その後の愛すべき不思議な家族

   37

 その日、高木和葉は解雇された会社へやってきていた。
 会社から貸与されていたネームプレートや、制服などを変換するためだ。ほんの少し前まで、二度と足を踏み入れたくないとさえ思っていた。
 和葉が心変わりをした最大の要因は、家族の存在である。とりわけ、夫の高木春道が言ってくれた台詞に、激しく心を揺さぶられた。
 まるで本物の夫婦みたいね。そう考えたところで、和葉は苦笑した。
 すでに本当の家族になっている。書類だけで夫婦になった当初とは違う。もしかしたら、まだ当時の感覚が抜けきってないのかもしれない。
「これはご苦労様です」
 事務所へ行くと罠へはめてくれた、決して有能とはいえない店長がいた。
 事前に訪れる連絡をしていたため、わざわざ待っていたのだ。
 恐らくは、和葉の惨めな姿でも見てやろうと、見物を決めたに違いなかった。
 けれどすでにショックからは立ち直り、和葉は普段と何ひとつ変わりなかった。
「お疲れ様です。今までお世話になりました」
 頭を下げずに、微笑みながら別れの挨拶をしてやる。
 拍子抜けしたのか、それとも驚いたのか。店長はやや戸惑い気味に「ああ」と発しただけだった。
 すぐに居心地悪くなったらしく、店長は仕事があるからと事務所を去っていった。
 後に残された和葉へ、一緒に仕事してきた総務の女性が「本当に辞められるんですか」と声をかけてくる。
 今年入社したばかりの大卒社員で、可愛らしい顔に加えてスタイルもいい。誰が彼女を射止められるかと、男性社員の間では噂になっている。
 入社したての和葉にも同様の話があり、当時はうっとうしいぐらいに食事へ誘われた。
 だが子持ちであることを話してやると、大半の男性が及び腰になった。
 無理もない。高校を卒業後、入社してきた女子社員に子供がいるなど、誰ひとり予想してなかったに違いない。これにより、誘われる回数も激減した。
 しかし、いつの世にも諦めの悪い人間がいるもので、子供がいても構わないと言ってくる男性もいた。
 その頃の和葉は子育てと仕事の両立で、目が回りそうなぐらい忙しく、恋人を作ろうなんて思考的余裕はとても持てなかった。
 会社と自宅を往復するだけで、とりたてて面白いイベントがあったわけではない。葉月が熱を上げればひとり不安になり、育児書を持ったまま病院へ駆け込んだりもした。
 主治医に慌てすぎと言われて赤面したりもしたが、今ではすべてがいい思い出だった。
 小学校に入ると娘の身体も丈夫になってきて、赤子の頃ほどに発熱したりもしなくなった。
 手がかからなくなってきたこともあり、和葉は葉月に留守番を任せてより仕事へ専念する。
 働きぶりが認められて出世すると、給料も役職に合わせてアップした。
 子供ひとりを抱えての貧困生活から、ようやく脱却の兆しが見えた。
 寂しい思いをさせてるとわかっていながらも、不自由のない生活を送るために和葉は仕事へ励んだ。
 そうして総務課長の地位まで駆け上り、比例して給料も結構な額になった。
 葉月も小学校生活に慣れて、何もかもが順調に思えた。
 けれど娘は、父親の存在を気にするようになった。仕方なしについた嘘が、和葉の運命を大きく変える。
 最初の頃はどうしてあんな嘘をと思い悩んだりもしたが、今ではありえないくらいの偶然に心から感謝している。
 高木春道と出会い、紆余曲折の果てに心からの絆を手に入れた。
 結果的に会社を解雇されてしまったが、家族を優先させてきたここ最近の行動に、和葉は微塵も後悔していなかった。
「ええ。貴女も元気でね」
 声をかけてくれた新入社員の女性に笑いかけ、励ますために肩を一度だけポンと叩いた。
「私、納得できません。確かに、高木さんは連絡して、有給休暇をとったはずなのに……」
「そうね。でも、仕方ないわ。もう決まってしまったのだから」

 店内の人事の裁量は、基本的に店長にある。けれど、幹部クラスになると、本社から辞令が交付される。
 店長の上に位置する統括店長が、各店の幹部には誰が相応しいか決める。
 とはいえ、各店の店長からの報告書類が参考資料となる。
 店長を通り抜けて統括店長が、一社員を幹部に抜擢するなどほぼ起こりえなかった。
「でも……」
「心配してくれるのはありがたいけれど、貴女は貴女の仕事をしなさい。まだ細かいミスをすることもあるでしょう」
 総務内で誰かがミスをすれば、決まって修正作業をするのは和葉だった。
 ただし、どこをどうすればいいのかは、きちんとミスをした人物へ教えた。
 丁寧な指導だと若手社員の受けはよかったが、プライドの高い男性社員には、どうにも気に入らないらしかった。
 総務なんだから、黙って直しておけばいいだろ。そんな発言をされたのも、一度や二度ではない。もっとも、そうした台詞を口にするのは、決まって同じ社員だった。
 和葉の欠勤連絡を受けながら、無断にした男性社員である。
 会議などで使用する資料も和葉が作成する。各部署の売り上げや、経費のチェックも、もちろん仕事のうちだ。
 少しでも不明な経費は認めず、帳簿上のロスが出ないよう徹底的に管理した。
 おかげで本社の評価は高くなったが、接待費などもあまり経費にできない店長は、内心で腹を立てていた。
 だからこそ、男性社員との計画に賛同して、和葉を解雇へ追い込んだのである。
 今さら恨み節を言うつもりはなく、遅かれ早かれこうなっていたのだと和葉は自分を納得させる。
「今まで、本当にお世話になりました」
 丁寧にお辞儀をしてくれた女性社員に「貴女も頑張ってね」と声をかけたあとで、和葉は二度と訪れる機会がないであろう事務所を後にした。
 この町へ越してきて以来、およそ十年に渡って勤務してきた。
 明日から出勤できなくなるかと思えば、一抹の寂しさもある。
「……ありがとう……ございました……」
 外へ出た和葉は会社を見上げて、小さくお礼の言葉を呟いた。
 子持ちの高卒女性。それも就職が決まってなかったのを、中途採用で受け入れてくれた。
 現在の住宅を紹介してくれたのも、そもそもは会社であり、おかげで格安の家賃で住めた。
 会社を辞めても住めるようにと社宅扱いにはせず、あくまで和葉の名義で契約した。
 その際には、当時の店長が保証人になってくれた。せめてもう一度だけお礼を言いたかったが、有能な人物だっただけに、今ではずいぶんと出世しているはずだった。
 該当の男性は四十代であったものの独身で、思い違いでなければ和葉に好意を抱いてくれていた。
 けれど関係を強要することもなく、むしろ黙って見守ってくれた。感謝の念は今でも尽きない。もし、当時の和葉に男性と付き合う余裕があったのだとしたら、単なる上司と部下よりも一歩進んだ仲になっていた可能性もある。
 すべては想像の話で、現在の和葉は成長し、愛すべき家族もいる。想い出は心の中にあるからこそ、いつまでも美しい。少しだけ微笑ましくなり、いつの間にか寂しさはどこかへ消えていた。
「そういえば、今日は近くのスーパーで特売があったはずね。買物でもして帰りましょう」
 自宅に戻れば仕事中の夫がおり、午後になればお腹を空かせた育ち盛りの娘も学校から帰宅する。
 今までは仕事で留守にしていたが、これからは可能な限り面倒を見てあげられる。
 時間を気にせずに授業参観へ出かけられるし、学校の行事にも顔を出せる。
 より母親らしいことができる。そう考えると、和葉の足取りは自然と軽くなっていた。

 数日後、職業安定所や市役所などへ必要書類を提出し、忙しく動き回ってる和葉のもとへ電話が入った。
 辞めたばかりの会社からで、相手は総務の新人女性だった。
「あ、高木さんですか。今、本社のお偉いさんが来てて、話したいらしいんです。お時間、大丈夫ですか」
 本社のお偉いさん? 和葉は戻ってきたばかりの自宅リビングで小首を傾げた。
 もしかしたら辞める前に提出した書類に、何らかの不備があったのかもしれない。ソファに腰かけてから「大丈夫よ」と返した。
 お偉いさんは側へいるらしく、女性社員はすぐに代わると告げた。
 近くにいる本社の人間を、堂々とお偉いさん呼ばわりしてたことになる。
 和葉の見立てでは、新人女性はそんなに度胸のあるタイプではない。となれば、彼女の言う本社のお偉いさんが、この上なく気さくな人物なのだろう。
「もしもし。松島君――いや、今は高木君になったそうだね」
 電話を代わった男性の言葉には、聞き覚えがあった。
 和葉がまだ高校を出たての小娘だった頃、色々とお世話をしてくれた当時の店長だった。
「店長……ですか。お久しぶりです。ですが、どうしてそこに?」
「実はつい最近、人事部の本部長となってね。本社勤めをしているんだが、そこへタイミングよく君の解雇報告があがってきた。無断欠勤が理由となっている」
 報告したという証拠は何もないので、書類を否定はできない。和葉は「そのとおりです」と相手の発言を認める。
「なるほど。だが、昔の君を知ってる私にすれば、どうにも信じられない。君は極めて優秀な社員で、転勤が可能であれば私の元へ引っ張りたかったくらいだ」
 社員になる際には転勤の有無も聞かれる。和葉自身はどちらでもよかったが、ひとつの地に留まっていた方が娘のためになるのではないかと考えた。
 そのため転勤NGになっており、店長が邪魔だと思っても、他の会社へ放りだせないようになっている。
 ゆえに卑怯な手法を使ってまで、和葉を辞めさせる方向へ持っていった。
「実際に視察へ訪れてみると、現場の従業員は一部を除いて君の味方だ。同じ総務の女性社員に至っては、欠勤の報告を受けてるとも証言している」
 中には、店長と一部男性社員の謀略だと吐き捨てる従業員もいた。かつての店長で、現在の人事部本部長はそう付け加えた。
「だから不正がなかったかしっかり調査をして、あった場合には相応の措置をとる。そのように話したら、あっさりと店長が口を割ってくれたよ」
 決して有能でない店長は己の保身に走り、すべての罪を共謀した男性社員ひとりへ被せるつもりなのだろう。そうでなければ、最後まで黙秘を貫くはずだ。
 店長が真相を曝露すれば、もはや男性社員を守ってくれる人間はいなくなる。
 巻き添えを恐れて、仲が良かった社員たちも離れていく。きっと和葉を罠にはめた男性は、ひとりで頭を抱えている。
「そういうわけだから、君さえよければ、すぐにでも復帰の手続きを私の方でしよう。従業員の人望が厚い社員は大歓迎だ」
 かつての上司の申し出は、大変ありがたいものだった。
 生活費云々を考えれば、仕事に復帰するのもいい。けれど、和葉にその考えはなかった。
「申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
「どうしてかな?」
「今の私には、頼りになる旦那様がいますので、これからは専業主婦でいきたいと思います」
 専業主婦という響きに、なんとも言えない嬉しさを覚える。
 葉月をしっかり育てなければ。半ば使命感みたいなものを活力に、これまで頑張ってきた。
 けれど春道に「甘えていい」と言われた瞬間、和葉の身体からふっと力が抜けた。
 緊張の糸が切れたのかもしれない。しかし、決して不快ではなかった。
「そうか……どうやら、良い相手に巡りあえたみたいだね」
「はい。これ以上は、のろけになってしまいそうですので、これで電話を切らせていただきます」
「……ああ。それでは、こちらも失礼するよ」
 会話は終わり、電話が切れる。これでよかったのだと、和葉は改めて思う。
 その時、タイミングよくリビングのドアが開いた。
「あ、春道さん。お仕事、お疲れ様……で……す?」
 振り向いた和葉の視界に飛び込んできたのは、髪がボサボサでパジャマ姿のままの高木春道だった。
 大きな欠伸をしながら、ポリポリとお腹を掻いている。誰がどこからどう見ても、寝起きだとわかる状態である。
「何か食べるもの……あるかな?」
 こうした姿を見せてくれるのも、家族として心を許してくれているからこそだ。
 わかってはいる。わかってはいるけれど……和葉の中で、何かがプツンと切れた。
「もうお昼なのですから、少しはシャンとしてくださいっ!」
「えっ!? いや、その……わ、悪かった。き、着替えてくるっ!」
 慌てて逃げる春道を背中を眺めながら、和葉は小さな声で呟いた。
「女性は、好きな男性にはいつでも格好よくいてほしいものなのです」
 忙しなくリビングから退出していく夫に、その声は届いていない。もっとも、そうなるように仕向けたのだから当然だった。
「……わかった。努力する」
「――え!?」
 立ち去り際に放たれた高木春道の言葉は不意打ちも同然で、和葉は自分の顔が瞬く間に赤くなっていくのを感じていた。


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