その後の愛すべき不思議な家族2
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新年を迎えて雪が解け、春が来て日差しが温かくなる。着実に季節が進み、夏が近づいてくる。小学校に通ってる愛娘とは違い、仕事をしている春道にとっては、1年ごとの違いはあまり感じられない。だがそれは去年までの話であり、今年は例年にない大きな出来事が迫っていた。
初夏と呼んでもいい季節になったとある日曜日。朝の高木家では、葉月が一生懸命にご飯を作っていた。本来なら父親の春道がやるべきなのだが、残念ながら料理の腕に関しては小学生の娘よりも数段下だった。そのため、彼女に料理を担当してもらった。働き者で家族思いの葉月は、他にもお風呂掃除もやってくれる。
春道は仕事をしながら、洗濯や掃除などをこなす。家事を分担し、父娘で協力し合いながら日々を送る。普段なら妻の高木和葉が担ってくれてるのだが、生憎と彼女は不在だった。夫婦喧嘩の果てに家出をした、などの理由ではない。きたるべき時がきただけの話だ。
調理されたばかりのハムエッグとウインナーの乗った皿をダイニングテーブルへ運んでいると、可愛らしいエプロンをつけてキッチンに立っている葉月が話しかけてくる。
「ママ、今日かな?」
「どうだろう。予定日にはなっているから、そろそろだと思うけどな」
昨年に妊娠が発覚した和葉の出産予定日が間近に迫ったので、戸高祐子も利用した病院に入院中だった。そのため、家事はすべて自分たちでこなす必要がある。仕事をしながらは確かに大変だが、これから出産しようとしてる妻のことを考えれば、とても愚痴なんて言っていられない。
仕事もほどほどにして、毎日病院にも顔を出すようにした。そのたびに和葉はそんなに心配しなくても大丈夫だと笑うが、素直に受け取れない春道は今日もお見舞いに行くつもりだった。
「朝ご飯を食べて、後片付けをしたら、一緒にママの――和葉のところへ行こう」
いつもは夜のわずかな時間しか会えないが、学校が休みの日曜日なら日中から会える。妻の実兄の戸高泰宏の口添えで個室を借りられているので、他の入院患者さんに気兼ねをする必要もない。和葉の状態がよければ、今日は少しゆっくりさせてあげるつもりだった。
平日は午後を過ぎてから面会できる時間になるが、土日は午前11時から可能になる。それを昨日に教えていたので、葉月は後片付けを終えるとリビングでそわそわしっぱなしだった。苦笑しながら、少し早めに家を出ようかと提案する。大きく頷いた葉月は、待ちきれないとばかりに満面の笑みを浮かべた。
病室へ行く前に、スーパーへ寄ってスポーツドリンクや、カフェインの入ってないお茶などを購入する。ケーキなどを持っていっても、いつ陣痛が始まるかわからない状況では、美味しく味わえるかわからない。そこで産後でも問題ないと思われる飲料を選んだ。甘いものを食べるのは退院後でも構わないだろうが、飲み物は人間なら必ず必要になる。
ついでに葉月のおやつも購入した。直接欲しいと言われたわけではないが、何も言わずに商品をじーっと見てるので、何が欲しいのかはすぐにわかる。最初は大丈夫だよと言っていても、春道が購入して手渡すと、いつもの可愛らしい笑顔でお礼を言ってくれる。
おやつを手に入れ、これから母親にも会える。上機嫌にならないはずがなく、常に葉月の顔はにこにこ状態だ。そんな愛娘と手を繋いで、春道は妊娠中の妻が入院している病院を目指す。車で移動してもよかったが、そこまで遠い距離ではないので運動がてらに歩くことにした。日頃から春道の運動不足を心配していた和葉は、その話を聞いて満足そうだった。
「お、着いた、着いた。さあ、和葉の病室へ行くか」
本格的な夏はまだ先とはいえ、今日みたいな快晴の日に外でそれなりの距離を歩けば、軽く汗ばんでしまう。けれど同じように歩いてきた愛娘は平然としてるので、やっぱり歳のせいかもしれない。自身の運動不足を嘆きながら、春道は病院内のエレベーターに乗って目的の個室へ向かった。
部屋の前まで到着すると、葉月が元気にドアをノックする。母親に会うのが待ちきれない。そんな心情が、ひとつひとつの行動に滲みでる。隣で微笑ましく思っていると、室内にいる和葉がどうぞと言ってくれた。遠慮せずにドアを開け、愛娘と一緒に個室へ入る。
「葉月、それに春道さんも、よく来てくださいました」
ずいぶんとお腹が大きくなった和葉が、笑顔で出迎えてくれる。上半身を起こし、ベッドに座っている状態だ。背もたれと腰の間に置いてあるクッションは、妻が入院した当初に必要かと思って春道が100円均一ショップで購入したものだ。腰痛防止になると、とても喜んでくれたのは記憶に新しい。
「元気みたいで安心したよ」
春道が言うと、和葉は「病人じゃないんですから」と笑った。
葉月も母親の顔が見れて、安心したように側へ歩み寄る。恒例の行事として、まずは大きくなったお腹にそっと自分の耳を当てた。「赤ちゃん、いるんだね」
「フフ。もうすぐ葉月もお姉ちゃんね」愛娘の紙を撫でながら、いつものように優しく微笑む。
母娘のやりとりにほんわかしながらベッドサイドテーブルを見ると、何冊かの雑誌が置かれていた。春道が購入してきたのもあれば、お見舞いに来た和葉の友人たちが持ってきてくれたのもある。基本的に妊婦は病人ではないので、絶対安静というわけではなかった。まして和葉は安定期のうちに入院中の準備を済ませていたので、いざ入院となった時に時間が余ってしまった。最初はのんびりしていたが、徐々に退屈さが増してきた。先日、春道がひとりで顔を出した時に、苦笑しながら教えてくれた。
毎日の家事は大変だが、やりがいがあるので早く戻りたい。そんなふうにも言っていた。もちろんありがたいのだが、その前に出産を頑張ってくれと返した覚えがある。経過が順調なだけに、いつ陣痛がきてもおかしくないのだ。産むのは自分でないのに、何故か春道まで緊張してしまう。
「葉月、お腹が空いてない? リンゴでも剥いてあげましょうか」
「大丈夫だよ。パパからお菓子を買ってもらったもんー」
そう言って、葉月がスーパーでの戦利品を和葉に自慢する。よかったわねと笑ってはいるが、ちらりと春道に向けられた視線は厳しい。相変わらず娘には甘いですね。そう言われてる感じがした。このままだとマズいと判断し、慌てて話題を逸らそうとする。
「それにしても、陣痛の前兆ってどんなのなんだろうな」
「祐子さんはお腹が痛くなってくると言ってましたが……こればかりは、経験してみるまでわかりませんね」葉月の頭を撫でながら、和葉が言う。
基本的には平気そうだが、それでも時折、かすかに眉をしかめたりする。何か不安があるのかと尋ねてみるも、和葉は首を小さく左右に振る。
「いえ、そういうのはありません。ただ……朝から腰が少し痛くて……運動不足でしょうか」
かもしれないなと言おうとした矢先、ドアが開いて中年女性の看護師が中に入ってきた。いつの間にかお昼になっており、ご飯を持ってきてくれたのだ。ありがとうございますと受け取った和葉が、葉月にもおかずをあげながら、昼食をとる。けれど全部は食べきれずに、残してしまった。腰痛があると言っていたし、食欲があまりないのかもしれない。
昼食後もあれこれと話しかける葉月に応じていたが、段々と笑顔がぎこちなくなっていく。明らかに普段と違うので、愛娘もすぐに母親の異変を察する。
「ママ、どこか痛いの?」
「心配ないわ。腰が……んっ、痛いけど……少し休めば、すぐに治ると思うから」
愛娘を安心させるように応じていると、部屋に再び先ほどの看護師がやってくる。昼食の食器を下げにきたみたいだった。あまりに和葉が痛そうだったので、春道は看護師にその旨を説明する。自分が言わなければ、我慢強い性格の妻は黙ってると思ったからだ。
「腰痛……ですか? 確かに、少し具合が悪そうですね。確認してみますので、旦那さんと娘さんはそちらへ」
個室の壁側へ春道と葉月を移動させたあと、看護師が和葉の状態を確認する。「あ、これ……陣痛始まってますね」
「え?」春道や葉月よりも、和葉が一番驚いたみたいだった。
「奥さんはすぐに陣痛室へ運びますので、旦那さんと娘さんはこの部屋でお待ちください」
春道がいれば、逆に気になってしまうと、立ち合い出産は当の和葉に拒否されてしまった。多少は寂しい気持ちもあったが、出産するのはあくまでも妻だ。彼女の気持ちを最大限に尊重してあげたかった。
「出産が終われば連絡をしますので、外出をなさっていても結構ですよ」テキパキと和葉を陣痛室へ運ぶ作業をしながら、中年女性の看護師が言った。
陣痛から出産までは、初産だと時間がかかる。事前に和葉の出産を担当してくれる初老の女医さんから、そう説明を受けた。男が分娩室の前でうろうろしてたところで、何の役にも立たない。それどころか、他にも出産しようとしてる女性がいれば、いい迷惑なだけだ。
葉月と一緒に陣痛室まで和葉を見送ったあと、すぐに個室へ戻ってきた。本来なら妻の側で励ますなどしてあげたいが、春道には和葉の世話もある。ほとんど手がかからない子なので、そこまで心配する必要もないが、ひとりにしておくのはさすがに不安だ。
出産に関して男は無力だというのを痛感し、先ほどまで妻がいた病室でしばらくボーっとする。
唐突に、隣に座ってる愛娘が「ママ、大丈夫かな」と不安そうに言ってきた。春道の口数が少なかったので、余計に心配させてしまったのだろう。これではいけないと思い、努めて明るく振舞うようにする。
「頼りになるお医者さんもついてるんだ。大丈夫に決まってるだろ。それより、ファミレスにでも行ってくるか。俺たちまで、今から緊張してても仕方ないだろ」
そう言うと春道は、繋いでる手を軽く引っ張って葉月を立たせた。心の中で、何度も「頑張れ」と和葉を応援しながら。
ファミレスから一旦自宅へ寄ろうかと思ったが、葉月がすぐに病院へ戻りたがった。春道に合わせて明るい表情をするようになったものの、やはり母親が心配らしい。2人で個室の中でじっと待つ。退屈だという感情はない。これまでの人生で体験したことがないほどの緊張で、心臓がバクバクしっぱなしだった。お互いに緊張してるとはいえ、すぐ隣に娘がいてくれてよかったと春道は心から思った。
「赤ちゃんを産むのって、時間がかかるんだね……」葉月がポツリと言った。
そうだなと春道が返した時に、ドアがノックされた。開いたのは、昼食を運んでくれてきていた中年女性の看護師だった。「こちらにいらっしゃったんですね」
「あ、はい。妻はどうですか」
「おめでとうございます。無事に産まれましたよ。とても可愛らしい女の子です」
産まれるまで楽しみにしておきたいという理由で、春道は赤ん坊の性別を教えてもらってなかった。和葉は知っていたみたいだが、今日まで秘密にしてもらっていた。当初は男の子がいいかなと思ったりもしたが、無事に産まれてくれれば性別はどちらでも構わなかった。
「そうですか」そう言った春道の目に涙が溢れた。
隣では、葉月も泣きながら笑みを浮かべている。
「今は体重を計ったり、赤ちゃんを綺麗にしたりなどの処置が行われています。母子ともに健康ですので、安心して分娩室の前で待っていてください」
言われたとおりに分娩室前まで行くと、中年女性の看護師が連絡しておいてくれたのか、すぐに若い女性の看護師が産まれたての赤ん坊を抱いて連れてきてくれた。
「わー、やっぱり、小さくて可愛いねー」赤ちゃんの顔を見せてもらった葉月が大はしゃぎする。
外はいつの間にか真っ暗。それだけの時間、和葉はこの赤ん坊を産むために頑張ってくれた。考えるだけで泣きそうになる。
「……よく頑張ったって、和葉を……ママを褒めてあげないとな」
「うんっ」
赤ちゃんと対面し、感動した気持ちのままで個室へ先に戻る。すぐに和葉も看護師さんによって、個室へ来ることができた。赤ん坊は新生児室へ移され、和葉ひとりだけだ。
「ありがとう」
労いの言葉よりも先に春道の口から出てきたのは、お礼のひと言だった。疲れきってるはずなのに、和葉は頷きながら微笑んでくれる。
「春道さん……あの子の名前、もう決めてたりするのですか?」
「ん? ああ……女の子なら菜の花の菜に、葉月の月の字を貰って、菜月にしようと思ってたけど……」
「いいじゃないですか。私も気に入りました」
「葉月もー」
妻と愛娘が予想以上に快く受け入れてくれたので、なんだか照れ臭くなる。他の名前があればとも話したが、和葉は菜月以外にするつもりはないみたいだった。
「えへへ。早く菜月と一緒に、お家へ帰りたいね」
「フフ、そうね。きっと数日中には戻れるわ。葉月はお姉ちゃんになったんだから、菜月の面倒を見てあげてね」
笑顔の葉月が、元気に首を縦に振る。
本日、6月25日。高木家に新たな家族が誕生した。次女の菜月も、長女と同様に元気な子になってくれるはずだ。
病室の窓から夜空を見上げれば、高木家の将来を祝うようにまんまるな月が輝いていた。
終
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