リセット
89
ひと足先に妻の業務が終了したが、哲郎はいつもみたいに残ったりせず、強引に仕事を切り上げた。
いつもは丁度いいところで区切りをつけるのだが、先日の一件があったのに加えて、今日は本来なら有給休暇をとっていた。
そのため哲郎が途中で仕事を終えて帰ろうとしても、誰ひとり文句を言ってきたりはしなかった。
むしろ「もっと奥さんを大切にしろ」と各従業員から、冷やかされるくらいだった。
「こうして、一緒に帰るのも久しぶりだね。歩いている道は違うけれど、なんだか学生時代に戻ったみたい」
そう言って、妻の玲子が悪戯っぽく笑う。哲郎も同じように思っていたので、すぐに「そうだね」と肯定の返事をした。
学生らしい会話をして、学校の勉強にアルバイトと忙しい日々を送っていた。当時は結構大変だったが、今では大事な思い出のひとつになっている。
「あの頃に帰りたい……とか、思ったりすることはあるかい?」
ふと、なんとはなしに哲郎は妻の玲子へ尋ねてみた。
「過去へ戻りたいかということかしら? そうね……答えるのは、とても難しいわ……」
哲郎自身が例のスイッチを所持してるとはいえ、相手はその事実を知らない。ゆえに冗談半分みたいな質問だった。
にもかかわらず玲子は本気で考え、そして結論は出せないと話した。その際の表情はどこか悲しげで、まるで誰かに謝ってるようにも見えた。
不思議に思ったがそれ以上は聞けず、哲郎は「そうか……」としか言えなかった。
今度は逆に愛妻が、哲郎へ「過去へ戻りたい?」と質問をしてきた。したければ実際にできる状況下にあるのだが、そこを説明するわけにはいかない。
適当に答えようかと思ったが、そんな真似をして本気で考えてと怒られたら敵わない。真剣に悩むふりをしたあとで、哲郎は浮かんだままの回答を口にする。
「戻りたいとは思わないな、今が幸せだから。だからこそ、維持するためにも嫁姑問題はなんとしても解決しないとな」
哲郎がそう言うと、からかわれてると悟った玲子が「もお」と頬をふくらませた。その仕草があまりにも可愛かったので、気がつけば思わず抱きしめていた。
「あ、あなた……。どうしたの?」
「俺……玲子を愛してるから」
「……わかってるわ。私も、あなたを……哲郎を愛してる」
夜風吹く道の上で互いの温もりを確認したあと、どちらともなくゆっくりと唇を重ねた。
目を閉じている妻の顔を愛しげに眺めながら、口紅を塗られた魅力的な唇の感触を確かめる。
一緒に登下校していた頃は、手を繋ぐだけで精一杯だった。それが大人になり、大好きだった女性と様々な方法で愛を育めるようになった。
過去へ戻られるスイッチがあれば、誰でも同じような状況まで辿り着けるとは思えない。決して自慢にはならないが、この場に至るまで哲郎は相応の努力をしてきた。
何十年先の時代とは違い、路上で接吻するのはかなり珍しい行為になる。それだけに、妻の玲子はかなり恥ずかしそうにしていた。
少しでも場を和ませようと考えた哲郎は、先ほどのやりとりを思い出しているうちに、ふと笑みをこぼしてしまった。
その様子を間近で見ていた愛妻が「どうしたの」と質問してくる。
「いや、長い付き合いになっているけれど、ようやく名前を呼び捨てにしてくれたなと思ってね」
学生時代から哲郎君で、結婚してからはあなた。先ほどみたいに「哲郎」と呼ばれるのは初めての経験だった。
これまで母親くらいにしか言われた覚えはなく、同年代の女性では初めてだったように思える。だからこそ、余計に嬉しかった。
「本当に? 自分でも知らないうちに、呼んでいたのね。あの……迷惑だったかしら」
「まさか。凄く嬉しいよ。ますます玲子を好きになったくらいさ」
そう言って哲郎は愛妻の手を握り、帰宅するまで仲良く繋いで夜道を歩いた。
自宅に帰ると、いつものように優しい笑顔で梶谷小百合が哲郎と水町玲子を出迎えてくれた。父親の梶谷哲也は、すでに床についているみたいだ。
夕食の準備ができているからと、普段よりも少し遅めになったが、数多くの料理が並べられている食卓まで案内してくれる。
食事は常に梶谷小百合が用意してくれている。いつだったか、妻の玲子が手伝うと申し出たことがあった。
しかし当の梶谷小百合は首を縦に振らず、笑顔でひとりで大丈夫と告げていた。お互いに尊重しあっているのだなとその時は理解していたが、今になって哲郎は自分の甘さに気づかされる。
本当に仲が良いのであれば、和気あいあいと朝食や夕食の準備を一緒にしているはずなのだ。改めて仕事ばかりで、あまり家庭を顧みてなかった自分自身に腹を立てる。
「た、ただいま、戻りました……」
当人は普通に笑顔を返しているつもりなのだろうが、やはり玲子の顔はどこかぎこちなかった。
無視するでもなく、梶谷小百合は「おかえりなさい」と告げたものの、一度たりとも玲子と目を合わせたりしない。無意識ではなく、意図的に行ってるように見えた。
嫁姑問題をなんとかしようと意気込んだまではいいが、かなり根は深そうだ。しかも仲違いをした原因が、哲郎にはまるで見当もつかない。
妻の玲子にも何度となく尋ねてみたが、回答は決まって「わからない」だった。それならばと、おもいきって母親の梶谷小百合へ尋ねてみた。
けれどこちらも知らないと言い、挙句には不仲の事実さえないと嫁姑問題を真っ向から否定してきた。
哲郎が実際に現場を目撃していると告げても、顔色をほとんど変えずに同じ言葉を繰り返す。常に自分の味方だと思ってきた母親の思わぬ反応に、頭を抱える結果で終わった。
そして有給休暇をとっていたにもかかわらず、出勤して気を紛らわせた。途中で仕事を切り上げたのは、愛妻をひとりで帰宅させるのが不安だったからだ。
夜道を女性がひとり歩きするのはもちろん危険だが、それ以上に哲郎のいないところで妻と母親を二人きりにさせたくなかった。
「ねえ、哲郎。お風呂にでも入ってきたらどうかしら。その間にお母さん、冷めた料理を温めなおしておくわ」
科学が進歩すれば電子レンジという便利アイテムも誕生するが、この時代ではまだまだ主流となるにはほど遠い。したがって、鍋などを活用して料理を温めなおしたりする。
多少は時間がかかるので、その点を考慮してくれたのだろう。普段なら迷いなくお言葉に甘えるところだが、今日は事情が違っている。
「あの、お義母さん。私にも、お手伝いをさせてください」
恐る恐る、妻の玲子が切り出した。このような光景は久しく見ていなかったので、問題を穏便に解決するために、少しでも歩み寄ろうと努力してくれてるのがわかる。
哲郎はそんな愛妻の姿勢をありがたく思ったが、残念ながら梶谷小百合にはきちんと伝わらなかった。もしくは理解していながら、玲子の気持ちを跳ね返した。
「玲子さんも毎日のお仕事で疲れているのでしょう。ゆっくり休んでいて結構ですよ。家事なら私が全部やりますからね」
優しげな微笑を浮かべながら、相手を労わってるように感じられるが、よくよく台詞を思い出してみると疑問符が幾つか浮かんでくる。
ところどころに嫌味めいた言葉がちりばめられており、それらは真っ直ぐに玲子の心へ突き刺さって過度なプレッシャーになる。
こうして少しずつ精神を衰弱させ、この間みたいな家出事件へ発展したのだ。まだ解決策は見えていないが、日常の光景を気にするようになったおかげで、とりあえずはこういうやりとりにも気がつけた。
ほんのわずかであっても、前向きに考えるようにしていかないと、いずれは哲郎の精神もまいってしまう。そのような悲劇を避けるためにも、ここで踏ん張らなければと今一度気合を入れる。
手洗いなどを終えて食卓へついたはいいものの、やはり食事をするのは哲郎ひとりだ。
夫が食べ終えるまでは待つのが妻の見本とでも言いたいのか、梶谷小百合は玲子と一緒に綺麗な姿勢で正座している。
「ひとりで食事してるのも寂しいからさ。一緒に食べてくれないかな」
雪解けを期待して同じ食卓を囲ませようとするものの、一瞬だけ嬉しそうな顔をした玲子とは対照的に梶谷小百合は表情を崩さない。
様子を窺うように梶谷小百合を見ていた妻の玲子が、罰の悪そうな様子で顔を伏せる。
哲郎の心も痛いが、妻の玲子はもっとだろう。なんとかしようと色々策は尽くすのだが、思ったとおりにいってくれない。
もどかしさばかりが募り、やがて大きな焦りに変わる。すると不思議なもので、哲郎自身の余裕もなくなってくる。
次第に母親の梶谷小百合へ話しかけるのを止め、逃げるように哲郎は風呂場へ移動する。
あとに残してきた妻の玲子が心配になったが、一応は注意もしてあるし大丈夫だろうと甘く考えた。
想像よりもずっと攻略が困難な壁を前にして、哲郎は逃げたのだ。ゆえに本来ではしないであろう、軽はずみな決断まで行った。
それでも手早く入浴を済ませ、母親と妻が今もいるであろうリビングへ戻る。
その際、いきなり入ったりはせず、前みたいな事態が起きていないか静かに確認する。
梶谷小百合が玲子を叱責したりした様子はないが、ある種の緊張感が場を支配していた。
表現するのはとても難しく、この場へ来たばかりの哲郎が戸惑うと同時に生唾を飲んだくらいだ。居間で一緒にいる玲子は、相当にい辛そうにしている。
何も発してはいないが、雰囲気から早く哲郎に戻ってきてほしいと願ってるのがわかった。なのに、すぐ居間へ入られない。足がすくんで、前へ進めないのだ。
無言のオーラみたいなのが凄まじく、見えない壁となって哲郎の進入を阻む。額から流れる汗が、一滴また一滴と足元へ垂れ落ちる。
サウナにでも入っているかのような蒸し暑さに、呼吸のテンポが速くなる。荒ぶる心臓のせいで、身体は飛び跳ねてるように感じられ、思考回路が少しずつ狂っていく。
何回か味わってきたはずなのに、今度の混乱具合はかつてないほど最悪だった。どこかから、居間へ入らずにしばらく時間を潰せという声が聞こえてくる。
考えるまでもなく空耳なのだが、まるで隣で誰かに囁かれたみたいだった。それほど現在の哲郎はパニクっている。
だからといって、このままでいいわけがない。浮かんできた数々の弱腰の選択肢を破棄し、意を決して哲郎は居間へ入った。
「ただいま。いや、いいお風呂だったよ」
場の雰囲気を少しでも変えようと明るい声を出してみたが、結果は失敗に終わる。
当の哲郎自身が緊張から声を裏返らせていては、想定したような効果など得られはしない。余計に変な空気を、居間の中へ充満させただけだった。
それでも母親の梶谷小百合は、笑顔で「それは、よかったわ」と言ってくれる。玲子を前にしている時とは、大違いの態度だ。
哲郎の不在時でもこうした対応をしてくれればいいのだが、何故かまるっきり違った感じになる。原因を探ろうとして当の本人に聞いても、頑として教えてくれないのだから対処のしようがなかった。
なんとかして梶谷小百合の態度を軟化させ、妻の玲子も生活しやすい環境を作ってみせる。何度もそう意気込んでいるのだが、なかなかうまくいかずに時間だけが経過していく。
そして数日後。限界だと判断した哲郎は、夜の自室にて妻の玲子にある提案を行った。
続く
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