その後の愛すべき不思議な家族2

   5

 仕事がひと段落した春道は、それまで座っていた椅子から立ち上がる。生じる膝のだるさが、長い時間をそこで過ごしていたのだと教えてくれる。ひとり暮らしだったなら、食事もまともにとってなかっただろう。けれど今の春道には、カロリーと栄養バランスをきちんと計算して、手料理を作ってくれる奥さんがいる。高木和葉だ。少しばかり不思議な性格をしている、可愛らしい娘もいる。名前は高木葉月。春道とは血が繋がっていないけれど、実の娘だと思っている。
 気分と空気を入れ替えようと、仕事へ集中するため、真っ暗にしていた室内のカーテンを開ける。その際に「よっこらせ」と無意識に言ってしまう。他に誰もいない室内で、自分もおじさんになったものだなと苦笑いを浮かべる。入り込んでくる日の光には穏やかながらも、力強い温もりを感じる。春道は袖の長いTシャツを着ているが、袖をまくっていたので、肌で直接暑さを感じることができた。穏やかな春を通り過ぎ、徐々に夏の香りが近づいてきている。それでもまだ風は涼やかで、窓を開ければいたわるように吹いてくる。
 仕事用に使用しているノートパソコンを置いている机の隅に、小さな時計がある。それがこの部屋では唯一、春道に時間を教えてくれる。短い針が、3の位置を少しだけ通り過ぎているのが見える。先ほど昼のサイレンを聞きながらご飯を食べたばかりだと思ってたが、集中してる間に3時間も経過していたらしい。よく食事をとりわすれそうになって、妻に怒られるだけに、とりたてて珍しい現象ではなかった。
 今日も穏やかで平和な1日だな。真正面から外の空気を浴びる。新鮮な酸素で肺が満たされ、それだけで生まれ変わったような気分になる。ある程度の気分転換も終わり、春道は窓を閉めようとする。カタンという小さな音が生じるのは予想していたが、よもやドンと重い感じの音が響くとは予想していなかった。少しばかり驚いてると、背後から「パパ!」と呼ぶ元気な声が聞こえた。
 振り返ると、そこには息を切らしながら肩を上下させている小さな少女が立っていた。彼女こそが、春道の娘の高木葉月だった。不思議な共同生活を始めた頃と比べ、現在ではお互いに、ずいぶんと遠慮をしない仲になっている。
「どうかしたのか?」
 きちんと閉めたのを確認して、窓に鍵をかけたあとで仕事用の椅子に座る。その場で回転させると、背もたれが軽く仕事机に擦れた。その代わりに、同じくらいの目線の高さで愛娘と向き合える。
「葉月、走るんだよ!」
 走るんだよといきなり宣言をされても、春道には何のことかわからない。頭は悪くないはずなのだが、愛娘は興奮すると、要領を得ない会話を展開する癖がある。大体は母親の和葉か、普段から学園で仲良くしている今井好美という友人の女性が通訳をしてくれる。ひとりで帰宅してるので、友人女性が同行しているとは考えられない。妻の和葉は専業主婦をしているので、今の時間は家にいるはずなのだが、姿を現す気配はない。ひとりで対処するしかないと判断した春道は、とりあえず愛娘の暗号ような説明を読み解こうとする。
 駄目だ、さっぱりわからない。そもそも、葉月、走るんだよという台詞だけで、内容を理解できる方が凄すぎるのだ。戸惑い気味に黙ってる春道に、愛娘は先ほどからキラキラした瞳を向け続けている。何かを期待されてるのだけは、その仕草でわかった。
「パパも走るよね!?」
 詳しい内容について聞こうとした矢先、そんな質問をぶつけられた。ここで「もちろんだ」と言うのは禁物だ。葉月はたまに、とんでもない無理難題を用意している場合がある。詳しい事情も知らずに安請け合いをしたら、後悔するかもしれない。というより、今回のケースではほぼ間違いなく後悔をしそうな気がする。

「それは……ママと相談してからだな」
 妻の和葉を巻き込めば、春道ひとりが被害へ遭わずに済む。あとで当人に怒られるかもしれないが、こうした件に関しては家族で取り組むべきだ。要約すると道連れがほしいという意味になる。
「ママは走ってくれるってー。だからパパも全力だね!」
「そうだな、全力だな……って、ちょっと待て。この話は、ママも――和葉も知ってるのか?」
「うんっ。さっき、ママに走るよねって聞いたら、ええって答えてたもん」嬉しそうに葉月が答える。
「……笑顔で?」
「うんっ。ちょっと首を傾げながら、ランドセルを貸してって言ってたけど」
 今の説明で、大体の状況が理解できた。葉月が何を言ってるのかすぐに理解できそうもなかったから、ランドセルを借りたのだ。恐らく中には、何らかのイベントの詳細を記した保護者用のプリントがあるはずだ。妻も承諾してるのであれば、春道に断る理由はない。幸いにして、今は忙しい仕事も入ってないので、多少の時間的余裕もある。愛娘が通う小学校のイベントとなれば、参加してあげるべきだ。
「じゃあ、とりあえず、ママのところへ行くか」
 春道がそう言うと、笑顔で葉月が頷く。まずは彼女が先に仕事部屋を出て、早く来てとばかりに廊下で手招きをする。改めて苦笑いを浮かべながら、招待に応じて春道も部屋を出る。ドアをきちんと閉めて、廊下をゆっくり歩く。小さな背中が嬉しそうに揺れながら、階段を下りようとする。
「はしゃぐのはいいが、階段から落ちないように気を付けろよ」
 階段の途中でこちらを振り返り、元気よく葉月が「うんっ」と返事をする。いつでも楽しそうにしてるのが、彼女の魅力のひとつだ。綺麗にセットされている黒髪を揺らしては、まるで小躍りでもしてるみたいに階段を下りていく。転んだりせずに1階へ到達すると、春道が下りるのを待たずに「ママー」と大きな声を上げながら、リビングへ飛び込んでいった。
 あの分だと、よほど楽しい行事があるんだな。葉月を追いかけて、春道も開きっぱなしにされているドアからリビングへ入る。すると姿勢よく座っている和葉が、ダイニングテーブルに葉月のランドセルの中身を広げていた。点数の悪かったテストでも見つかればドラマみたいだなと笑えるのだが、幸いにして娘の成績はクラスでも中位から上の方だった。
「春道さんもいらっしゃったのですね。葉月が制止する暇もなく、2階へ走って行ったので、こうなるとは思っていましたが……」
 軽くため息をついた和葉は、両手で1枚の薄い紙を持っている。すぐに学校からのプリントだとわかったので、春道は中身について尋ねる。
「何が書いてあるんだ?」
「これは、運動会の案内ですね」プリントに目を落としながら、和葉が答える。
「運動会? この前もやらなかったか?」
 不思議そうに呟くと、和葉ではなく娘の葉月が事情尾説明してくれる。
「きっとそれは、体育祭の方だよー。春が運動会で、秋が体育祭なのー」
「……1年に2回もあるのか。運動を大事にする小学校なんだな」
「そうですね。春は普通に運動能力や団体力を競い、秋はお祭りみたいな感じで楽しくやるという方針みたいです」言ったあとで、和葉がプリントから顔を上げる。
「とにかく、葉月は俺に運動会へ参加しろと言ってるわけだな」
 改めて葉月を見ると、満面の笑みを浮かべて「うんーっ」と頷いたのだった。

 運動会の当日。人の寝室にまで勢力を拡大中のてるてる坊主を押し退け、遮光カーテンを開けて窓から外の様子を確認する。運動会をするには最適な日と表現できるほど、空には澄み切った青色が広がっている。この分だと、葉月はすでに起きていて、大はしゃぎをしているはずだ。布団から起きたばかりの春道は、立ったまま午前6時を示している時計を眺めながら微笑む。どーんと叫びながら、寝ているところをフライングボティアタックされる前に目が覚めたのは幸いだった。
 顔を洗うために1階へ下りていくと、キッチンから美味しそうな匂いが漂ってきた。身支度を整えてからリビングへ行くと、体操着姿の葉月が、母親の和葉と一緒にお弁当を作っていた。何人で食べるんだと聞きたくなるくらいの量を作っても、愛娘はまだ満足してないらしい。もうそろそろ準備をしなさいと言う和葉に対して、唇を尖らせながら「もうちょっと」と粘っている。
「お弁当を作るのもいいけれど、このままでは運動会に遅刻をしてしまうわよ」
「それはやだー」顔をぶんぶん左右に振りつつも、両手でおにぎりを握るのをやめない。
「2人とも、朝から元気だな」
 ダイニングテーブルへ腰をかけると、春道の存在に気づいた和葉が「春道さんからも、注意してください」と言ってきた。そ知らぬふりをして新聞を読むのは簡単だが、そんな真似をするとあとが怖い。葉月が出かけたあとに鬼嫁へ変身されたら、こちらの身が危うくなる。
「葉月、ママの言うことを聞かないと、パパ、走りに行かないぞ」
「むー……じゃあ、これでやめるー」
 ようやく両手の動きを止めた葉月が、それまで必死に握っていたおにぎりを下に置いてあったまな板の上に乗せた。ドンという重い音に驚いてキッチンへ視線を向けると、葉月のすぐ前には目を丸くするほど巨大化したおにぎりがひとつ置かれていた。
「……それは……おにぎりと言うのか……?」
 質問する声がかすれる。コンビニで売っているおにぎりとは比較にならないサイズで、1人前食べるだけでも相当に苦労しそうだった。
「そうだよー。葉月が一生懸命に作った、パパ専用のおにぎりなのー」
 大体予測はできていたので、大げさには驚かなかった。それでもジョークである可能性を期待して、恐る恐る妻の顔を見てみた。すると和葉は沈痛な面持ちで、首を左右に振った。あの反応を見るに、どうやら彼女は純真な愛娘を一応は止めてくれようとしたらしい。けれど愛らしい笑顔を浮かべた葉月は、目をキラキラさせながら作り続けたのだろう。父親の春道が喜んでくれると思って。
 できれば偶然、腹痛になってくれでもしないかと思ったが、今日に限って春道の肉体は元気そのものだった。葉月の手作り弁当を食べさせられるのは覚悟していたが、まさか巨大おにぎりで勝負を挑んでくるとは夢にも思わなかった。呆然とする春道に、愛娘がさらなる試練を与えてくる。
「おにぎりの具には、パパの好きなシャケを入れたからね」
 楽しそうに教えてくれる愛娘の側には、シャケの切り身が入っていたと思われる空パックが転がっていた。しかしまな板付近を見ても、パックに入っていたはずのシャケが見当たらない。大きな声を出して探したい気持ちもあるが、巨大なおにぎりの中から返事をされるのが怖くて声を出せない。代わりに愛妻の表情を窺うと、今にも泣きそうな顔で頷いた。
「は、はは……おにぎりが巨大な分、具も巨大にしたってことか……こ、これは……食べるのに気合が必要だな」
 その前にどうやって持っていくかだな。春道が悩んでいる間に時刻は午前7時に近づき、早めに登校したい葉月は、元気いっぱいに「行ってきまーす」と言ってから外へ出ていった。間もなく、見送りをしていた和葉がリビングへ戻ってくる。
「……頑張ってくださいね」
「昼食時には、他の保護者からさぞかし驚かれそうだな……」
 せめて昼食後には走る競技がないのを祈りつつ、春道も和葉と一緒に葉月の学校で行われる運動会へ参加するための準備を始めるのだった。

 続く

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