その後の愛すべき不思議な家族

   38

「何か……変な感じがしますね」
 昼食の席上、自宅のリビングで、高木春道の愛妻こと和葉がそんな台詞を発した。
 そうかと相槌を打ちつつも、無理もないと春道は思った。
 つい先日まで妻はキャリアウーマンも同然であり、古臭い表現かもしれないが、バリバリ仕事をしていた。
 つまらない男の嫉妬で職を失うはめになり、途中で一度パニクっていたが、もうそれも落ち着いている。
 春道にもそこそこの稼ぎがあるため、プログラマーとしての収入で食べていくことに決定した。
 葉月は若干、話についてこれなさそうにしていたが、春道の説明ですぐに理解してくれた。
「ママのお仕事がなくなっても、パパがお仕事してるから、大丈夫さ」
 この台詞ひとつで万事解決である。愛娘は元気に「うんっ」と頷き、それを見て和葉もようやく普段どおりに微笑んだ。
 子供の笑顔というのは不思議なもので、当人が意識していなくても、周囲を元気にする力がある。
 春道もそれで、何度も勇気付けられたか……は記憶にあまりないが、とにかく和葉が立ち直るのに充分な威力を発揮してくれた。
 その娘も、現在は小学校で勉強に励んでいる。名残惜しそうにしていたが、冬休みはすでに終わっていた。
「妙に落ち着かない……といえばいいのでしょうか」
 働き者の和葉は、午前中のうちに掃除や洗濯を終えている。
 そもそも会社員だった頃から、洗濯物や汚れた食器を溜めているのを見たことがなかった。
 春道がひとり暮らしだった頃は、仕事が忙しくなると、台所は惨劇の現場になっていた。
 ところが和葉の場合は違う。どんなに慌しかろうと、きちんと自分が行なうべき仕事は完了させる。
 申し分ないくらい完璧な女性に思えるが、もちろん欠点もある。
 溺愛している娘に甘いのは周知の事実だが、当人が仕事を出来すぎるがゆえに、他者へも同レベルの成果を求める傾向がある。
 恐らくその点が同僚の男性社員の癇に障り、嫌がらせという形容でも生易しいぐらいの仕打ちを受けた。
 訴えれば勝てるぐらいの内容だが、和葉当人にそのつもりはないみたいだった。
 聞いていた話では確たる物証もないみたいなので、春道も妻の判断に異論はなかった。
「まあ……新鮮ではあるな」
 妻が作ってくれた昼食を頬張りながら、春道は呟くように言った。
 食卓の正面に座っている和葉が、その言葉を聞いて、一時的に箸を止める。
「新鮮……ですか」
「ああ。毎食、和葉の顔を見ながら、食事するなんて今までなかったろ」
「確かに……そうですね。私も春道さんも、不規則な仕事時間でしたから」
 葉月以外は、食事の時間は実に適当だった。
 わざとそうしてるのではなく、和葉の場合はシフトによって仕方ない面があった。
 遅番で夜に家を空ける場合は、冷蔵庫におかずをしまっておき、葉月がレンジで温めて食事をする。
 自宅で仕事をしている春道は、できる限り同席してあげたいと考えていたが、没頭すると時間を忘れる癖がある。
 葉月は常に一緒に食事をしたがったが、仕事を邪魔しては悪いと考えているようで、そういった場合はひとりで食べていた。
 呼びに来るという方法もあるが、仕事に集中しすぎていると、誰かが部屋へ入ってきてもまったく気づかない。そのせいで、葉月との外食の約束をすっぽかしてしまいそうになったこともある。
 だが和葉が辞職してからは、大抵の場合、家にいる。春道がいつ食事をしに来てもいいように、待っていてくれるのだ。
 そこまで気を遣う必要はないと言っても「家にいるのですから、せめてこれぐらいはさせてください」と譲らない。頑固さは高木家でナンバーワンなので、下手に逆らわないでおこうと決めた。

 しばらくは普通に食事をしていたが、ふと春道が目を上げると、ため息をついている愛妻の姿が目についた。
 春道が食事に集中しているのを見て油断したのか、普段の和葉ならば滅多に見せない仕草だった。
 ズケズケと何でも聞きすぎるのもどうかと思うが、相手に気を遣うあまり、事なかれ主義になるのも好ましくなかった。
 とりあえず尋ねてみてから考えようと、春道は口を開いた。
「まだ何か、気になってるのか?」
「……何のことでしょうか」
 さすがは和葉というべきか、すぐに平静を取り戻して春道へ接してくる。
 何も聞かないでくださいと言わんばかりの視線が、こちらの決意を狂わそうとする。
 出会った頃の春道であれば諦めたろうが、今は違う。れっきとした夫婦であり、必要以上に遠慮することはなかった。
「ため息ついてたろ。悩みがあるなら、聞くぞ。それぐらいなら、俺でもできるしな」
 妻の手料理を頬張りつつ、そんな台詞を口にする。
 俯き気味に話しているのは、照れている姿を相手に見せたくないからだ。
「私がため息ですか? 春道さんは仕事のしすぎです。お昼から、幻を見るぐらい疲れているではありませんか」
 どうやらこちらの指摘を認めるつもりはないらしい。だが春道も、このままむざむざと引き下がるつもりはなかった。
「無意識のうちにため息をついているのなら重傷だな。今のうちに、必要な対処をする必要がある」
「……別に悩んでいるわけではありません。これまでと生活ペースがガラリと変わったので、少々戸惑っているだけです」
 家庭を大事にしつつも、懸命に仕事をしてきた。
 その女性が突然に職を失ったのだから、以前と変わらない態度でいろというのが無理なのかもしれない。細かい気持ちは当人にしかわからないが、春道もなんとなくは理解できた。
「なら、どこか出かけてみるか? いい気晴らしになるかもしれないぞ」
「いえ……遠慮しておきます」
 一瞬、嬉しそうな顔をしたので、応じるのかと思いきや、和葉が発したのは断りの言葉だった。
「春道さんには、お仕事があるはずです。邪魔をしたくはありません」
「邪魔……って、レベルにはならないぞ。大丈夫だ」
「――駄目です。本人が大丈夫と思っていても、そうではないケースがありますから」
 妻が会社を辞めた経緯を知っているだけに、春道は何も言えなくなる。
 春道が家庭を大事にするのを喜ぶ一方で、仕事に専念させてあげたいと考えてるに違いなかった。
 厳しく真面目な口調を使用する和葉は、とても情に厚くて、責任感の強い女性である。
 表面上の態度で判断すれば、時に勘違いもするが、ある程度一緒に過ごしていると、微妙な雰囲気の違いで相手の真意を察せられるようになる。
 直感といってもいいものだったが、意外と当たるので助かっている。それによると、和葉は春道に悩みを知られたくないみたいだった。
 ならば放っておくのが一番なのに、そうしようとすると春道の心がもやもやする。
「俺の心配なら、しなくてもいいからな。この前も言ったけど、俺たちは家族なんだ」
 励まそうとして言ったつもりが、何故か和葉は辛そうな表情を浮かべた。
 心情が顔に出てると気づいたのか、すぐにいつもの愛妻へ戻ったが、それで誤魔化されてやれるほどの器量は春道になかった。
「もしかして、俺に生活の面倒を見てもらうのが心苦しい……とでも、考えてるんじゃないだろうな」
 かすかに和葉はギクリとした顔をする。当たらずも遠からずといった感じなので、似たようなことを考えていたのだろう。春道はため息とともに、言葉を口から放出する。
「何度も言ってるだろ。助け合って当然なんだ。気にするな」

「……気にします!」
 やや強めの口調で、和葉が反論してきた。
 真っ直ぐに春道を見つめてくる瞳には、透明な液体が滲んでいる。
「私の都合で、春道さんを家に呼んでおいて……勝手に条件を破棄した挙句、お世話にまでなっているのです」
 春道が「おいおい」と落ち着かせようとする直前、愛妻が右手を上げてこちらの動きを先に制した。
「わかっています。春道さんは、そのように思っていません。家族を支えるのが、普通だと思ってくれている」
 大変嬉しく、そしてありがたいです。和葉は続けた言葉で、春道へお礼を告げた。
 それなら何の問題もないはずだ。春道にはそう思えても、妻には違うみたいだった。
「けれど、私自身が納得できないのです。今でこそ、幸せな家庭を築けていますが、当初はこちらの都合で無理やり作っただけの家族でした」
 その点に関しては、春道も反論するつもりはなかった。
 お互いに恋愛感情など抱いてなかったし、葉月の成長と共に離婚についても話し合う予定だった。
 いわば偽装結婚であり、生活費等の面倒を見てくれるという好条件につられて、春道も応じたにすぎない。和葉は、そうした当初の成り行きを気にしている。
「春道さんは、私が考えていたよりもずっと素晴らしい人でした。だからこそ、私は当初の約束を完璧に履行する責任があったのです」
 頑固な一面を持つ愛妻だけに、ここで春道が「それは違う」と言ったところで、聞いてくれそうもなかった。
 正攻法が駄目ならば、変化技を駆使するしかない。何かいい方法がないものかと、春道は自らの頭脳をフル回転させる。
「私は約束を守れませんでした。その上、春道さんだけに負担をおかけすることになってしまって……」
 愛妻が悩んでいる理由はようわかった。あとは、それを解消させるだけだった。
「和葉さんっ!」
 涙を流す和葉の言葉を遮って、今度は春道が会話の主導権を握る。
「は、はい……な、何でしょうか」
 突然にさん付けされて戸惑う愛妻へ、春道は思いついたばかりの台詞を送る。
「俺と結婚してください」
「……え?」
「主婦になってもらいますけど、その代わりに食事や生活費は俺が負担します。その条件で、どうですか」
 いきなりの展開に呆然とする和葉へ向けて、なおも言葉を続ける。
「娘が大きくなっても離婚はしませんが、干渉は好きなだけしてもらっても結構です。プリンひとつで、文句は言いませんよ」
「なっ――! そ、それは……いつまでも、昔のことを引きずるのは、春道さんの悪いところですよ」
 台詞こそ怒っているものの、表情は先ほどまでとは打って変わって穏やかになっている。
 どちらかといえば、微笑んでるようにも見える。
「俺からのプロポーズを受けてもらえますか」
「……はい」
 はにかんだ笑顔で頷く妻が、春道の目には誰よりも綺麗に見えた。
 改めて愛しさを増した女性の手を握ると、妻はにっこりとしてくれた。
「では、まずは妻として、夫の生活リズムを規則正しくすることを心がけたいと思います」
「……何?」
「生活の乱れは心の乱れ。専業主婦として家にいる以上、誰より夫の健康を気遣うのは当たり前です」
 急に元気を取り戻した和葉が、続いてとんでもない宣言をする。
「二階にある山のようなスナック菓子やコーヒーも処分しましょう。飲み物は番茶が基本になります」
「ま、待ってくれ! た、態度が豹変しすぎだろ。お、落ち着くんだ」
「ご心配なさらなくとも、私はいつでも冷静です」
 残り少しとなっている昼食を急いで平らげると、足早に春道はリビングを後にしようとする。
 一刻も早く自分の城へ戻って、隠し財産であるスナック菓子などを退避させるつもりだった。
 そのため、春道は聞けば歓喜間違いなしの台詞を聞き逃すはめになる。
 ドアが閉まったリビング。ひとり残された和葉が、ゆっくりと口を開く。
「ありがとう、春道さん。私は、貴方と結婚できて、とても幸せです」


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