その後の愛すべき不思議な家族

   22

 一旦言葉を切ったあとで、柳田信一郎は自らの心を鎮めようとするかのように、深呼吸を数回行った。
「どんなに頑張っても、所詮は個人対大手企業。目ぼしい商品は先に手をつけられ、仕方なしに見逃されてる中から良さそうなのを見繕って仕入れました」
 そこで柳田信一郎の声のトーンが、さらに一段階落ちる。
 その様子を見れば、結果がどうなったかなんて、聞くまでもなかった。
 相手の口から、案の定な展開が知らされる。
「これまでみたいな売り上げを得ることができず、商品の納入先も次第に当社から手を引いて、大手との取引を始めました」
 個人で経営する会社にとって、安定して商品を仕入れてくれる取引先は命綱そのものだった。
 柳田信一郎は、それを奪われたも同然となった。打てる手はなく、あとは転げ落ちるだけの人生が待っている。
 フリーで仕事をしてる春道には、とても他人事だと笑えなかった。
 一歩間違えば、自分も同様の立場になっておかしくないのだ。一寸先は闇という言葉があるけれど、まさに人生こそがピッタリ当てはまる。
 ひとつの教訓として相手の言葉を胸に刻み、自然と春道も真剣に柳田信一郎の話を聞くようになっていた。
「もう終わりかと思った頃、私の前にひと筋の光が降り注いできました。確実に売れると断言できる商品を発見し、店主に問い合わせたところ日本企業はどこも手をつけてませんでした」
 ここで気分爽快な逆転劇が展開されるのかと思いきや、相手の表情はまだ晴れないままだった。
 身なりの良い恰好をしてるのだから、柳田信一郎の事業が成功したのは間違いない。なのに、ここまではまるで破産者の軌跡である。
 そんな春道の内心など知るはずもない相手男性は、これまでと変わらない調子で言葉を続ける。
「商品の確保を済ませ、高揚した気分で帰国した私を待っていたのは、絶望の電話でした」
 柳田信一郎によると、どうも動向を大手企業の担当者に探られていたらしかった。
 もともと柳田信一郎のやり方を真似して、大手企業が利益を得たのであれば、そういう手段をとる可能性は充分にあった。
「油断していた私にも責任はあります。ですが、こちらが先に手をつけた商品。それに、売れるという確信もありましたので、全財産を使っても勝負しようと決めたのです」
 経営者として勝負時と判断したのであれば、やむをえない決断だった。あとは家族や社員の同意が得られるかどうかだが、その点は春道が心配すべきことではない。しかも、これは過去の出来事なのである。
「覚悟を決めたはいいものの、相手は大手企業。わかってはいましたが、そう簡単に勝つことはできませんでした」
 仕入先との取引先価格はどんどん上昇し、柳田信一郎の会社は瞬く間に窮地へ陥った。
 それでも途中で投げ出すわけにはいかなくなっていたため、どこまでも突っ張るしかなかった。
 一刻も早く大手企業が引いてくれるのを願い、夜も眠れない日々が続いた。震える声で、柳田信一郎が当時の心情を説明する。
「私の選んだ商品の大半が、日本国内でヒットしていたこともあり、大手企業の仕入れ担当者はこちらの粘る姿を見て、余計に売れると判断したみたいでした」
 こうなると勝敗を決めるのは、文字どおり財力の差となる。だが大手企業であるがゆえに、あくまで高い利率を追い求める一面もある。
 柳田信一郎が狙う商品よりも利幅が大きいのを見つければ、そちらへ移行する可能性も出てくる。ここまでで散々後手に回っていた柳田信一郎は、それに賭けるしかなかった。
 値段の上昇を承知で仕入先と交渉を続け、利幅を下げて大手企業の興味を失わせようと考えたのだ。春道も同じ立場であれば、同様の選択をしていた。
「熾烈な仕入れ競争の結果、私の会社の資金が枯渇しました。もうすべて終わった。絶望して街を歩いていた時、ひとりの女性と出会ったのです」

 一度息を切った柳田信一郎が深呼吸をする。ここからが本番だとでも言いたげな態度に、春道も緊張を覚える。
「その女性は私の顔を見るなり、心配そうにどうかしたのですかと話しかけてきてくれました。その頃には友人も離れていく者ばかりでしたので、驚いたのを今でもはっきり覚えています」
 ここで相手男性が、申し訳なさそうな顔をした。
 どうしてそうなったのかを、今の春道が知る由もない。余計な口を挟まずに、男の話を聞き続ける。
「当時は人を信用できなくなっていたこともあり、私はその女性に何でもないとだけ告げて、その場を立ち去ろうとしました」
 それでも、出会ったばかりの相手女性は柳田信一郎を心配して、繰り返し「本当に大丈夫ですか」と尋ねてきたらしかった。
「相手の顔や目を見て、心から案じてくれてるのだとわかりました。けれど、その頃の私はすっかり荒んでおり、性根の腐った人間になっておりました」
 本当なら葉月には聞かせたくなかった台詞が、次の瞬間に柳田信一郎の口から発せられた。
「私だけ落ちぶれるのは不公平だ。そんな気持ちで、優しすぎる女性を騙してやろうと考えたのです」
 これまで黙っていた妻の和葉が「最低ね」と、吐き捨てるように呟いた。
 戸高泰宏どころか、責められた当人の柳田信一郎までもがそのとおりだと頷いていた。
 まるでそれが自分の責務だと言わんばかりに、一切の否定をせずに、和葉の言葉を「そのとおりです」と受け入れる。
「私はその女性に借金で困ってることを話し、幾らかでいいので都合していただきたいと頼みました」
 相手は出会ったばかりの見ず知らずの他人。お金を貸す義理など、どこにもなかった。
 春道に限らず、世の中の大多数の人間が同じ感想を抱く。にもかかわらず、その女性だけは違ったと柳田信一郎が話した。
「理由を聞かないでほしいと言うと、そのとおりに何も聞かず、あるだけのお金を貸してくれました」
 柳田信一郎の願いを聞き入れた女性は、その足で銀行へ行き、貯金を全額下ろしてきたらしかった。
 すぐに返すという柳田信一郎の言葉を信じ、大切な金銭を丸ごと預けたのである。
「本当に驚きました。世の中にこんな人間がいるのかと、お金が入った紙袋を手にしたまま、私はしばらく立ち尽くしていました」
 手をつけないまま、女性へ返却しよう。紙袋を受け取った当初は、本気でそう考えていた。半ば懺悔するように、柳田信一郎が言葉を絞り出した。
「けれど、大金を持って歩いてるうちに、私の中でよからぬ考えが芽生えてきました」
 和葉は信じられないと眉をしかめたが、春道はやっぱりなと思った。
 他人を信じられなくなるぐらい追いつめられた状態で、良心の囁きに従える人間などそうそう多くない。そして柳田信一郎自身も、そういった意味では弱い部類に入っていた。
「これだけあれば、仕入れもなんとかなるかもしれない。いけないとわかっていても、自身が持つ悪の心に逆らいきれませんでした」
 心苦しさのせいか、すらすらと話せなくなった男性に、和葉が「それで、結局お金は戻したのですか」と質問した。
 今までの話で半ば答えはわかっていても、聞かずにはいられなかったのだ。同じ女性だからか、それとも正義感か。真意を知っているのは、問いかけた本人だけだった。
 男性はやや躊躇った後に、小さい声で「……いいえ」と答えた。
「借りたお金を手にしたまま、自分の会社へ戻りました。雇っていた従業員は解雇していたため、その時点で在籍してるのは社長の私ひとりでした」
「では、お金を貸してくれた女性はどうしました。返済の期日、待ち合わせ場所へ様子を見に行くこともしなかったのですか?」

 沈痛な面持ちで、男性はまた視線を足元へ落とした。
 黙っていてはわかりません。そう言いたげな和葉の視線を浴び続け、ようやく柳田信一郎は話を再会させる。
「実は一時的にお借りするという名目で、すぐに戻ってくるからと公園でお待ちいただきました」
 この発言に、和葉の眉が一気に吊り上がる。そうしたくなる気持ちは、春道も一緒だった。
 すぐに戻ってくると言っておきながら、この男は会社へ戻っている。その間、お金を貸した女性が待ちぼうけを食らっていたのは、想像に難くなかった。
「おっしゃらなくても、私が最低なのは重々承知しております。ですが、その時は本当に追いつめられており、人間らしい正常な判断ができなかったのです」
 和葉に文句を言わせていては、話が進まなくなる。春道と同じ判断をしたらしい戸高泰宏が、少し落ち着けという意を込めて肩に手を置いた。
 それを受けて小さな声で「わかっているわよ」と告げたため、戸高泰宏が実妹から手を離した。
 一連の流れが終了するのを待っていたわけではないだろうが、直後に柳田信一郎の次の言葉が場に放たれた。
「戻ってこなければ、騙されたと知った女性が諦めてくれるかもしれない。そんな邪悪な思考にとりつかれていました」
 事業を失敗したからといって、人の親切を踏み躙っていい理由にはならない。到底、男性に同情などできなかった。
「ですが、女性はずっと公園のベンチで私を待っていました。むしろ、何日も戻ってこない私を、心配してる様子さえ見せていたのです」
 柳田信一郎も最悪だが、その女性も大多数の人間とは違う感性を持ってるみたいだった。
 そうでなければ、男性が話したとおりの真似などできるはずもない。もしくは、よほどボランティア精神が豊かなのか。どちらにしろ、春道には理解不可能な対応だった。
「いたたまれなくなった私は、逃げました。お恥ずかしい話です」
 その後の女性の行く末を確認もせず、会社へ戻って仕事に没頭した。言い方だけは恰好いいが、内容は極悪非道である。
 いかな理由があったにせよ、自身が悪いと思ってるのであれば、きちんと謝罪をするべきだった。
 目の前にいる男は、それを怠った。本来なら、訴えられて当然の話である。
「心優しい女性のおかげで、一時的に私の会社は息を吹き返しました。けれど、大手企業との仕入れ競争は、相変わらず劣勢のままでした」
 人を騙した男が、相手を心優しいなどと言うのは侮辱のように思えたが、これはあくまでも柳田信一郎の話である。
 どんなに腹を立てても、当事者でない春道があれこれ文句を言うのは筋が違った。
 わかってはいるが、男のあまりの身勝手さに、そろそろ我慢も限界へ近づきつつあった。
「金融機関に貸し出しをしてくれるところがあるはずもなく、再び手詰まりになりました。このままでは、すべての苦労が水泡に帰します。私は無礼を承知で、最後の手段として例の公園へ出向きました」
 まさかと思ったが、最後の手段というからには、そうとしか考えられない。男は、騙した女性のもとへ再びの借金を申し込みに行ったのだ。信じられないにも、ほどがあった。
 愛妻の和葉なんかは、顔を真っ赤にして、作った握り拳を震えさせている。
 一方で愛娘の葉月は、春道の側で微動だにせずに柳田信一郎の話を聞いていた。
「さすがにいるはずもなく、女性へ待ってるように頼んだ指定の公園を離れた時でした。予期せぬ事態が起きたのです」


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