その後の愛すべき不思議な家族

   36

 それはとても、衝撃的な告白だった。
 愛する妻の言葉が深々と胸へ突き刺さり、高木春道は心苦しさを覚える。
 大丈夫――。そう言って無理に微笑を浮かべる妻――高木和葉の姿に、例えようのない感情を抱いた。
 近いところで言うならば、悲しみや切なさが該当するのだろうか。けれど、やはりわからない。春道自身も戸惑っていた。
「ママ……お仕事、辞めさせられちゃったの……?」
 心配させないよう解雇という単語を使ったにもかかわらず、まだ幼い部類に入る愛娘は母親の台詞の意味を正しく理解していた。
「友達がね、言ってたんだ。解雇って、お仕事しちゃ駄目だってことだって……」
 不況の現代社会、リストラの風はどの会社でも吹き荒れている。
 景気のいい頃は散々儲けていたにもかかわらず、少しでも赤字になるとすぐに従業員の首を切る。
 貯えていた儲けを放出しようとはせず、上層部ばかりがのうのうと甘い汁を吸うのだ。
 もっとも、違うケースも多々ある。最後までリストラをよしとせず、社長自らが金策に走り回る会社も少なくない。だが、それは主に中小企業だった。
 大手になればなるほど、人の使い方もぞんざいになる。学歴がものをいい、どんなに現場で頑張っても、ある一定の役職で出世がストップする。
 遥か高い壁を越えて上へ行くには、引っ張ってくれる上司の存在が重要になる。
 そのためにごますり合戦が発生し、大手の企業内では、高確率で派閥争いが巻き起こる。
 春道はそのような競い合いがあまり好きではなかった。だからこそ、こうしてフリーのプログラマーをしている。
 厳密に言えば、春道が仕事を受注した分だけ、他の誰かが仕事を貰えないことになる。
 多かれ少なかれ、人は生存競争を強いられる。どんなに嫌でも、現実は変えられない。それは社会の仕組みを、再構成するに等しいからだ。
 春道の考察が間違ってなければ、妻もそうした競争を嫌っている。己の仕事を淡々とこなし、生活するのに不足しない給料を貰えば満足する。
 出世は目的でなく、単純に仕事をしていたらついてきたおまけにすぎない。そのように考えてるのではないか。あくまで推測でしかないので、本人に否定されるかもしれないが。
 和葉は愛娘の質問へ明確に答えられず、居心地の悪い重苦しい空気が室内を包み込んでいた。
 状況を一変させたくても、ここで明るい声で笑っても場違いなだけだ。わずかな時間だけの変化に終わり、すぐに元の沈黙に襲われる。
 逃げてはいけない。春道だけでなく、和葉も。そう判断して、まずは解雇された理由について尋ねる。
「一体……何があったんだ」
 和葉は答えない。どうするか悩んだ素振りを見せたあと、葉月へ自分の部屋に戻るよう命じる。
 いつもは素直に言うことを聞いてくれる愛娘も、今日ばかりは嫌だと首を左右に振った。
 困ってため息をついた和葉は、春道からも何か言ってくれと視線を向けてきた。
 だが春道にそのつもりはなく、葉月の同席を許容する。
「葉月だって家族なんだ。本人が知りたいと言うのであれば、聞かせるべきだ。例え……子供にはあまり聞かせたくない話でもな」
 子供にとって何が必要な情報で、何が不必要な情報なのか。それを決めるのは大人ではない。あくまで、子供当人であるべきだ。これが春道の考えだった。
 有害だと思える情報であっても、幼い頃から触れてるうちに善悪の判断がつくようになる。
 それでも見せたくない、聞かせたくないと思うのであれば、家族――とりわけ両親が自分たちの子供から取り上げればいいだけの話である。
 子供のためという言葉を隠れ蓑にして、子供の知る権利を奪ってるだけではないのか。最近の世間の風潮を、そう思わずにはいられなかった。
 だからこそ春道は、自分の娘である少女に、あまり隠し事をしたくなかった。
 その旨を和葉にも告げてから、春道は葉月に「きちんと、聞く勇気はあるか」と問いかける。
「うん、大丈夫。だって葉月は、パパとママの子供だもん」

 出会った頃であれば、このような春道の意向は「論外です」と即座に却下された。
 しかし最近ではこちらの意見もだいぶ尊重してくれ、教育論で熱い議論を交わす回数も減っていた。
 初めてのおつかいや、戸高家での出来事を経て、和葉も母親として成長している。
 妻に限った話だけでなく、春道も同様だった。
 以前はあれほど子供が嫌いだったのに、現在ではそうでもなくなっている。
 他人にあまり興味を見出してこなかった人生のはずが、近頃は顔見知りにも率先して挨拶するようになった。
 近所の人と立ち話をする機会も増え、子供である葉月やその友達にまとわりつかれても、決して不愉快だとは感じない。心にゆとりができた。それは春道自身の成長を意味する。
 きっかけさえあれば、ほんの些細な期間で人は大きく成長できる。春道は身をもって実感した。
「わかりました。実は今日――」
 葉月の意志を確認した和葉は、もう退出するように言わなかった。
 春道と愛娘の前で、解雇理由をポツリポツリと語り始める。
 頭脳明晰な女性だけに、要点だけを集めて整理された説明はとても聞きやすかった。
 それだけに、ショッキングな内容をはっきりと理解できた。
 春道は言葉を失い、葉月は「ママ、かわいそう」と泣き出している。
「そうね……でも、大丈夫よ。すぐに新しい仕事も見つけるし、葉月も何も我慢する必要はないからね」
 諭すような口調で言われれば、娘として葉月は頷くしかなかった。
 しかし春道は違う。どんなに悔しくても、会社の解雇決定は覆せない。相手はしっかりと準備を整えた上で、計画を実行に移した。
 和葉は店長や男性社員に、膝を屈するしかなかった。
 けれどいつの時代も、目の前にある不運が、必ずしも不運とは限らない。人間万事、塞翁が馬という言葉もある。
 幸福か災いかの区別など、誰にもわからない。これもまた、春道の持論みたいなものだった。
「……そんなに急がなくても、いいんじゃないか」
 無理に張り切ろうとしている愛妻の顔を見据え、春道は言葉を発した。
 まったく予想していなかった和葉は、驚きで目を丸くする。
「……確かに、解雇手当と失業保険がありますので、当面は大丈夫でしょうが、如何せん最近は大のつく不況です。早く次の職を見つけるにこしたことはありません」
 妻の意見はまったくの正論だ。だが春道の言いたいことは少し違う。その点を、改めて説明する。
「そうじゃなくて、少しは休めばいいと言ってる」
 和葉は高等学校を卒業してからこれまで、女手ひとつで葉月の面倒を見てきた。
 初めての赤ん坊で右も左もわからない状況下で、仕事をしながらも歯を食いしばって、懸命にここまで育てたのだ。
 ゆえに春道と出会った当初には、愛娘を取られまいと、おびただしい量の敵意を身に纏っていた。
 今なら和葉が、どうしてあそこまで葉月にこだわっていたのか、理由が明確にわかっている。
「ですから、休んでしまっては、様々な面で影響が出てしまいます。生活費もそうですが、春道さんへの――」
「――もっと頼れよ! 俺たちは家族じゃないのか!」
 柄にもなくテーブルをドンと叩き、大きな声を出す。台詞を途中で遮られた和葉も、ビックリして口の動きを止めた。
 心配そうにしながらも葉月は事の成り行きを見守っており、口を挟んでくるような素振りは見せていない。
 妻と娘の視線を浴びながら、春道は威勢良く次の台詞を口にする。

「いい機会だ。そろそろ生活のシステムを変えようぜ」
 これまでは和葉が稼いだお金で生活し、その中から変わらずに春道へお小遣いが支給されていた。
 ギャンブルをやらない春道だけに、散財の心配はなく、そこまでしてもらわなくとも身の回りの物は充分に買い揃えられる。
 不景気の中でも安定的に仕事を貰えており、実績が評価されたのか、様々な会社から発注がくるようになっていた。
 時間に余裕を持って仕事をしていたかったので、受注は最小限に抑えてきた。
 だがメインの受注先の仕事をこなす合間に、他からの仕事を受ければ、収入はさらに増加する。
 現在でも家族三人が、なんとか生活できるぐらいの収入はあった。
 年間で数本の仕事を増やすだけで、現在と変わらない水準の生活を保つのは可能なはずだ。
「どうしても仕事がしたいって言うなら、とめないさ。けど、これからは俺が生活費を工面する」
「工面って……失礼ですが、春道さんのお仕事では、とても、その……」
 口ごもる愛妻を見て、春道は気づいた。
 そう言えば、同居するようになって結構経つのに、まだ一度も正確な年収を教えた覚えがなかった。
 そこで春道は和葉や葉月に「ちょっと待ってろ」とだけ告げて、二階へある自室へ向かった。
 仕事用の金銭を専門に出し入れしている通帳を持ち出し、急ぎ足でリビングへ戻る。
「ほら、これが俺の収入だ」
 春道から通帳を受け取った和葉は「失礼します」と言ったあとで、中を見る。
 予想以上の金額が書かれていたのだろう。この日何度目かとなる、驚きの表情を浮かべた。
「すごーい。パパって、お金持ちだったんだー」
 実際にはお金持ちと呼べる額ではないが、子供の葉月にとっては、見たこともない桁であるのは間違いなかった。
「最近はフリーでも、そこそこ稼げる世の中になってるんだぜ。全員がそうだとは言えないけどな」
 普通なら生活費がかかるのだが、和葉と結婚してからはそうした出費は一切なくなった。
 その分、貯蓄に回せており、人生でもっとも貯金通帳を輝かせている。
「で、ですが……そこまで甘えるわけには……」
「何言ってんだ? 甘えていいんだよ。俺たちは家族なんだしな。たまには俺にも、夫や父親としての仕事をさせてくれ」
 男性がお金を稼ぎ、女性が家で支える。時代錯誤だと言われるかもしれないが、夫婦のひとつの形であることに変わりはない。
 偽装結婚が本物の絆となった際、春道はそうするつもりでいた。けれど、妻の高木和葉の反対で現在の仕組みが継続された。
 下手な論争になるよりはと、春道は甘んじて受け入れた。その上で無駄遣いはせず、いつ何があってもいいように、しっかり貯金はしていた。
「自分の嫁さんや娘を養いたいって考えるのは、そんなに悪いことか? 違うだろ」
 和葉は否定をせずに、じっと春道の意見を聞いている。
「もうひとりで何もかもを背負う必要はないんだ。これからは夫婦で、家族でわかちあっていこう」
「……はい。ありがとうございます」
「だから、お礼を言う必要はないんだ。家族なんだから、誰かが困っていたら、助けるのは当たり前なんだからさ」
 春道が言うと、すぐに娘の葉月も賛同してくれた。
「そうだよー。葉月も、ママのお手伝いするからねー」
 ありがたいことこの上ない発言だったにもかかわらず、春道と和葉は同時に神妙な顔つきで声をハモらせることになる。
「料理だけは許してくれよ」
「料理だけは許してね」
 途中まで見事なくらい一致した台詞を聞いた葉月が、即座に頬をぷーっとふくらませる。
 大事な娘の愛らしいすねた顔を眺めながら、この夜、初めて和葉は大きな声で笑った。
 それを見て、春道も安堵の笑みを浮かべるのだった。


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