その後の愛すべき不思議な家族2

   24

 戸高祐子が先日、葉月の所属する小学校を辞めた。産休を経て復帰する道もあったみたいだが、夫を支えたいという本人の希望で退職となった。前から話を聞いてはいたので、改めて驚いたりはしなかった。
 葉月の話によると、退職の前日には、教室で盛大にお別れ会が開催されたらしかった。発案者は葉月で、すぐにクラス全員が賛同してくれたのだという。少ないお小遣いの中から皆でお金を出し合い、お菓子などを購入して、本来は持ち込み禁止のはずの学校へこっそり運び込んだ。
 発案は葉月でも、周囲に指示を出す責任者的役割を果たしたのは今井好美みたいだった。彼女が事前に校長や教頭に話を通しておいたおかげで、その日ばかりは他の教師にお菓子の持ち込みを見られても不問になった。そして放課後。帰りの会が終わったあと、皆でクラッカーを鳴らして、盛大にお祝いをした。これらの話はすべて、葉月が春道に教えてくれたものだ。
 別れの会をするというより、せっかく新しい命が誕生するのだから、お祝いにしようという話になったらしい。その場に途中で校長先生も乱入し、戸高祐子に花束を渡したという。受け取った女教師は驚きと戸惑いの表情を浮かべていたが、やがて泣きながら「皆の担任でよかった」と言ってくれた。そう話す葉月が嬉しそうに笑ったのが印象的だった。
 その会が終わってからしばらくして、予定どおりに戸高祐子は春道たちが住んでいる近くの病院へ入院した。個人病院ではなく総合病院で、出産のために入院できるようなところはそこだけだ。大きな病院がたくさんある都会とは違って、田舎と呼ばれる地方にはせいぜいそうした病院がひとつかふたつある程度だ。それでも、十分に恵まれた環境だったりする。
 出産の前に顔だけは見せておこうと、春道たちは戸高祐子の病室を訪ねた。戸高泰宏の配慮で、彼女は個室を使っていた。日曜日だったのもあり、他の病室には見舞い客がちらほら来ていたみたいだが、出産間近の元女教師は暇そうだった。ベッドにはいるものの横になってはおらず、上半身を起こして気怠そうに雑誌を読んでいる最中だった。
 個室へ入ってきた春道たちに気づくと、嬉しそうに「来てくれたんですか」と顔を輝かせる。読んでいた女性週刊誌を自分の膝掛の上へ置き、腰を痛めないように背中へ密着させていたクッションの位置を直す。楽な姿勢で会話をするためだろう。
「元気そうですね」道中で購入してきたお見舞い用のフルーツを、近くの棚の上へ置きながら和葉が声をかける。
「体調が悪くて入院してるわけじゃないですからね。食欲も普段どおりにありますよ」
 笑顔の元担任を見て、葉月もどことなく安心してるみたいだった。にぱっと笑いながら、戸高祐子にあれこれ話し始める。最近のクラスの様子などばかりだが、聞いている戸高祐子は楽しそうだ。普段の春道をからかってる時には見せない教師の顔だった。
「葉月ちゃんも元気に学校へ通ってるみたいで嬉しいわ。さすが私の娘になる子よね」さらっと、とんでもない発言が戸高祐子の口からされる。
「葉月、先生の子供じゃないよー」
「今はね。でも、すぐにそうなるわ。だって、私のお腹にいる――」
「――のは、間違っても俺の子じゃないぞ。一児の母になるんだから、そろそろ趣味の悪い冗談からは卒業してくれ」
 言い終わる前に春道から否定されたせいか、戸高祐子はつまらなさそうに唇を尖らせる。一方で隣に立っている妻の和葉は満足げだ。
「そうですよ。それに、貴女が兄さんのことをきちんと想ってくれているのは、十分すぎるほど伝わってますので、安心してください」
 そう言って微笑んだあと、和葉は戸高祐子に問いかける。「予定日はいつですか?」
「もうそろそろらしいです。ただ、こればかりはお腹の中の子に聞いてみないとわかりません」

 嬉しそうに笑ったかと思ったら、戸高祐子は急に表情を曇らせた。あまりに突然の変化だったので、和葉も心配そうにする。
「どうかしたのですか? 体調に異変があったのでしたら、すぐに先生を呼びますよ」
 日曜日とはいえ、医師が常駐しているので、何かあったら呼び出せる。当直医でも夜間担当を宿直医。日曜日などの日中担当を日直医と呼ぶらしいが、今はそんな情報を気にしてる場合じゃなかった。おろおろするしかない春道の前で、戸高祐子は今度もまた突然に涙を流した。
「体調が悪いわけじゃないんです。ただ……申し訳なくて……」
「申し訳ない? 何がですか?」和葉が聞く。
「葉月ちゃんに……です。私は彼女が虐められてるのを大体わかっていながら、干渉をしないできました。そのことが今でも申し訳なくて……」
 今はそうした気配すらないが、葉月は前にクラスで虐められていたのだ。当時も担任だった祐子はその際に助けるのではなく、むしろ加担するような姿勢すら見せた。何か事情があったとしても、あんまりな対応だった。彼女はそのことを悔いているのだ。
「もし、自分の子供がそんな目にあったらと思うだけで、いつも辛く申し訳ない気持ちになってしまって……本当にごめんなさい。謝って許してもらえる問題ではないとわかってるけど、先生は葉月ちゃんに謝らないといけないの……」
 涙ながらに戸高祐子が頭を下げる。すると葉月は背伸びをして、祐子の頭を撫でた。まるで母親が我が子に、いい子いい子してるみたいだった。驚いて顔を上げた元女教師の視線を正面から受け止めると、葉月は心からの笑顔を浮かべた。
「葉月なら、全然気にしてないから大丈夫だよー」
「で、でも……」
「だってね。今は柚ちゃんとも、和也君とも仲良くなれたもん。だから、学校は楽しいんだよー」
 明るく話す葉月の言葉のひとつひとつに頷き、戸高祐子は右手を両目に当てて涙を流す。繰り返しこぼれる「ありがとう」に、彼女の気持ちがすべて込められてるように思えた。
「葉月が気にしていないのですから、貴女も罪悪感を覚える必要はありません。ストレスを減らして、丈夫なお子さんを産めるようにしてください」
 和葉にも笑顔で言われた直後、とうとう涙腺を崩壊させた戸高祐子が号泣してしまう。本当は子供が大好きで優しい女性だったはずなのに、ほんの些細なきっかけで、クラス内での虐めを見て見ぬふりをするどころか、加担するようになる。教職の大変さを、目の前で見せられてるかのようだった。だからといって、教え子に何をしてもいい理由にはならない。戸高祐子も理解しているからこそ、ずっと申し訳なさを心の中に溜め込んでいたのだろう。
「葉月ちゃんも、和葉さんもありがとう」目を赤くさせた戸高祐子が、涙を拭いながらようやく笑った。「これで春道さんの子を産めます」
「……まだいいますか。少し、お仕置きが必要ですね」
「い、痛いっ。頭をグリグリしないでください。私は妊婦ですよ。助けて、あなたっ」
 伸ばされた戸高祐子の手を、春道は気づかないふりをして目を逸らす。ここで応じたりしたら、家に帰ってから和葉にどんな仕打ちをされるかわからない。
「はっはっは。皆、元気だね」
「ですよね。これなら出産も大丈夫そう――って、またいきなり現れましたね。泰宏さん」
 ドアが開かれた音すら聞こえなかったのに、いつの間にか春道のすぐ後ろに戸高泰宏が立っていた。神出鬼没ぶりが当たり前になってきていたので、今回はさほど驚かずに済んだ。

「兄さん。いつ来たのですか?」
 和葉がお仕置き中だった戸高祐子から離れて、実兄に質問した。
「今、来たばかりだよ。病室から元気な声が聞こえてきたのでね。雰囲気を怖さないように、こっそりと入ったんだ」
「要するに覗き見したかったんですね。女好きに加えて覗き趣味まであるとは驚きです。葉月を近寄らせないようにしないといけませんね」
「はっはっは。そんなに褒めるな。そうそう、きちんとお土産も持ってきたぞ」
 先日は同様の指摘をされて動揺しまくっていたが、すっかり本来の姿の取り戻したようだ。残念そうにする和葉を尻目に、馬耳東風を信念にしてるかのような泰宏が、持ってきた大きめの紙袋に左手を入れる。次から次に取り出されるのは、数々のベビー用品だった。
「……まだ産まれてもいないのに、気が早すぎるわよ」呆れたようにしながらも、戸高祐子はどことなく嬉しそうだ。
「こういうのは、早めに準備をしておいた方がいいんだぞ」
「確かにそうだろうけど、やりすぎじゃないの? 自宅の赤ちゃん部屋なんて、凄いことになってるじゃない」
 春道たちはその部屋を見たことがないので詳しくはわからないが、戸高祐子の言いぶりからすると、相当量のベビー用品で溢れかえってるのが容易に想像できる。これだけ我が子の誕生を願ってるのであれば、戸高泰宏は良い父親になりそうだと思った。
 春道がどうのと言っていたわりには、夫の戸高泰宏が来くると、嬉しそうな顔をする。なんやかんやでお似合いの夫婦だった。しばらく2人の世界に入っていたが、そのうちにようやく春道たちの存在を思い出してくれる。
「これはいけない。せっかくのお客さんに、退屈をさせてしまったな」右手の人差し指で頬を掻きながら、申し訳なさそうに戸高泰宏が笑った。
「いえいえ、ご馳走様でした」応じる和葉も笑顔だ。
 そんなやりとりをしたあとで、ふと気になったと言わんばかりに戸高祐子が口を開く。
「そういえば、春道さんたちはまだですか。ふた――」
「――祐子。その先は言うな。俺たちが口を挟んでいい問題じゃない」
 いつになく厳しい口調だった。夫の泰宏に注意された戸高祐子は、慌てて「ごめんなさい」と春道や和葉に謝罪をした。
「別に謝る必要はありませんよ。気になって当然の問題でしょうしね」
 そう言って笑いながらも、和葉は戸高祐子が言いかけた質問へ対する明確な回答を示さなかった。この場に葉月がいるのもあって、言うべきではないと判断したのだろう。ただ春道と和葉の夫婦間では、ほとんど答えは出ていた。先のことはどうなるかわからないが、選んだからには全力で頑張りたい。春道はひとり、心の中で強くそう思った。
「せっかく持ってきてくれたんだ。何か食べるか?」
 戸高泰宏が、春道たちの持ってきた果物に気づいて声をかけてくれる。とりたてて何か食べたいという願望がなかった春道は、愛娘に「どうする?」と尋ねた。
「ええとね……リンゴがいいっ」
「いいわね、私も食べたいわ」戸高祐子も葉月に同意する。
「じゃあ、先生の分も葉月が剥いてあげるね」
 ドキっとしたのは春道だけで、妻の和葉は穏やかな目で娘の行動を見守った。個室にあった果物ナイフを借りた葉月が、丁寧な動作で綺麗にリンゴの皮を剥いていく。春道が知らない間に、娘も成長しているのだなと妙な感動を覚えた。
「はい、先生っ」
「ウフフ。もう先生ではないのだけど……ありがとう。私たちの子供も、葉月ちゃんみたいに元気に育ってくれるといいわね」
「そうだな。そのためには、両親の俺たちがしっかりしないとな」
 戸高夫婦の会話を聞いていた和葉が、ここぞとばかりに口を挟む。
「私と春道さんみたいにですね」
「これは一本取られたな」
 泰宏の言葉に皆が笑う。平和な午後の日曜日は秋らしく、どこもかしこもポカポカしていた。

 続く

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