はこの質問を妻へぶつけた。正直な回答を得られない可能性が高いものの、相手の反応次第では何かわかるかもしれない。
じっくりと哲郎が注目する中、静かに玲子が言葉を送ってくる。予想していたとおりに無難な内容だったが、無理をして嘘をついているようには思えなかった。
両者ともに心から嫌ってるわけでなく、単なるボタンの掛け違えみたいなものなら、下手に家を出なくても解決させられる。
逆にもっとも簡単な解決策だからとすぐに家を出れば、さらに梶谷小百合の玲子へおける心象を悪くしかねなかった。
今回の件がきっかけとなり、絶縁となるのは悲しすぎる。とはいえ哲郎が両親側についたら、梶谷家で玲子の味方は誰もいなくなる。
いざという場面になったら、哲郎も覚悟を決める必要がある。ここまでスイッチを使ってきて、他者との公平性も何もないが、それでも常識外の力はあまり活用したくなかった。
いつでも失敗したらスイッチがあると考えていれば自然に甘えが出て、人生を軽く見始めるのではないか。それが哲郎には怖かった。
「母さん、少し話があるんだ」
翌朝。哲郎は会社に無理を言って有給休暇をとり、梶谷家で家事を行っている母親と話し合いの場を設けた。
妻を同席させるべきか迷ったが、下手に一緒にいさせて梶谷小百合の怒りの矛先が玲子に向けられたら大変と、哲郎は一対一の状況で話し合おうと決めた。
真面目な顔つきと声にただならぬ雰囲気を察したのか、少し緊張気味に梶谷小百合は「どうしたの」と聞いてきた。
「とりあえず、そこに座ってくれないかな」
父親の梶谷哲也は出勤しており、妻の玲子もまた実家の工場へ行っている。現在梶谷家にいるのは、哲郎と小百合の二人だけだった。
母親の梶谷小百合が座るのを待ってから、哲郎は腹に力を入れて、ゆっくりと話し始める。
相手だけでなく哲郎もかなりの緊張に襲われていたが、仮にこの場から逃げ出しても問題は解決しない。なんとしても、この時点で解決する必要があった。
「母さん……もしかして、玲子と上手くいってないんじゃないのかな」
できるだけキツくならないよう気を遣いながらではあるものの、哲郎は単刀直入に嫁の玲子との不仲について指摘した。
すぐに認めて顔をしかめるかと思いきや、梶谷小百合はいつもと変わらない満面の笑みを作って「そんなことないわよ」と否定する。
「玲子さんとは、とても上手くやっているわ。哲郎の心配しすぎではないかしら」
素直に認める気配はないものの、昨夜に目撃した現場から考慮しても、玲子と梶谷小百合の仲がしっくりいってないのは間違いなかった。
とにかく不仲があると言ってくれない限りは、問題解決の糸口すら掴めない。繰り返し「本当に大丈夫なの」と尋ねてみるが、やはり母親の回答は変わらなかった。
「急に変なことを聞くのね。私が哲郎のお嫁さんと、仲が悪くなるはずないでしょう。心配をしないでも大丈夫よ」
哲郎と接する梶谷小百合の態度は普段とまったく同じで、理想の優しい母親そのままだった。
だからこそ昨夜の有様を実際に目にしていなかったら、愛する妻からの訴えでも確実に信じられたかどうかは不明だ。
これで話は終わりとばかりに立ち去ろうとする玲子を、哲郎はすぐに呼び止める。こうなったら、実際に現場を見たと告白するしかない。
「もちろん母さんの言葉は信じたいけれど、俺にも質問をする理由がある。実は昨日、玲子を見つけて帰ってきたあとで、見てしまったんだ」
ここまで切り出せば観念してくれそうなものだが、それでもなお梶谷小百合は心からの笑顔で「何を見たのかしら」と聞いてくる。
心から優しくて綺麗な母親だと信じていただけに、とぼけられるのを想定していなかった哲郎は、この時点で計画の変更を余儀なくされている。
想像どおりにいかなければいかないほど、心に焦りが生まれてパニックを起こしそうになる。まだまだ未熟な証拠なのだが、哲郎も普通の人間なので、こればかりは仕方がない。
動悸がする心臓に落ち着くよう心の中で声をかけながら、唇が震えないように注意して、相手へ伝えるべき言葉を一字一句、丁寧に発音する。
「母さんが、玲子を叱責する現場をだよ。注意をするのが必要な場合もあるけれど、明らかに昨日のは言いすぎじゃないかと思うんだ」
これでようやく少しは顔色も変わるはずだ。期待を込めて想定をしていたが、またしても哲郎が裏切られる結果になる。
あろうことか母親の梶谷小百合は「そんなことがあったかしら」と、とぼけたのだ。これにはさすがに哲郎も驚いた。
「残念だけど、俺が自分の目で実際に見たんだ。誤魔化したりしないで、きちんとありのままを話してくれないか」
真摯な態度で必死に訴え、哲郎は母親の梶谷小百合が事実を教えてくれるのを待った。
「ごめんなさい。なんのことか、わからないわ。きっと哲郎は疲れているのよ。毎日、頑張って働いているものね」
いつもの優しい母の微笑みと、穏やかな口調。事実を知らなければ、きっと嘘だと見抜けない。
どうしてここまで頑なに事実を認めようとしないのか、哲郎にはさっぱりわからなかった。
「あくまでも不仲ではないと。俺が見たのは幻だったと、母さんはそう言いたいんだね」
いつでも味方になってくれた理想の母親。長年抱き続けていたイメージが、哲郎の中でガラガラと音を立てて崩れていく。
どのような理由があるのかは知らないが、玲子を叱責していた事実さえ認めてくれないのだから話にならない。
これ以上は時間の無駄と考え、哲郎は「わかった」とその場を立ち上がる。
「俺としては、二人に仲良くしてほしいと思っていた。そのためなら、橋渡しでもなんでもするつもりだった」
あまりの悔しさと失望に、哲郎は自らの拳をキツく握る。その様子を見ていた梶谷小百合が、少しだけ悲しげに俯いた。
けれどそれも一瞬だけで、すぐに再び顔を上げて哲郎の姿をきっちり視界に捉える。だが自分の行動を、弁解しようとする発言はひとつもなかった。
あくまでも回答は変わらないとばかりに口をつぐみ、凛とした正座姿を居間にて披露している。普段は夫である梶谷哲也の後ろを歩いているが、いざ前面に出る機会があれば、類稀な強さを発揮するだろう。
知らなかった母の一面が次々にわかってくる。良いことなのか悪いことなのか判別は難しいが、これも生きているからこそだと思うようにする。
結局話し合いにすらならず、哲郎の挑戦は失敗に終わった。有給休暇をとっているのあり、時間はだいぶ余ったが、黙って寝ているのも妙に暇だった。
なので哲郎は結局出勤することにして、準備を整えてから梶谷家を出ようとする。その際に、母親の小百合が見送りに来てくれた。
「……哲郎」
声をかけられたので振り向くと、難しそうな顔をしている梶谷小百合が言葉を続けてきた。
「私は貴方のことを、誰より大事に思っているわ。それだけは、わかってちょうだい」
「……それは十年以上も前から、気づいてますよ。だからこそ、きちんとした話し合いがしたかったです」
帰宅後には梶谷小百合の強固な意志も変わってるのを期待し、哲郎は水町家の工場へ出勤する。
「あれ。今日は休みにしたんじゃなかったのか」
会社へ到着するなり、たまたま事務所にいた義父に声をかけられる。
有給休暇を申請した本当の理由を具体的に教えられるはずもなく、哲郎は苦笑しながら「家で寝ているのが暇になりました」と告げる。
「肉体疲労をとろうと寝ていたら、逆に精神疲労が蓄積されたか。哲郎君は本当に仕事の虫だな」
豪快に笑ったあとで、わざわざ玲子を呼んできてくれる。どうやら休憩をとっていたみたいだった。
「会社に来たなら、仕事をしてもらえればありがたいが、今日だけは無理しなくてもいいからな」
それだけ言い残すと、社長はひとりで事務所から去って行った。
あとに残された哲郎と玲子は、誰もいなくなった事務所で会話をかわす。もちろん小声でだ。
「……ごめん。今日は駄目だった」
哲郎が話し合いの結果を教えると「気にしないで」と言ってくれたが、残念に思ってるのはわずかに曇らせた表情を見れば明らかだった。
「でも、諦めずに暇を見つけては、話をしていきたいと思う。それでも駄目なら、二人で家を出よう。俺にとっては、玲子が誰より大切だからさ」
哲郎が決意表明をすると、妻の玲子は恥ずかしそうに頬を赤くしながらも、どこか嬉しそうな仕草を見せてくれた。
続く
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