その後の愛すべき不思議な家族

   13

 嬉しいような、困ったような。そんな気分で、高木春道は自宅の食卓で椅子に座っていた。外はすっかり暗くなっており、もう夜だった。キッチンでは妻の高木和葉が夕食を作っており、この場から見える背中が、忙しげに左右を行き来している。
 湯気とともに美味しそうな匂いが、春道の場所まで届いてくる。今夜の食事は、久しぶりにカレーではなかった。何故、ここ最近カレーが夕食で続いていたか。それは今日、不在である娘の高木葉月のせいだった。
 学校の行事で林間学校というものがある。葉月の話を和葉が補足してくれた説明では、どうやらキャンプや山登りをして、楽しみながら野外実習をする授業らしい。一泊二日で行われ、葉月たちの学年だけが参加する。
 これが親元を離れて、単独での初めての外泊となるということで、不安と期待が半分ずつという表情で朝早くから出発していった。仲の良い子らと班を組んでおり、母親の和葉も安心して送り出していた。
 ここで春道が緊張している理由も登場する。結婚して以来、一夜だけとはいえ、完全に和葉と二人きりになるのはこれが初めてなのだ。まさに不安と期待が半分ずつ。とてもじゃないが、娘をからかったりできない心境だった。
「お待たせしました」
 考え事をしてる間に、妻が完成した料理を運んできてくれた。こうして一緒に食事をとるのも、徐々に慣れ始めている。最初は少し苦手だったが、今では普通に接することもできる。ただし、葉月が同じ場所に存在していればの話である。
「今日は春道さんの大好きな肉じゃがです」
「うっ――」
 いきなりの先制攻撃に「うまそうだな」と発言する前に、言葉を飲み込まされる結果となってしまった。まさか葉月がいない時を狙って、わざわざこのメニューを選んだのだろうか。だとしたら、後々かなり恐ろしい事態になりそうである。
「冗談です。他意はありませんよ。最近カレー続きでしたので、和を中心としたメニューにしたくなっただけです」
「そ、そうか……うん、そうだな」
 よくよく見れば肉じゃがだけではなく、焼き魚や漬物などのメニューも存在する。以前にあんな問題があったせいで、どうやら意識しすぎてしまっていたらしい。安堵したあとで、春道は箸を持つ。
「小石川祐子さんほど美味しくできたかはわかりませんが、とりあえずお口には合うと思います。私の手料理を毎日、食べてくださってるわけですから」
「……いじめるのはやめてくれ。葉月がいると心配するから、普段は言えないその手の冗談を連発したがる気持ちはわかるが、生憎と俺もそんなに強い心臓をしていない」
「では止めましょう。それにしても残念です。夜通しこれで遊ぼうと思っていたのですが、意外に早くギブアップされてしまいました」
 妻ならばやりかねない。春道はゾッとしながら、ここで止めさせておいてよかったと、額に浮かんできた冷や汗を手の甲で拭った。
「ちなみに、冗談ですよ? 本気にしないでくださいね」
「……なら真顔で言うのはなしだ。とても冗談に思えなかったぞ」
「うふふ。だって、それぐらいじゃないと、春道さんには効果がないでしょう。私も笑いそうになるのを、必死でこらえてたわけですからおあいこです」
 そういうのをおあいこというかどうかは不明だが、ここでムキになってもいいことはないので話題を変えることにする。
「それで、葉月の料理レベルは上達したのか。散々カレーばっかり食わされたんだ。そうでないと俺も困る」
「それなら問題ありません。基本的に頭の良い子ですから、レシピの細部に至るまできっちり覚えていきました。きっと今日の調理時には主役となっているはずです」
 自慢げに妻はにこにこしている。こと葉月の問題になると、まるで自分ごとのように和葉は真剣になる。褒めるのも叱るのも全力投球で、こういうのを親ばかと言うのだろうなとつくづく実感する。もっとも、最近では春道も人のことを言えなくなりつつある。
 血は繋がっていなくても、本当の娘だと思っている。和葉にかんしても同様だ。最初はおままごとのような夫婦だったが、今ではお互いに必要としあっている。葉月も含めて、本物の家族になったのだと強く実感していた。
「そこまで上達したのなら、少しはキッチンで見学しとけばよかったな。まあ、葉月も女の子なんだし、包丁の使い方ぐらい簡単に覚えるよな」
 何気なく言った台詞に、和葉の箸がピタリと止まる。メイン食材のジャガイモが一切れ、摘まれたまま空中に滞在し続ける。
「ど、どうした。別に変なことは言ってないはずだぞ」
「……つかぬことをお伺いいたしますが、春道さんが葉月に包丁の使い方を教えたのですよね?」
「は? 何、言ってんだ。そんな覚えはないぞ。和葉がカレー作りながら教えたんだろ」
 やたら気まずそうな空気が二人の間を流れる。とんでもないことに気づいてしまった。そんな雰囲気だ。これが意味するところはただひとつ。お互いに思い違いをしており、たった今その事実が判明したのである。
「……葉月に聞いたら、パパと二人の時に包丁を使って免許皆伝だと……それで、てっきり春道さんが教えてくださったものとばかり思っていたのです。なのでレシピを集中的に覚えさせて、包丁の使い方については見分をしておりません」
 妻がチラリと春道を見てくる。その目は、娘の包丁さばきはそんなに下手なのかと尋ねていた。隠しても仕方ないので、正直に答える。葉月と一緒にキッチンへ立ったのは、後にも先にも和葉が出張と偽って、実家へ戻っていた時だけだ。
「俺も料理は苦手なんだが、あれは不器用とかそういうレベルじゃなかったな。豪快というか、大胆というか、包丁を持つべき人間ではないというか……そんな感じだ」
 当時の状況を説明すればするほどに、母親である高木和葉の表情が曇っていく。明らかに、失敗したと後悔してる顔だった。
「そんなに酷いのですか……困りました。人様の子に怪我などをさせてなければいいのですけど……」
「その点については、大丈夫だと思うぞ」
 キッパリと言い切った春道へ、怪訝そうな視線が向けられる。どうしてそんなことがわかるのか。そう質問されてると判断した春道は、頭に浮かんでいた回答を口にする。
「あの手つきじゃ、なかなか他人を傷つけるのは難しいだろ。自分が怪我する確率はかなり高いだろうけどな。そんなわけで、心配するなら葉月自身の方だ」
「……それほどですか」
「ああ、それほどだ」
 祈るような顔をした和葉は、食事どころではないとばかりに、ジャガイモを自分の皿へ戻した。ため息を連発し、ますます食卓が暗くなる。
「落ち着けよ。葉月と一緒に班を組んだのは、とてもしっかりした女の子なんだろ」
 母娘から班員について、ある程度の情報を得ていた――というよりは聞かされていたので、それぐらいは春道でもわかる。確か、今井好美という名前の女の子だったはずである。
「葉月の包丁の扱い方を目撃すれば、間違いなくその子が止めてくれるはずだ。仮にそうでなくても、調理経験が少しでもある子なら、確実に葉月から包丁を奪う。誰だって凄惨な事故現場なんて見たくないからな」
「……それほどですか」
「ああ、それほどだ」
 少し前に似たような応酬をした記憶があるが、その辺は気にしない。今はまず、妻の不安を取り除くのが第一である。
「そうですね。すでに出発してしまっているのですし、今さら心配しても後の祭りですね。何かあればさすがに電話がくるでしょうし、神経質になりすぎていたかもしれません」
 引率の先生たちもいるので、それほどの心配は必要ない。担任ひとりだけだったら不安だったが、他の教職員たちも数名一緒に行くと葉月は話していた。だからこそ、春道もここまで冷静でいられるのである。
「とにかく晩飯を食っちまおう。せっかくの料理が冷めたらもったいない」
 少し前までは、冷めた料理を常にレンジでチンして食べてた人間の台詞とは思えない。そう言って和葉が笑った。春道もそのとおりだなと応じる。
 葉月の林間学校の話を聞いた時はどうなるかと思っていたが、普段と変わらぬ様子で時間が流れていく。夕食をとり、妻が洗い物をする音を聞きつつテレビを見る。
 春道はあまり家事を手伝ったりはしない。するのは二階の掃除くらいのものだ。別に亭主関白なわけでなく、あまりに和葉がテキパキと物事をこなしすぎるため、中途半端なスキルでは助けるどころか足手まといになってしまう。
 手伝った方が時間を要するのだから、はっきり言ってしまえば邪魔なのである。もちろん妻が、手伝ってくれた人間に向かってそんな台詞を言うことはない。娘が自分もやると言えば、よろこんで仕事を分け与える。
 切羽詰ると若干ヒステリックになる面はあるが、実に優秀な女性であるのは間違いない。若くして役職をもらえる理由が、充分すぎるほどにわかった。同じ会社で働いていれば、間違いなく春道は和葉の上司にはなれなかっただろう。これだけは自信があった。
 とても自慢できない結論が頭の中に導きだされた頃、妻も洗い物を終えていた。二人で一緒にテレビを見て、その後でお風呂に入る。もちろん別々だ。そして、いよいよ就寝の時間がやってくる。
「あの……その……いいかな?」
 風呂上りの妻にリビングで尋ねると、頬を紅潮させて頷いてくれた。連れ添って二階へ行き、春道の寝室で一緒の布団に入る。娘もいないので、ゆっくりできる最大のチャンスが今夜だった。電気を消して、真っ暗な部屋の中でお互いの顔を近づける――。
「はっくしょん!」
 ――途中で、春道はまともにくしゃみをしてしまった。鼻がむずむずしたわけでもなく、唐突に出てしまったのだ。防ぎようがなく、間近に迫っていた和葉の顔面が最大の被害を受けた。近くにあったティッシュを取り、やや怒りをにじませながら顔を拭く。
「……この状況で、いきなりくしゃみをするというのはいかがなものかと思いますよ? 生理現象ですから仕方ないと思いますが、せめて手で口を塞ぐなりはしていただきたいですね」
「わ、悪い! それはもっともなんだが、何せいきなりだったからさ。次は気をつける。勘弁してくれ」
 春道が必死で謝ると、小さくため息をついたあとで、仕方ないですねと妻は微笑を浮かべてくれた。本当に今度は注意しないと。肝に銘じて、再度互いの唇を接近させる――。
「はっくしょん!」
 途中でまたもや、春道の豪快なくしゃみが炸裂する。連続で被害者となった妻は、何も言わずに肩を震わせている。心を許してくれているからか、最近の和葉は以前よりもずっと素直に感情を表に出してくれる。
 それはもちろんいいことなのだが、こと今回に至っては怒らせるわけにはいかない。娘の不在を不安に思うと同時に、知らされた日からずっとこの夜を楽しみにもしていたのだ。普段は葉月の相手で忙しいが、この時ばかりは離れた空の下で眠っている。
 次にこんなビッグチャンスがやってくるのは、いつになるかわからない。なんとしても、今夜の機会を逃すわけにはいかなかった。相手が激怒する前になだめようと、春道は慌てて口を開く。
「はっくしょん! くしょん! へっくしょい!」
 何故か終わらないくしゃみ。あまりに突然衝動がやってくるため、事前準備ができないまま発動させてしまう。言わば暴発である。そしてその被害をもっとも受けるのが、他ならぬ妻の和葉だった。
「……あまり体調が優れないみたいですね。風邪の前兆かもしれません。今夜は無理をせずに休みましょう」
 激怒するかと思いきや、あまりに酷いと感じたのか逆にこちらの身が気遣われてしまった。この日を楽しみにしすぎて、緊張から体調を崩してしまったのだろうか。もしそうだとしたら、情けなさすぎる。
「では、私は自分の部屋へ戻りますので、何かあったら遠慮なく言ってきてください」
「わ、わかった……」
 バタンとドアを閉まる音が無情に響く。まさかこんな結末になろうとは、予想もしていなかった。体調的には何も問題はないと思っていたのに、何故くしゃみを連発してしまうのか。一応体温計を使ってみるも、普段どおりの平熱だった。
 そして妻の和葉が自室へ戻ったあとは、ピタリと止んでしまったくしゃみ。一体どういうことなのかと、春道は自問自答する。そこで導き出された答えが、誰か噂してたのではないかというものだった。
 まるでお子様みたいな考え方だが、そうでもなければあの一時的なくしゃみ連発を説明できないのだ。そんなはずはないと思うが、万が一そうなのであれば、噂してくれた人間を恨まずにはいられない。
 ストレスが募り、たまらず「ちくしょう!」と叫びたくなってしまったが、そんな真似をすれば、自室で眠っている和葉を間違いなく怒らせてしまう。仕方なく、春道も眠ることにする。
「ん? 待てよ……」
 春道は布団で仰向けになりながら、先ほどの出来事を頭の中で振り返る。あの和葉が、体調の悪い人間を放って自室へ戻るだろうか。薬を持ってきてくれるなど、看病してくれてもおかしくない。それなのにあの対応である。
「……やっぱり、怒ってたんじゃねえか」
 ため息をつきつつも、なんとなく春道は嬉しい気分にもなる。先ほどの状況で怒るということは、妻も今夜を楽しみにしてくれていた証拠なのだ。チャンスは少なくても、この先きっとまた訪れるだろう。その時に今日の分もイチャつけばいい。
 そう考えて気分を切り替えた春道は、幸せな気分に浸る。そして、自室で和葉が未だ起きたまま、夫が追ってくるのを待ってるとも知らずに、ゆっくりと眠るのだった。

 翌日、朝から不機嫌モードだった妻をなんとかなだめ終えた後、春道は車を運転して娘の通う学校へと到着していた。そろそろ林間学校から戻ってくる時間であり、夫婦揃ってわざわざ葉月を迎えに来たのだ。
 これは和葉の提案だった。サプライズで葉月を喜ばせようということだったが、実際は本人が早く最愛の娘に会いたくて仕方ないのだ。それがわかってる春道は、苦笑しつつも応じたのである。
 学校のグラウンドにバスがやってきて、中から続々とリュックサックを背負った、体操着姿の生徒たちが降りてくる。林間学校でのレクレーションのためか、ところどころに土汚れなどが付着している。
 クラス毎に集まり、短い打ち合わせみたいなのをしてから解散となった。すぐに気づくかと思いきや、葉月は友人たちと何やら楽しげに会話をしている。母親の和葉が声をかけようか悩んでいると、ひとりの男児が春道のもとへとやってきた。
 一瞬誰かと思ったが、その顔には見覚えがあった。名前は忘れてしまったが、確か以前に葉月をいじめていた男の子である。もっとも現在ではそういうのもなくなり、害のない存在になったと娘から教えられていた。
「俺、負けないっスから」
 何の用か聞こうと思った直後、それだけを言い残して男児は去っていってしまった。ポカンとして春道は、側にいる妻と顔を見合わせる。
「確かあの子は、仲町和也君と言ったはずよ。何か彼と勝負でもしていたのですか?」
 妻に尋ねられても、返すべき答えが見つからない。春道自身も、何であんな台詞を言われたのか皆目見当もつかないのだ。
「葉月が私たちに気づいたみたいですよ」
 和葉の言葉で娘がいた方を見ると、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる姿があった。途中で例の男児とひと言ふた言かわし、それから春道たちのもとへとやってきた。
 ただいまと言ってきた娘に和葉が応じると同時に、先ほどの男児との関係について質問した。返ってきた答えはなんとも衝撃的なものだった。要するに春道は、仲町和也という名前の男児のライバルに認定されてしまったらしかった。
 頭をポリポリと掻きながらも、娘に好きと言ってもらえた事実に何故か胸が熱くなる。意外に家族っていいもんだな。そんなふうに思いながら、春道は愛する者たちと帰るべく、妻と娘を乗せた車を運転するのだった。


面白かったら一言感想頂けると嬉しいです。



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